『偶然とは何か』竹内啓(岩波新書ー新赤版1269)偶然を巡る物語 #13

偶然に纏わる物語を、ふたつほど交えながら。

創作その1

もう十年ほど昔のことだが、(賃労働の)職場における雑談で、確率の不思議が話題に出たことがあった。

宝くじが当たる確率は? とか、クラスにおなじ誕生日のひとのいる確率は?(誕生日のパラドックス)と云った、確率を巡る与太話だ。

そのなかで僕が次のようなことを云った。

「サイコロの目の出る確率がどれも1/6なら、たとえば一回振って一の目が出たら、つぎに振るときもつづけて一の目の出る確率は、1/6より下がるのではないか。だって、最終的には確率1/6と云う平均へ向かっていくはずで、ひとつの目が出たら、その出目の確率はその時点で平均より高くなっているのだから、つぎにその目の出る確率は、下がっていないといつまで経っても1/6にならない」

私大文系出身の、数学音痴ばかりのそろう職場にあって、ただひとり理系博士号を持つ僕は、この手の話ではある種の「権威」、と滑稽にもとらえられていたため、この怪しげな言説は、まことしやかな話として信じられた。

いま考えれば、これにはいくつか欺瞞がある(とおもっている)。

曰く、そもそも確率論は、大数の法則と云うように、何遍も繰り返した後の、大きな数を前提としないと、その結果を云々できない。
或いは、サイコロを振る、と云う事象は、確率論的には一回一回が独立しており、先の出目と次の出目に相関はなく、互いの関係を云々すること自体、ナンセンスである。などなど。

が、上記の僕の言説に、納得したくなってしまうのもまた人情と云えて、ここにもまた確率の不思議(或いは理解し難さ、と云ってもいい)が内在しているようにおもわれる。
僕自身、今でもやっぱりほんとうなんじゃないか、とおもっていたりもして、じつのところ答えはよくわからない。

この偶然を巡る本に何か手掛かりが、あの十年前の疑問に対する解答が、何かしら書かれているかもしれない。そうおもって答えを探すように読んだ。

残念ながら明確な解答を見出すことはできなかったが(やはり問いそのものが愚かだったのかもしれない)それでも確率に対してぼんやり抱いていた不可思議さが、少しは明瞭になった、ような気はする。

僕の疑問は、主観確率と云う考え方なのかもしれない。或いはモンティ・ホール問題(本のなかでは「地獄行きは誰か?」(88頁)と云うコラムで紹介される)の変形なのかも。或いはまた、確率論は結果の十分出揃った後の、平衡状態に基づく理論であるから、つぎにサイコロの出る目の確率、と云ったような、中途の状態には適用できず、非平衡統計力学のような、発展途上の理論の完成を待たねばならないのかもしれない。

創作その2(或いは読んだきっかけ)

ほとんど毎週のように、子どもといっしょに図書館へ行く。
絵本を借りるためだが、せっかくだからと、自分の読みたい本も物色することにしている。
見るのは新着図書の棚と、返却本の並ぶラックだ。

返却されたばかり、ということは、少なくとも誰かひとりはさいきんまで読んでいた(もしくは読もうとおもっていた)ということであり、そういう本は、少なくとも誰も借りない本よりはオモチロイだろう、というのは、僕も読む十分な動機となりうる。

図書館には(あるいは書店も同様だが)ただでさえ膨大な数の本が並ぶ。
何かフィルターを設けないと、何を読んでいいのかわからないし、興味の趣くままに借りたところで、家へ帰ればやはり膨大な量の積読の山が聳えたっている。
誰かの読んだ履歴が、僕にとってのフィルターになる。

この本は、図書館で返却本のラックを眺めていて「偶然」見つけたものだ。
仕方がない、読むしかないな。その場で即座にそうおもって、借りて帰って読んだ。何という偶然。

が、これはほんとうに「偶然」なのだろうか。
さいきんの僕は岩波新書をよく読むようになっていたし、返却本のラックを眺めるのは日課だった。そこにこの本があった。
陰謀論めいた話をしたいわけではない。
ただ、しばらくまえまでは新書にはまるで興味がなかったし、図書館へ足繁く通うようになったのもさいきんのことである。
どこまでが「偶然」で、どこからが「必然」なのか。それは線引きのできることなのだろうか。
僕はほんとうにこの本を「偶然」読んだのだろうか。

引用

この本の主張は、ほとんど以下の文に集約されていると云っていい。
少し長いが、重要なので引用する。

自由主義経済学者は、自由な市場競争の結果はすべて自己責任であり、それについて不満をいったり、あるいはそれを是正するような政府の干渉を求めたりすることは「市場の効率性」を損なうものであるという。しかし、どのような社会においても、人間は親から受け継いだ遺伝子や生まれた環境に大きく作用され、それらは多く偶然といわざるをえない。「市場競争」の結果もまた多く「偶然」に影響されるものであるとすれば、その結果は常に各人の自己責任に帰すべきであるということも成り立たないはずである。
 「運」や「不運」は、各人にとっては、結局は自ら引き受けなければならないものであるとしても、社会の中で、自分の「幸運」は当然自分の権利であり、他人の「不運」はその人の「自己責任」であって知ったことではないとするのは、同義的に正当とはいえないであろう。「運」「不運」は、他人と分かち合うことによって「偶然の専制」を和らげるべきではなかろうか。(…)
 実際人々は、自然災害などによって被害を受けた人々に対して、進んで援助することが多い。そのような場合には、被害を受けたことが、その人々の「自己責任」であるといえないことは明白であるが、病気、失業などの場合でも、それは自己責任とはいえない「不運」であった場合が多いのであって、それに対して「幸運」にもそのようなことをまぬがれた人々の負担において、社会的な救済、保障措置が取られることは正当である。どのような場合にも、すべての人々に人間として必要な生活条件が保証されるべきであり、そのための費用をより幸運な人々が負担すべきであるという社会福祉国家の理念は最近ともすれば忘れられがちであり、時には自由主義経済学者たちによって明確に拒否されているが、それは彼らがいうように「優れた人々」の犠牲において「劣った人々」を助けることではなく、「偶然」のもたらす「運」「不運」の影響をできるだけ小さくすること、そのため「幸運」な人々が、その幸運の一部を「不運」な人々に分けることであると理解すべきである。

167〜169頁

しばらく前に出たマイケル・サンデル『実力も運のうち』を彷彿させるが(僕はまだ読んでいないが)、この本の出たのは2010年である。その先見の明に驚いている。
自己責任、ということばをよく聞くようになったのは、この十年ほどで、第二次安倍政権以降のこととおもっていたが、その萌芽はもっと前、小泉政権時代の、竹中平蔵によるレントシーキングに端を発している。
控えめにいって、ざけんな、である。くたばれ新自由主義、くたばれメリトクラシー、である。

「百万人に及ぶ死者を出すような原子力発電所のメルト・ダウン事故の発生する確率は一年間に百万分の一程度であり、したがって「一年あたり期待死者数」は一であるから、他のいろいろなリスク(自動車事故など)と比べてはるかに小さい」というような議論がなされることがあるが、それはナンセンスである。 そのような事故がもし起こったら、いわば「おしまい」である。

201〜202頁

未来の預言、と云うことなら、これも原発事故前に書かれた文章、ということになる。
事故が起きても「おしまい」にならなかったじゃないか、という反論が聞こえてきそうだが、土地を追われた人びとはたくさんいて、彼らにとってその地での暮らしはいわば「おしまい」になってしまったわけで、そうならなかった僕らはそれこそ「運」が良かっただけであり、「偶然」に頼る安全は、あまりに危険で、もうやめるべきである、と僕は考える。

 保険というものは、本来人々が時に被ることが避けられない不運な事件に際して、ある意味でその「不運」を分け合って、その人の苦しみを軽くしようという考えから生まれたものであった。(…)その基盤にはやはり相互扶助の精神があるのだと思う。だから取引の一方の当事者が他人の不運や不幸によって利益を得、したがって自分で積極的にそれをもたらすような行為はしないとしても、心の中でそれが起こることを望ようになるのは、やはりモラルに反することであり、そのような取引を制度化してはならないと思う。

96頁

生命保険を取引する話は、やはりサンデルの『それをお金で買いますか』で議論されていた。
この本と並行して読んでいた桐野夏生の小説『燕は戻ってこない』は、代理母として産む/産ませる物語だが、生殖医療ビジネスの問題も、サンデルは『これからの正義の話をしよう』で取り上げていて、そのことは『燕は戻ってこない』の読書日記で言及した。
反ネオリベの僕がいま一度読み直さなければならないのは、やはりサンデルの正義論、なのかもしれない。

あるいは生死を巡る話では、いま読んでいる児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』(ちくま新書)と関わる話題が出てきたりもして、同じ時期に「偶然」読んでいる本たちが、似たようなテーマでどんどん繋がっていくのである。
読んだのはほんとうに「偶然」だったのか。ここまで連関していると、もはや「必然」と云えるのでは。
読めば読むほど「偶然」は揺らいでいく。

創作その1(後日談)

冒頭の職場における雑談には、ちょっとした後日談がある。

僕の怪しげな言説を聞いた先輩が、おもしろいとおもったのだろう、家へ帰ると、当時小学生だった子どもたちに話して聞かせた。

先輩には男の子がふたりいて、兄のほうは、ふうん、という感じで、大して気にもとめなかったが、弟のほうは大いに関心を示して、半ば興奮気味にもっと話を聞きたがった。

弟の興味は数日経っても冷めずにむしろ増すばかりで、やがては数学に惹かれて熱心に勉強するようになった。

その彼がこの春、大学生になった。
進んだのは数学科だそうだ。

僕の偶然した話が、巡り巡って彼に伝わり、大学進学という決して小さくない人生の選択に、少なからず影響を与える。
僕のもたらした「偶然」が、会ったこともない少年の背中を押したのだ。
そう考えると、嬉しいような、ちょっと恐ろしいような、奇妙な感覚に襲われる。

大学へ行って数学を学んだ彼から、いつか「偶然」の話を聞いてみたいとおもう。
確率についてまだ納得できていない僕のモヤモヤを、できれば解いてもらえるとうれしい。

本の情報

初版は2010年9月17日。720円+税。223頁。版元では現在品切れとなっている。
著者は1933年生。東大教授→名誉教授などを歴任。専門は統計学、経済学、科学史などで、数理統計学の大家のようだ。
著者76〜77歳の作。

目次は以下のとおり。

はじめに
第1章 偶然と必然
第2章 確率の意味
第3章 確率を応用する論理
第4章 偶然の積極的意味
第5章 偶然にどう対処すべきか
第6章 歴史の中の偶然性
あとがき
参考文献

ix〜xi頁

前半は数学的な理論の説明が主で、数式も多くて少々難解だが、後半の各論は偶然を巡るエッセイのようで、どちらも愉しく読むことができた。

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