これからの正義の話をしよう 2024/03/31(p.41)#6

桐野夏生『燕は戻ってこない』をのんびりゆっくり読みすすめている。前回の日記は以下より。

「私、自分の産む子供だけは好きな人と作りたいな。それに、子供産んでみたら、すごく可愛かったってことはないかな。自分の中には母性があると思うしさ。そんなこと考えると、ダイリボなんてできないよ」

41頁

代理母の話は、敬愛するマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』(とその講義版とも云える『ハーバード白熱教室講義録』)、或いはその続篇的な『それをお金で買いますか』で議論されていたことを思い出しながら読む。

「子供を産んでみたら、すごく可愛かった」

僕自身がまさにそうで、子がやってくるまでは、子供は要らない、とおもっていたし、子作りにも妻ほど積極的にはなれなかった。

それがいまでは、子のいる生活にすっかり慣れて、もちろんたいへんなこともめちゃくちゃ多いし、本を読んだり美術館へ行ったり、と云った自分で自由に使える時間は以前より格段に減ってしまったけれど、それでも子どもが居てよかったとおもうし、居ない生活はもはや考えられなくなっている。

サンデルは(と云うか、講義で取り上げられた代理母を巡る裁判では)これを「瑕疵」と表現していたようおもう。『ハーバード白熱教室〜』を、ひさしぶりに読み返したくなってきている。

リキの毎日を暗雲のごとく覆っているのは、大いなる欠乏感だった。金がないことがこんなに心細く、息苦しいとは思わなかった。

11-12頁

博士号を六年も掛かってようやく取得した後、疲れ果ててしまった僕は、しばらく職にもつかず、夏目漱石『それから』の代助みたいな、高等遊民的生活を貪っていた時期がある。

あのころのお金の無さと云うか、境遇そのものはほんとうに惨めだったな、といまでもおもいかえすと惨めで心細く息苦しい。貧すれば鈍す、とはよく云ったものた。代助はむしろ「働いたら負け」とおもっている節があり、その志に僕はまたどうしようもなく惹かれもするのだけれど。

朝八時から夕方五時半の終業まで、たっぷり九時間半も、古くて薄暗い病院にいて給料は手取りでたったの十四万だ。そのうち部屋代に五万八千円取られ(…)、残りの八万二千円で生活する。

14頁

月八万二千円のうち、光熱費やスマホ代(もはや必須だ)等の固定費は諸々ひっくるめて一万円くらいか。もう少し掛かるようにもおもえるが、計算しやすいようにここでは一万二千円として、残りの自由に使えるお金は六万円とすると、それを三十日で割って、一日当たり使えるお金は二千円。それをさらに三で割って、一食当たりに掛けられる金額は六百六十六円。切りつめなければ生きていけず、余暇や遊びに回す余裕などないだろう。ましてや貯蓄なんて夢のまた夢、だ。

 テルは(…)奨学金を得て四年生大学を出た。(…)大学を出た時、五百万もの借金を背負う羽目になった。卒業後、自動車販売会社に就職して借金を返すと張り切っていたらしいが、営業に回され、女性の上司に苛められてノイローゼになって、会社を辞めざるを得なくなった。

20頁

日本には奨学金と云う名の謎システムが存在しており、しかもそれが謎だと云う疑問を持たれることさえほとんどなく公然と罷りとおっている。奨学金なんて学資ローンの体のいい言い換えで、昨今騒がれている裏金を還付金と云ったりしているのと大してかわらない、ことば遊びのようにおもえるが、借りた金は返すのが当たり前、と云った世間的意識が強く、さして問題ともおもわれていない。

年金というシステムがあって、いまは若いひとが年寄りを支える構図になっているが、少子化で人口のピラミッド構造が逆さになっていく時代にあっては、年寄りが若者を支える、と云うシステムへ転換していってもいいのかもしれない。返済義務のあるローン(オマケに利息まで取るのだから無慈悲の極みである)ではなく、給付する。文字通りの奨学金だ。そのほうが社会はより豊かになっていくような気もするのだが、どうなんだろう。そういう転換への、議論くらいはしてもいいのに。

いやでもどうなんだろう。議論のすすまないうちに、僕自身も老いていき、今度は年寄りにお金をくれ、じゃないと生きていけないよ、となるかもしれず、それなら現状維持でそっとしておこう、て変節するのかもしれない。だから世の中はいつまで経っても善くならない、みたいなことをサマセット・モームが『お菓子とビール』に書いていたような気もするが、詳しくは忘れてしまった。

女を買うくせに、売る女を馬鹿にする男にはマジ頭にくる。

20頁

春の売り買いに限らず、こういう態度の男は存外多いようにおもう。ケアしてもらっているのに、その労働(家事)を馬鹿にする。僕だって知らず知らずのうちにそういう態度をとってしまっていることもあるかもしれず、心持を改めなければならないな、と自戒する。

身体の売り買いのような窮極的な状況を描くことで、日常に潜む差別や悪意、不条理を浮かび上がらせる。桐野夏生の小説は、そういう思考実験のような形式が多いようにかんじられる(大して読んでいるわけではないが)。答えは無い。問いをたてること自体がある種の回答ようなものだからだ。そう云う意味では、哲学に近い。だからサンデル(のような政治哲学)とも相性がいいのかもしれない。何かを読んだ気にもなれる。ちょっと賢くなった気分。でも、それ以上にはならないような気もする。それでいいのか、とおもわないでもない。

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