固茹で卵ー2024/03/28(p.25)#4
きのう角田光代訳『源氏物語』全3冊(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集04~06 / 河出書房新社)を読みおえて、きょうからは桐野夏生『燕は戻ってこない』(集英社文庫)にとりかかっている。
単行本の出たときに、文芸誌「すばる」で書評や対談記事を読んで、おもしろそうだな読みたいな、とおもっていたのが、思いのほか早く文庫になった。来月からドラマも放送されるらしく、それに併せて、と云うことらしい。いずれにせよ、物理的にも金銭的にも手に取りやすくなって有難い。
桐野夏生の小説は数えるほどしか読んだことがなくて、思いだせるかぎり『柔らかな頬』『ナニカアル』『日没』くらいだ(そのうちに他の代表作も順次読んでいきたい、とおもってはいるのだが)。いずれも読みやすく、一気に読めてしまうが、今回は付箋を貼り貼り、ここに引用もしながら、思うことをイチイチ書いて、脱線したりもしながら、ゆっくりじっくり読んでいきたいとおもう。そういうのをいつかやってみたい、とずっとおもっていたのだ。毎日書くのか毎週なのか、それともこの一回きりで、やっぱりやめてしまうのか、いつまでつづくかつづけられるのか、僕にもわからないのだけれど。
小説の善し悪しの半分くらいは書き出しで決まる、と以前通っていた小説教室の先生がやや誇張気味に言っていたけれど、この小説も書き出しが秀逸だ。
卵から卵子へ、さらには卵子の値段へと連想は進む。実際、少し読み進めると次の文章と呼応していることがわかる。
卵=卵子と貧困。この小説はその二つを繋ぐ話ですよ、というのが、書き出しの一文に凝縮されている。
それに、固茹で卵と云えばハードボイルドだ。作者の得意技でもある。この小説もハードボイルドでいきますよ、と云う改めての表明、のようにもおもえる。
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大学の研究室にいた頃、礒野君、と云う一つ下の後輩の子がいて、僕なんかよりもずっと優秀だった。僕は研究者に不向きだったのか、博士号を取ったあとはさっぱり足を洗って(と云うと多少聞こえはいいが、実際はどこにも相手にされず仕方なく)全く関係のない仕事に就いているが、イソノ君は修士を出た後はもっと良い大学の研究室へ進んで博士号を取った後もいまに至るまで立派に研究者として活躍しているらしい、と云う話をかぜの便りに耳にする。彼もどこか人を小馬鹿にしたような物言いをする人物だったな、と云うことを想い出す。
敬愛する噺家の十代目柳家小三治は自伝的な『どこからお話ししましょうか』のなかで、自身の本名が郡山剛藏と云い、画数の多い漢字で苦労したからと、自らの息子にも難しい漢字を与え、そう云うところで若いときから苦労しておけば、少しはまともな人間に育つかとおもったが、そんなこともなかったな、と述懐していた。
名前の漢字が難しいと、そう云うこともあるのかもしれない。
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芥川賞を受賞した砂川文次『ブラックボックス』も堪え性のない人物が主人公だった。
暫くまえに『ケーキの切れない非行少年たち』と云う新書が流行って、僕は読んでいないけれど、この社会の生きづらさの極点のように描かれているらしく、この物語もそれらの文脈に載っているのかもしれない。
リキは堪え性がない人物として描かれてはいないけれど。
因みにだが僕はわりと堪えられるほうで、ひとつ処に長いこと居るのを好む性分ではある。変化を厭ってチャレンジできない、とも云えるけれど。
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実家を出たのは結婚して妻とふたり暮らすことになったときで、そのときにはじめて引っ越しをしたのだが(本当は、実家を建て替えるとき一時的な仮住まいへ引っ越したことはあるが、自分自身の名義で家を借りたりしたのはこのときがはじめてだった)、初期費用がえらく掛かって驚いたことを覚えている。
貯金はあったし、妻は元々ひとり暮らしをしていたから生活家電なんかは妻の使っていたものをそのまま利用できたが、それでも敷金礼金引っ越し費用その他足りないものの購入にあれこれ掛かり、それも手数料が大半で資産として残らないものが多く、無意に消えた、と云う印象が強く残った。
地方から出てきた蓄えの乏しい若い女性が、実家の支援も期待できないなかで、東京でひとり暮らしていくのは容易ではない。と云うことは何十年も前から指摘されつづけているし、主にクライムノヴェルなどで度々題材にもなるが、何か効果的な対策の講じられた様子はなく、むしろ物価高や格差の拡大で余計に難しくなっているようにおもえる。
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