ドラマチック・アイロニー 2024/04/10(p.66)#15

桐野夏生『燕は戻ってこない』を読みすすめる。
前回の日記は以下↓

ほんとうはもうすぐ読みおわってしまいそうで、日記をつづけようかどうしようか悩ましいが、もうしばらくつづけてみる。

読んでいる位相と、書いている位相がズレているのが愉しいし、それは僕しか知らないことなのである。愉快ではないか。

付箋をぺたぺた貼った箇所を、書き写しながら読み返して、あれこれ考えては書き、また読みすすめる。
読んでは戻り、戻っては書き、書いては読み、を繰り返す。
読むように書き、書くように考える、だ。

 自分にも子供がいたら、綺羅星中の一等星かどうかを確かめることができたのに。それは、自分も一等星だったかどうか、という証明にもなるはずだ。

47頁

視点人物はリキから基へと移る。
この時点ではまだ交わっていないが、以降、基の妻、悠子もふくめた三者の視点が入れ替わり、互いに作用しながら進んでいく。

さきに読んでいた角田光代訳『源氏物語』の解説で、ドラマチック・アイロニーと云うものを知った。三者の思惑がすれちがい、そのことを知っているのは読者だけ、と云う、わりと近代になってから意識されはじめた小説の理論だそうだが、この小説のリキ、基、悠子も思惑が悉くすれちがっていく。

いや、もとよりさいしょから交わってなどいなくて、それこそ位相がズレているから全く響きあわない、どころかどんどん隔たっていくあたりが極めて現代的、といえるのかもしれない。

基は自分の血を繋ぎたいとおもっているが、それはイエを守りたい、などといった保守的な理由ではなく、もっとずっと個人的な、エゴとも云える理由が根底にある。僕にはちょっと理解し難い考え方でもある。

 その頃の基は、必ずや引き合いに出される母のくびきから逃れたいと思っていたし、同業の妻を重たく感じてもいた。

47頁

母のくびきを逃れたさきに、自らの子には、そのおなじくびきを要求したがっていることを、基自身は気づいていない節があって、甚だ滑稽ではあるが、いつの時代も子は親に反発し、親は子に期待してしまう、と云うことなのかもしれない。

極めて個人主義的な理由に端を発しているのに、結果的にはイエシステムとおなじような地点に着地する、と云うのは奇妙でもある。
あるいはクラシックバレエと云う古典的な芸術には、そう云った価値観を無意識のうちに内在してしまうような、ある種の危うさがあるのかもしれない。

 四十三歳になった自分は、早く子供を作らないと間に合わないのではないか。何に間に合わないのかと言えば、自分の子供がどれだけの才能に恵まれているのか、見届ける必要があるからだった。踊る才能のみならず、その才能を伸ばすべく努力できるか、他の能力はあるか、人間として信頼に値するか。しかし、考えれば考えるほど、自分の子供が欲しいという思いは、自分だけのエゴのように感じられて気が引けてもいる。

49頁

これは僕もおもうなあ。僕の場合、子がいまの僕の歳になる頃には、僕は八十歳を越えているわけで、その頃まで生きていられるだろうか、てことをときどきおもう。
才能を見たい、と云うようにはあまりおもわないけれど。

「(…)俺の遺伝子を受け継いだ子を見てみたいと思う気持ちがある。それがエゴだってわかってるんだけど、どうしてもあるんだよ。だから、昔の大奥とかいいな、とか思っちゃってさ」

53頁

単行本刊行時に読んだ著者の対談相手は、たしか男女逆転『大奥』のよしながふみだったと記憶している。
あの対談を読んだころはまだ知らなかった『大奥』も、ドラマでは観たし、また読み返してみると発見があるかもしれない。

 生まれつきちやほやされて、自分に自信がある基には、悠子の弟の鬱屈などわかるはずもなく、またわかろうとする気もなかった。

57頁

裕福な家の一人息子、父親はすでに亡く、母子密着も強い、と云う基の境遇は、僕とかなり似ているのだが、どうにも共感できない。登場人物のなかでは最も遠い存在にかんじられる。

 基や千味子も含めた世間の人々は、則之の努力が足りないから引きこもるようになったのだ、と責めるかもしれない。しかし、それは、則之のせいではない。努力しても報われない人もいれば、努力という営為すらできない人間もいるのだから。
 則之のような弟が身近にいると、いろいろな人の生き方を認めるしかないと思えるようになるのだが、一人っ子で、親戚も少ない基にはそれがわからない。

61〜62頁

基よりは悠子の弟、則之にシンパシーをかんじるのは(あまり登場しないが)、僕も一時期、引きこもりような暮らしをしていたことがあるからかもしれない。

リキに共感することはできない、と云うよりは、そういってしまうには境遇が違いすぎておこがましい、とかんじるが、かといって共感できるのは悠子でもなく、ましてや基でもない。
この物語の三人は、と云うより桐野夏生の小説全般に云えることだが、人物たちが率先して読者の共感を拒絶するようなところがある。露悪的に振る舞う、と云ってしまうと言い過ぎかもしれないが、社会に対してと云うよりは、読み手に対して、その期待を裏切ろうとしているように見える。

加速膨張する宇宙空間に浮かぶ星々みたいに、三人は互いに遠ざかっていく。それに合わせて読者からもどんどん離れていくようにかんじられる。

 子供のいない夫婦は大勢いる。子供が欲しくてもできなかった夫婦もいれば、敢えて作らなかった夫婦もいる。が、彼らは子供のいる夫婦よりも、助け合って仲良く生きているように見える。もちろん、どちらかが亡くなったら、一人で生きるのは寂しく、さぞかし心細いことだろう。しかし、それが自分たちの運命だと思うことも、重要なのではないだろうか。

61頁

子作りに消極的だった僕の対して、妻が子を欲しがったのは、将来寂しくない、と云うのが理由だったようにおもう。
僕の周りにも子のない夫婦がいるが、彼らは総じて仲が良いように見える。いや、子もなく仲も悪ければ、いっしょにいる意味がなく別れてしまう、と云うことなのかもしれないが。

僕ら夫婦は子ができてからのほうが助け合っているようにかんじている。
のちに基が、代理母出産を「プロジェクト」と言い表すが、僕らの子育てはまさに巨大なプロジェクトと云ってよく、助け合っていかなければやっていけない、と云うほうが、より実情に即しているのかもしれない。

もしや、自分たち夫婦は、今後、互いを受け入れることができないのではないか

65頁

助け合っている、なんて云いながら、分かり合えないのではないか、とおもうこともあって、いいようのない寂寥感をかんじることもあるから奇妙である。この小説の三人のように、子という存在を見ているはずのに、どんどん遠ざかっていくような感覚。

すぐそばにいるひとはおろか、自分自身さえ何を考えているのかわからなくなる。

小説を読んでいると、そういうこともある、と云うことだけは、よくわかるようになる。

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