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「ちがう」と「おなじ」のらせん階段をのぼっていく旅



https://edition.cnn.com/2020/03/26/middleeast/israel-muslim-jew-coronavirus-paramedic-intl/index.h


イスラエルで活動する救急医療隊員のふたり、よく一緒に仕事するが実は1人がムスリム(イスラム教徒)で1人がユダヤ教徒。お互いにとって大切なお祈りの時間には、それぞれメッカとエルサレムの方角を向いて、祈りを捧げる。別々の方角を向いていても、お互いの信仰を大切にしたい気持ちがあるからできること。
そんなCNNの記事を読んで、あぁ、いいなぁ、と思った。

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みんな同じであれ!
という同調圧力に異をとなえ
「みんな違うからいいんだよ、違っていいんだよ」
と言ってくれる人が増えてきた

私も大賛成〜

だけど、
「ちがうねー、ちがうってことがわかったねー、以上」
てなると

「で?」

となってしまう。

夜と昼、陰陽、ユーロとアジア、コインの裏表
みたいに、
「ちがう」と「おなじ」だって表裏一体だし、循環するものだと思うから。

もし私が夫とランチを食べに行くとして…

私「あ〜イタリアンおいしい」
夫「オレ、そばが食べたかったんだけど」
私「へぇ、私とあなたってちがうね、おもしろいね〜」
夫「…」

これって暴力ですわ。

ふたりが一緒にレストランで楽しく食事して帰ってくる。
それぞれ好きなメニュー頼めば良くて、何を食べようと自由。
「ちがう」もの頼むからこそ楽しかったりする、「へ〜そういうの好きなんだ。私その味苦手なんだよね。でも、それを美味しいと思う感覚を持ってるんだなぁこの人。私とちがっておもしろいなぁ」なんて「ちがう」を楽しみやすいそんな単純な場においてすら、暴力にならないためには、「おなじ」の前提が実は鍵を握っている。

片方だけが空腹で、もう1人はちっともお腹が空いてないとしたら?
その店の価格帯が、ふたりともにしっくりきてる?
今何食べたいか、双方納得してる?
つまり
「お互いに満たされる食事の場にしたいよね」
という互いを尊重する気持ち、互いの声を聴こうというマインド。

そんな「おなじ」があるから
お互いのその時の望みをどちらもないがしろにしない
「最適解」に至ることができる。

例えばこんな感じ。

私「イタリアン食べたいなぁ」
夫「オレはそばだなぁ」


私「そばって気分んじゃないけど…でもウドンならありかも。」
夫「ありがとう。今どうしてもそばなんだよな〜。そばもウドンも美味しいお店探そう」


私「和食って気分じゃないんだよなぁ」
夫「オレは和風の味付けだったら逆に、そばじゃなくてもいいかも。間をとって五右衛門の和風パスタとかどう?」


私「イタリアンがどうしても食べたいんだよなぁ」
夫「和風だしでそば食べたいんだよね。そんなガッツリしたの食べたい気分じゃなくて」
私「じゃあどっちもあるファミレスにしようか?クオリティは下がるけどw」
夫「そだね〜」

①は、私が「小麦の麺、を満たしてればまぁ、味はいいか。ウドンもけっこう食べたいし。」とストレスフリーに夫に添えたパターン

②は、夫が「そば粉へのこだわりじゃなくて、和風の味付け×麺、ていう優先順位が高いんだな」と自己分析してすっと私に添ってくれたパターン

③は、どっちも明確に今の希望が決まっていて譲れそうもないから両方取りできる解決策で打開したパターン

いずれにしても、
「イタリアン」「そば」に至った背景にある
自分の気持ち、望んでいることのコアな中身
を、一段階抽象的なレベルまで落として分析してるから
今の私の「コタエ」をどこまで揺らがせられるかが見えてくる

揺らぎを加えた新提案が活きることもあれば
揺らぎを加えられない事実を確認できたからこその解決策を選ぼうって納得できることもある

こんな感じで、
「ちがう」×「おなじ」
の両方が噛み合うと、
「どちらか一方が黙って我慢するのではない、納得感のある合意(その時の最適解)」
が見出せる。

私と夫の両方、あるいは片方が「ちがう」だけ見てたら、永遠にここに行けない。
私と夫は、水掛け論に終始して餓死するか、別々に1人ご飯するかの二択になってしまう。
大事なのは、私と夫の両方が「ちがう」×「おなじ」を見ているということだ。
言い換えれば、お互いに「対話」を望んでいる、ということでもあると思う。

「おなじ」一辺倒の時代の窮屈さを骨の髄まで感じながらもつい相手におなじを期待してしまう自分の中の葛藤も
「ちがう」の歓びや面白さやめんどくささも
どちらもあれこれ体感してきた私は今つくづく思う。

「ちがう」と「おなじ」をくるくると、らせん階段を登るように行き交わせながらの旅路を楽しみたい。
「おなじ」を否定して「ちがう」だけに固執する必要もないし
「ちがう」を大切にするあまり「おなじ」を恐れる必要もなくて
両方がお互いを補完しあっている、というたいていの世の中の現象と同じこととして、らせんの渦に巻き込まれてく勇気も大事。

その時には、「ちがう」の活かしどころと「おなじ」の活かしどころを逆にしないってことも、大切に丁寧に見ていきたい。

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