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夜・ふたり・家 も含む緩衝地帯がある

旅先で、あるいは留学先で、あるいは、旅人を迎える立場で。
独身女性だった時の、微妙な綱渡り感をふと思い出した。
「何時以降、男性と二人きりになったら絶対危険」みたいなルールで決めきれない世界。
あくまで常に
今、ここにいる私たちの間では…
信頼関係ある?そもそも何も起こりえない?
何も起こしたいと双方思ってない?片方思ってる?
もうそれはケースバイケースで、一律で言えない、直観の世界だよね。
え!ていうタイミングで危険すれすれのことが起きることもあれば、夜、家、ふたり、みたいな一般常識的にはあり得ない状況でも、なんもないしなくていいしそれで全然成り立つこともある。
その時その場にいる私たちの間での信頼感や決め事がすべて。
「常識」は役に立たない。
常識の旗を立て始めたら、無数の可能性をはじめから閉ざしてしまう。
ただそこで一緒にいられる、その時に共有できる友人との時間があるかもしれないのに、必要以上に怪しんで一切の落ち度無く「男女の間にある常識」みたいな枠で自分を守ろうと思ったら、その狭い常識の外にある、もっと人間同士のあったかい心の通い合いみたいなものが全部否定されちゃう。
それってすごく味気ない。
そういう緩衝地帯みたいなところの手触りがあると、あらゆる「線」に見えるものを一度疑うのが怖くなくなるのかも。
緩衝地帯は自分と外の世界の間に、どの方面にも存在してるはずだよなー。
病とか障がいとか生命とか異民族の話題だと緩衝地帯が認められるけど、性の話題になると突然「常識」で終了する、とか、人によって、緩衝地帯が機能しやすい分野とそうでない分野がまちまちだったりする。
それはしょうがないことだけど、でも、自分の辞書にあまりない分野に関しても、きっと緩衝地帯があって、万人に簡単に適用できる線はココです、とは言えないのかもしれないなーって風にどこかで思ったうえで、あくまで「私は」これが良いとか嫌だとかをその都度決めるだけ。主語は今その時の私。常識にそうさせられるわけじゃない。
そうできたら、いいよねー。
なんか、こういうなんともデリケートな綱渡り感も、どこかで私の今の身軽さにつながってる…とっても大事な実験だったのかも、てことを、感じた夜のつぶやきです。

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