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風の記憶、時の雫

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note をはじめてみようと思う。 秋晴れの空を眺めていたら、風がやってきて、 そのときにふと思ったわけです。
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2020年8月の記事一覧

二百十日

今日、8月31日は雑節の「二百十日」。 立春から数えて210日目になる。 昔から台風などの悪天候がよく起きるとされ、 稲作農家の人は警戒したとされる。 ちょうど稲穂が頭を垂らす頃にあたるので それも当然だろう。 奇しくも沖縄付近には大型で強い台風が接近中だ。 気候変動が起きている昨今ではあるけど、 二百十日の警告は今年も活きているものだと 残暑の厳しい空を見上げて、変に感心した。 月が変わる、それも8月から9月に変わる というただそれだけのことながら、 気分的にはずいぶ

あきかぜの憂鬱

秋がきたと思った空には まだ夏のなごりの入道雲がいた 夜明け前の風はひっそりと もうそろそろ秋だと教えてくれる 時間がお昼に向けて進むにつれ 温められた空気が風を止めた 煮えた地上では人は消え わずかな往来がまだ生命の存在を教えた 規則正しい暦が季節を刻み 忘却を阻止している ああ 望んだ季節はどこにいった 移ろいは変化することを覚えておけ 秋津が群れをなして夕暮れに 目の前を横切るように飛び出した 夜は秋虫が鳴き始めた 昼は夏でもじわじわっと秋が入り込む

夜の秋

8月も今日を除けばあと2日。 残暑がまだ居座る日中はまだ35℃を超える日も 続きています。 それでも日の傾きが早くなり、 窓の外から聞こえる虫の声は様変わりしてきました。 日中はヒグラシからツクツクボウシが鳴いて いますが、夜はコオロギがすだく声にまるで 秋の夜かと思うほどです。 今はまだ処暑は過ぎたとはいえ、 日差しは刺すように強く、熱せられた地面からの 照り返しが容赦ない残夏です。 残夏のなかにふと感じる秋が現れる、 そんな微妙な季節の移ろいを「夜の秋」といいます。

対話できる自分

過去の自分と対話できる自分を持っていることは とても大切だと思う。 あの時の自分が今の自分を見たらどう思うか? あの時の自分ならどう言うか?どう行動するか? 言ってみれば、その時の自分は 今の自分にとっての分岐点に立っていたわけで、 自分の未来に夢を抱いていたはずだ。 だから、過去の対話できる自分を持っていることは 強いことだと思っている。 つまり、軌道修正するにも、 どこが起点でどこに向いていたか、 その時の思いや考えはどうだったか? それが過去の自分との対話の中で見

言葉と向き合うこと

原稿用紙をくしゃくしゃにした。 そして、それを部屋中に放り投げた。 こんな経験は最近の若い世代には 縁がないのかもしれない。 原稿用紙だけでなく、手紙がそうだった。 書き損じたり、思いが上手く表現できていないと くしゃくしゃにしたものだ。 だから、手紙ひとつにも思いがこもっていた。 ラブレターになればなおさら言うまでもない。 自分の表現力の稚拙さに 泣きそうにもなるくらいだった。 好きな女の子に電話するときも、 ノートに下書きをしてからダイヤルを回した。 一家に一台の電話

おおきな木とちいさな少年

おおきな木の前に 少年は立っていた。 ちいさな少年は  木のいちばん上の枝の先を見上げていた。 ぼくも登れるだろうか。 少年はこころの中でつぶやいた。 センダンの木は何もいわなかった。 少年がこの世に生まれるずっと、 ずっと前からここにあった。 幹はふとく、おとなでも一人では抱えられない。 4〜5人が手をつなげば抱えきれるか、 100年以上も前からそこで生きてきたと 訊いても不思議な感じはしなかった。 そのくらいどっしりと根を下ろしていた。 50年経って、かつての少年は ふ

地蔵盆参り

処暑を昨日迎えて、今日は地蔵盆の日でした。 地元の地蔵盆は毎年8月24日に行われました。 お地蔵様はこどもの守り本尊として、 また、いろいろな願いごとを叶えて 困っている人々を助けてくださる菩薩様です。 わが町にも地蔵盆参りという風習が残っており、 全部で24ヶ所のお地蔵様がおられます。 これをすべて廻ることを「地蔵盆24ヶ所参り」と いい、昔から今に続いています。 それぞれの地蔵盆は、その地区の自治会が お世話をするのですが、お参りに来られた人には 当番となった自治会

センダンの木

家から歩いて5分ほどのところに我が家の墓がある。 その道すがら大きなセンダンの木がある。 今は整備された道路が脇を通り、交通量も増えたが 子どもの頃は細い道があるだけだった。 このセンダンの木がある場所には小さな家(庵)があり、 お坊さんがひとりで住んでいた。 土地の人は「おじゅっさん」と呼び、少し変わり者 だったので大人の中にはいぶかる人もいたが、 ぼくら子どもには結構人気者だった。 「おじゅっさん」は方言で、 「御住持様(おじゅうじさま)」からきている。 「住持」とは「

失敗することで進む

一般に「失敗する」とは、 そこで行き止まりか、後ずさりするような イメージを持っていると思うけど、 それは間違いなんだよね。 失敗は前へ進むこと。 前へ進んでいるということ。 そう自覚することがとても大事なんだと 気づいてほしいってと思う。 失敗はマイナスではなく、プラスである。 失敗のない成功はないと知ろう。 どんな失敗も成功までの1つのステップだ。 そのステップが短いものか、 長いものかは失敗の受け取り方によって違う。 失敗から学ぼうとするなら、 そのステップはか

素直に真っ直ぐに

素直になる、素直に過ごす、 それは飾りっ気をなくし ありのままに生きるということ。 日常の中で知らず知らずについた いろいろなしがらみや感情を脱いで 自分を見つめることは よりよく生きることに大事なことだ。 素直になれば心身は軽くなる。 軽くなれば真っ直ぐに 物事を見ることもできる。 斜めにばかり見ていては 世の中も自分もゆがんでしまう。 今の時代のように、 時代の変革期が訪れているときは なおさら素直に真っ直ぐ、 先を見ることが求められる。 何が大事で残さなければな

縁が縁を呼ぶ

縁が縁を呼ぶという言い方をするのを 聞いたことがあるだろう。 そのときは、何か新しいものを生み出すときに 必要としているメンバーを、神様が、 こいつとこいつ、それに彼女も加えようと 駒を動かしているではないかと思う。 これまで積み重ねた縁の駒をたぐっていき、 つながるに必然な人を繋げていく。 これ、神様にとっても楽しくて 仕方がないんじゃないだろうか。 だから、縁は大切にしておくべきなんだと思う。 このような縁は、実際に人に会わないとできないもの。 だから、会いたい時に

継続は力なり、継続は才能なり

レオナルド・ダ・ヴィンチはヴィンチ村時代、 日々、地道に続けたことがあります。 それは、スケッチとノートの記録です。 この行為は彼の好奇心と観察眼を育てました。 毎日、家の外へ出て自然を観察し、 描いていたそうです。 この時代の(少年期)のスケッチを見れば 恐るべき描写力です。 それも類い稀な観察眼があってこそと言えます。 実は、絵を描くことを勧めたのは公証人の父親で、 レオナルドが描いた絵を画商に売り、 その絵がミラノ公の手に渡るという幸運を 呼んだこともありました。

夕涼み

みなさん、猛暑・酷暑の中、 いかがお過ごしですか? どのように涼を取っていますか? 立秋を過ぎ、お盆が過ぎ、 夏の暑さも残暑を迎える頃になれば、 幾分かは秋の気配を感じるような涼がありました。 夕立が涼を運んでくることもありました。 夕端居という言葉があるように、 夕方になれば風通しの良い縁先でゆったりと くつろぐこともできました。 このひと時が夏の終わりを感じさせ、 日中は暑いながらも、 季節の移ろいを実感したものです。 ところがいつ頃からでしょう。 そんなことはい

長所を探せ

自分以外の親しい人からの指摘で 長所に気づくことはあっても 自分では自分の長所がわからない という人がいる。 でも自分で自分の長所を知る方法はある。 わかりやすい例で言えば、 それをしているときの自分が心地よいこと、 幸せ感を感じることが長所を発揮しているとき。 自分を甘やかしているときの話ではない。 仕事でも勉強でも家事でも育児でも 完全なオフを楽しんでいるときでも 日頃の生活の中で見つけることが大事だ。 短所や欠点ばかりの人はいない。 誰でも長所はある。ないという人