”まっすぐ”歩く、ということ―道のまっすぐ、人生のまっすぐ

本日も、ふと思ったことをつらつらと綴りますが。

実はこの記事は、障碍理解・マイノリティ理解という方面からと、心理セラピストとしての観点から、両方から書きたい。
そのため、題名を「白杖使用者の冒険」などにできないわけなのですが。

白杖を携行して外を歩いていると、ありがたいことに、やはりお声がけいただくことがあります。
また、駅の中などでどなたかにこちらから道を尋ねる場合もそうなのですが、
「まっすぐ」という言葉を、良く使われます。

「あ、そうです、このまま真っ直ぐ行くと目的のホームへ行くエスカレーターがありますよ」
「この道をまっすぐです、あ、そうそう、そのまま真っ直ぐ行くとね、横断歩道ですから」

とてもありがたいのですが、少し本音を漏らしてしまうと、実は、非常に精神的バイアスのかかる言葉でもあったりする…。
もちろん、言葉としてはわかりやすいですし、教えて頂けるだけで非常にありがたい。そして、晴眼者の方からすると、確かに他に表現法は難しいと思いますから。
ただ、本音も少しだけ明かすと、この言葉が出てくると一気に緊張も走ります。
「まっすぐ、とは、どう行くのだろう。まっすぐか…うまく行けるかな」
(まっすぐだから大丈夫だと思われるのが当たり前であるだけに)聞き返すわけにもいかず、ついつい、ありがとうございますと答えて、綱渡りをする前の覚悟を決めるかのような状態になります。


さて、障碍理解(だけ)のお話ではないので、ここらで少し。

ところで、これをお読み下さっているあなたは、「まっすぐ行く」とは、
どうすれば良いと思いますか?

いや、その前にまず、あなたは、

「まっすぐ」歩くことができますか?


「何?視覚障碍者というのは目が見えないだけで、目の前に何もないことさえわかれば歩けると思っていたが、まっすぐ歩くこともできないのか?!」
と、思われるかもしれません。

いえいえ、もちろん、私達は「障害物がないから大丈夫」ということさえわかれば、歩くことも走ることだってできます。
そして、「そこは90度右に、左に」「斜め45度くらい右(左)に進んで下さい」「あ、反対方向ですね、後ろ向いて逆方向へ進んで下さい」なんでもござれです。
どこに何があるかを、判断できないだけですから。


しかし、「まっすぐ」歩く、ということは、
実は目が見えている・見えていない、拘わらず、
実は、難しいことなのです。

もし、ここから100Mまっすぐ歩きなさいと言われても、なかなか難しいと思われませんか?
もし、地面にまっすぐに線が引いてあったとしても、それを辿るとしても、難しいはずです。

「そこまで厳密にまっすぐという話では、また別だろう」

と、もしかしたら思われるかもしれません。

いえ。
では、もしこれが、まったく何の目印もない、だだっ広い公園で、そう…100M四方くらいにしましょうか。
あなたはその、角から一辺を辿って3分の1くらいのところにいるとします。
そこから、まっすぐに反対側の辺に行ってくださいと言われたら。まっすぐ行けたら、反対側の辺の同じく3分の1くらいのところにつくはずですよね。
あなたは目が見えていても、実際、うまく反対側の辺の同じくらい3分の1のところには、たどり着けないと思われます。
また、もしその辺りに辿り着いたとしても、あなたが足跡をつけながら歩いていたら、その足跡は、空から見たら真っ直ぐではなく、なぜか一時的にあちらへ行ったりこちらへ行ったりしている、ということが起こると思われるのです。
実際こんなだだっ広い空間で何も目印がないところなど実在は難しいですから、想像しにくいかもしれませんが、では、砂漠や海上、湖上、森や山の中などを考えると、少し、ああ、なるほど、と思われてくるかもしれません。

実際、これは実験による研究結果もあり、ひとは、真っ直ぐ歩いていると思っても、本当に何の目印もない場所だと、まっすぐ移動することはできないのです。
真っ暗な中であったり砂漠であったりすれば特に、ひとはまっすぐ歩いているつもりで、出発して即座にぐるりんと円を描いて回ってしまうほどの軌跡になってしまったりもするようです。それでも、自分で気付かない。
晴眼者がだだっ広い場所でもある程度まっすぐ歩くことができるのは、何らか目標物や手掛かりになる景色の違いがあって、それを常に比較できるから。これが、本当に手がかりの少ない砂漠や海の上では、方向感覚はまるでなくなり、遭難してしまう。
都会の道でまっすぐ歩くことができるのは、実は、「まっすぐ」歩いているのではなくて、歩道の車道と建物が並んでいる間の空間に沿って歩いているだけ、実はまっすぐ歩いているつもりで、必然的にその「空いている場所」を歩かされているだけ、なのだともいえるのです。
ちなみに…晴眼者は、道を沿って歩いていて、その内、斜めに二股に分かれたような道などでも、「え、これ明らかに真っ直ぐでしょ」と説明したりします。これは、「”この”歩道に沿って」という意味なのですね。

更にちなみに…歩道に誘導ブロックが敷かれている場所であっても、歩道には沿っているけれども、歩道の中でちょっと右斜めに曲がって敷かれているような場所、結構あります。
もちろん、真っ直ぐ敷くには不都合があったりするから、それはわかりますし、もちろん良いのですが。
晴眼者から見ると、これも、真っ直ぐ敷かれているように感じるようです。
これは、誘導ブロックを頼りに歩いている者からすると、「ん?ここで右に曲がったな。右に曲がるんだな」と、方向自体、多少変えたように感じます。そのため、実際道が折れ曲がったと勘違いしていたり、少し曲がってから戻ったとしても元の方向がわからなくなるので、「ちょっと右に曲がったあとまたちょっと左に曲がった…」と、方向感覚は狂いやすいという実態はあります。

そうそう、この機会だから更にちなんでおきますと、
白杖を使いながら、案外幅の広い車道など、案外なかなか真っ直ぐ歩いている人がいたりします。もちろん白杖と言っても見え方は様々ですから人によるわけですが、私も、真っ暗な夜道で、慣れた場所を歩く時、広い歩道と車道が一体の道の真ん中あたりを(恐らく)それなりにまっすぐ、歩いている時があります。
これは、実は、「まっすぐ」歩くことができているのではなく、自分なりの目印を辿っています。
例えばですが、車道というのは、だいたいが地面が真ん中に向かって少しばかり膨れています。そのため、ほとんど車通りのない車道であれば、(私の場合)真ん中が歩きやすい。坂道に惑わされず、両足裏でだいたいの角度を探りながら、同じような感覚を辿りながら歩けばなんとなく真ん中を歩き続けることができるので。足裏が何か斜めになってきたら、右か左に寄った、ということになるので。
また、白線を足裏で探って(僅かに凹凸がある)、白線を伝っている時もあります。

ですので、白杖使用の方に道を案内する時、もしできれば、まっすぐ、というところを、「今向いている方向に」だとか、縁石など何かあれば「ここに縁石があるのでこれを辿って」というようなところをほんの少しだけ付け加えて下さると、大変大きなわかりやすい手がかりを頂くことができます。
少し、片隅に置いておいていただけますと幸いです。


さて。
私は、心理セラピストとして、クライアントさんと話している時、また、「顕在意識」「潜在意識」の関係性や、「顕在意識」や「人生」の話をする時、よく、「意識領域」を「目の見えない人」に例えることがあります。
元々私が視覚機能が弱いため発見した例えですが、クライアントさんたちに非常にわかりやすいと言って頂くもので、更に意識領域の特性や人生についてありとあらゆることを例えるのに、悉く当てはまるので、なかなか良く使います。

「人生」を歩むときも、同じように感じます。

目の見えない人は、歩んでいる時、周りの景色や手掛かり、障害物などがわかりませんが、
ひとの「顕在意識」も、人生を歩んでいる時、人生は見えていません。人生の登山道、人生の目の前あと少しのところにある障害物、道の分かれ目、過去歩いてきた道…

そんな中で、人生、まっすぐ歩んでいるつもりでも、なぜだか目的地に着かないような気がしたり、遠回りしているように感じたり、なぜだかぐるぐるまわって似たようなところに来てしまったり、毎回なぜか同じパターンを繰り返してしまったり…

そんな時が、ありますよね。

「まっすぐ進むだけなのに」と思ってしまうこともあるかもしれません。
いや、大丈夫。
「まっすぐ」進むというのは、難しいことなのです。

…いやいや待て。
大丈夫と言われても、まっすぐ進めないと困るし、苦しい。…ですよね。
まっすぐ進みたい。自分の今いるところ、わかりたい。

では、ひとつの提案です。
あなたは、きっと、おかしなパターンをぐるぐるしてしまう時もあるかもしれませんが、
それと同時に、
「快」「心地良さ」「感謝」「幸せ」に至った経験もあるはず。
これも、もちろん一時的な肉体的な快などは違いますよ(これを繰り返せばあっという間に依存になってしまいますが)、しかし、あなたの奥深くの「人生の体感」において、これに至った経験もあるはず。
実は、これにも、パターンがあるのです。
このパターンをなぞってみれば、それが手掛かりになり、似たような心地良さ・感謝・幸せの道に行きやすくなる、そんな白杖の使い方が見つかるかもしれません。

もしくは、それでも、そのパターンや手掛かりが良くわからない人。

また、白杖使用者にとっては、道行きで杖の先が”ぶつかる”ものは、実は障害物というよりは現在地や目的地がわかるための”手がかり”であることが多いのですが、人生の登山道において、杖の先に何かがぶつかる時、ついつい「障害物だ!」と感じ、びくっとしてしまう人。

私は、物理的な社会においては、道行く人たちにたくさん手引きをして頂くようになりましたが、
物理的領域では「目」が見える晴眼者と呼ばれるけれども、人生の登山道は手探りである「意識領域」たちが、潜在意識を探検するための地図を、研究、また、作ってきました。
そして、私は、物理的な社会においては皆様にいろいろな周囲に見えているものを教えていただいておりますが、私は、「意識領域」たちの進んでいる「人生の登山道」の方は、実は見えやすい傾向があります。

…と言うのは、これを見る「目」を、身につけてきました。
それは潜在意識と意識領域の手の組み方(手引きの仕方)であったり、人生脚本という、いわば登山道の地図の見方のような理論を身につけてきました。
そのため、本当に例えばですが、皆様が「赤い花があるといいねー」などと話している時に、あなたの登山道の本当に足元すぐのところに赤い花があったりするのを、良く見えています。

ですので、もし、もっと真っ直ぐ歩きたい、何かどこに進んでいるのか、どう進めば良いのかよくわからない、という方、
私も日々、まっすぐ歩くお手伝いをしていただいていると同じように、そちらに関しては、私がお手伝いすることができます。
もしよろしければ、あなたの人生の登山道、ご一緒させてくださいませ。

私も、日々、街中で、もう少し気を張らずに声を出してお手伝いを求めさせていただきたいと思いますので、人生の登山道に違和感のある方も、ここまで何か気になってご縁を持ってお読み下さったあなたも、どうぞお気軽に、お声をかけてください。


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