言語というものの意味深さ―言葉は人生を表す&作り上げる暗示

唐突ではあるが、私はクライアントさん達(いや、クライアントさん達だけではないかもしれない)に大分風変わりな、不可思議な印象を持たれている面がある。

語弊を恐れず(いや、もしやそのままで語弊はないか…?)、唐突に言ってしまえば、私は、交代人格時代から、そして今もなお、まるで時代錯誤した、時代を超越しているかのような印象を持たれていることが多い。
私に対する印象を、はっきり「武士」と表現してくるクライアントさえいるほどである。そういえば、交代人格時代の私を「昔の文豪」と表現をした人もいた。「今の時代を生きているようでいてまるで何百年何億年も生きてきているかのような、宇宙人、宇宙の長老」というような表現をしてきた人もいる。

実を言えば、私自身、元々、あながちこれらの表現は退けにくい、寧ろ自分自身でもそのような感覚を持っていたところもある。

これがなぜかといえば。…なぜかというところも、やっと言語化できるようになった感覚を持ち、こうして今、記事としているのでもあるが。

そうそう、先にひとつ付け加えておけば、実はこの傾向は私だけではなく、交代人格達の多くに、そしてこの器自体、かなり幼い頃から、この傾向(というよりもこれ以下に記すような傾向)があった。

そのため、かつては、
生まれるべきと違う時代に生まれてきたのではないか
時代に取り残されて、決してついていくことのできないような感覚
宇宙から気付いたら突然地球の真ん中にいて、地球人の振りをしながら地球を学び始めている宇宙人

というような感覚すら持っていた時期があった。

しかし、これら全ては違った、逆だったのだということに、はっきりと言語化できるまでに気付いた。

私(私達)は、幼い頃から、本当に周りの時代、更には時代の変化についてゆけなかった。
理解できなかった。
それと同時に、…まあこれは私が「武士」「文豪」などと言われる表面的な特徴のひとつでもあるのかと感じるものだが、私(と交代人格の多く)は、言葉の使い方に特徴があった。
この器、実は中学時代にも、先生(誰かは忘れたが)に、「そんなに丁寧にかしこまった言葉遣いでなくていいのよ、武士じゃないんだから」と言われたことすらある。別に本当に時代錯誤した武家言葉を使っていたわけでは、当然、ない。
ただ、言葉の丁寧度合い…というのか、丁寧度合いというのも語弊があるのだが(恐らく後ほど書くが)、そんなものが周りの生徒たちと比べたらかなり丁寧、丁重でしっかりした大人びたものだったかもしれない、という感覚はある(恐らく当時から自覚はあったような気もする)。

そして、我々は、なぜか日本でカタカナにしてまで表記する外来語、いわゆるカタカナ語というものや、文字を略したような単語や文章…つまり略語やら「ら抜き」言葉だとか「ら」がちゃんと入っていても意味合いとして略されているような文章(「~することができる」を「~できる」「~られる」などと言う、などなど)を使うことに、強烈な抵抗(危機感に近い)があった。
ちなみに今のうちに書いておくと、この記事の初めの方で記した、「印象を”持たれる”」というような言葉も、綴りながらも非常に大きな違和感を感じている。
社会人になって、外で働く経験をし始めてから、接客業務で「こちらが~になります(例:「こちらメニューになります」)」であるとか、「あそこ(あそこの店)は~が売ってる」であるとか、このような本当に現代人特有の流行言葉になると、それこそ本当にとてつもなく気になって違和感だらけになってしまうわけだ。

学生時代は、周りに適応するためにわざわざ敢えて、そういう言葉遣いを真似するようなことはできた。社会人になれば逆に、わざわざ合わせる必要は必ずしもないのだということもだんだんとわかり、自分は使わない、が、同時に自らの意志でそれを使っておく場面はそうする、というようなこともできるようになっているわけだが…。
ちなみに、ここ最近の私も、随分と周りに適応するためにも、またセラピストとしていろいろなクライアントと関わる中で柔らかさや(その時々の相手への)わかりやすさとなるためにも、言葉の使い方や語彙、文章表現や言い方の癖なども「一時的自我の癖」というような形で、持つようにはなってきた。恐らく私の記事を読んで下さっている方にも、「お前だって文章に文法に厳密ではない癖があるじゃないか」などとも思われていることだろう。
私には私自身でも今こうして文章を書いたり口で話したりしながらも違和感を拭えないままにしているものもあるし、同時に、「一時的自我の癖」として楽しんでやるようになっているものもある。

私はあくまで、「文法に厳密でなければ」気が済まない、という理由でこのような生き方をしてきたわけではなかった。
ということが、実は、はっきりわかったのだ。

それと同時に、私にはもうひとつ、今までは言語化できなかった、「強烈な違和感」があった。

実は、文法に違える使い方でなくとも、更には通常の日本語であるはずなのに、使うことにとてつもなく抵抗(危機感)と違和感を感じていた言葉たちがあったのだ。

これがなんであったのかが、そしてどうして違和感を感じて仕方がなかったのかという理由も、ここに来てやっとわかった。

どうやら…日本が近代化した後にできてきた後付け(翻訳のため)の言葉や、表現、の、多く、というべきか。そういうものに対して…あとはもう一方の角度から言うと、「顕在意識専用の言葉」とでもいうような言葉群に対して、どうやら、そんなものを感じているらしい。
つまり、これらの言葉というものはただの「(いわば流行りと言って良いほど一過性の)概念」しか表さず、本当にその意味を成さない・持たない、実態のない単語なのだ。

私のことをあまり深くご存じなく突然こんな記事を読むと、何と気難しいやつだと思われるかもしれないのだが、そういうことではない。
同時に、これは、私自身、特に潜在意識奥深くから浮上してきて今後この器を健全に扱っていくための、ただ単に自分を守るためであったのだ、ということにも気付いた。

そしてもうひとつ書いておけばこれは単なる自我の気難しさからではなく…いろいろなクライアントさんや社会の人々を観察し、またセラピストとしてクライアントさん達と相対する(クライアントさんと接するセラピストは、クライアントさんの語彙や言葉を使う、という手法を使う)ことを重ねてきた中で気付きに至ったものだ。

催眠療法士は、人生は全て暗示で成り立っているものであるため「言葉」というものがヒトに如何に影響を与えるものであるのか、言葉の重要性というものを痛感しているものと思う。
私達は、それこそ幼い頃からこれの強烈な影響力というものを肌身で感じていた(もしご存知ない方は、ぜひ過去の記事などもお読みいただきたい)。

更には、今の私は大々的にその催眠療法の専門家でもあり、そして、いつの間にか気付いたら今や私はそれが専門とも言えるほどに、現代日本人が近代化(明治維新以降)の中で、何からどのような影響を受けてきたか、そして「それぞれの(自分自身の)人生」「自分の身体(骨格や内臓など)」「周り(世界)や自分自身に対する認識」などにどのような影響を与えどのように変化してきたか、それによって一体現代日本においてそれぞれ個々に何が起こっているのか、ということがセラピーに密接に組み付いている。
…これが一体何の関係があるのか…と言われるかもしれないが、近代化以降の日本は、実は言語体系もがらりと変わっているのだ。
そして、本来の日本語は忘れ去られ、近代化以降、西洋(つまり自分達の心身ではない他者軸の文化)から入ってきた言語にかなりの割合が入れ替わっている。西洋から入ってきたあらゆる概念を何とか表す日本語をひたすら製造して、それが良い悪いと言っているわけではないのだが、そこに本来あった意味が忘れ去られて置き換わって、日本人の体感に通ずる真髄の意味ではなく「社会的通念」としてただ通じるための言葉がどんどん作られた。そして、日本人は(私もそうであったように)、もはやそれに気付くことすらなく、通常の日本語だと思い込んでいる。
(アーシュラ・ル=グウィンの小説、『ゲド戦記』をご存知の方は、その小説の中の「物事には全て”真の名前”があり、表面的にであってもその名前を付けかえればそのものの形自体も変わってしまう」というような世界観を思い浮かべられるであろう。この人は、こうした表現により、体感、潜在意識で何やら感じていた”真髄”を形にしようとされたのではないか、とも思う。)

…ここでまた書き始めるとまた内容が膨らみ長くなってしまうので、この記事では端折りたいが、その近代化の中でいつの間にか入れ替わってきた「新日本語」とでも言うものは、実は、日本人(あなた)の感覚や概念を、表すことのできなくなっているものが多い。
これを論じているのは私だけではなかったことも最近発見し、その方は、「(本質を表す言葉ではなく)社会的な言葉(に置き換わってしまっている)」という表現をされていた。
更には私の個人的な関わりのある人が、この方は海外留学から戻られた方なのだが、日本に帰ってきてからの違和感の中に、「日本ではなぜか表面はとても取り繕われてはいるのだけれど、(同時に日本の本当の良き美しさもわかってはいるのだけれど)、奥行きを感じられない」面がある、そのギャップを感じる、なぜだろう、というような感想を聞かせてくれ、これらが重なったことにより実は私の中でも一気に言語化されたのだった。
まさに私が専門家としてセラピーにがっちり食い込み説明していることだったではないか、と気付いたのだった。

また、「言葉」は「認識」であるから、言葉というものひとつで、人の認識…しかも普段使いの長年継続する言葉によってひとの「潜在認識」は、がらりと変わる。
認識が変われば、ここもとんでもなく膨らむので端折るが、骨格や内臓機能が変わる。
骨格や内臓機能が変化して本来の自分とずれが生じて行けば、当然ながら(ここも端折る。ここを当然ながらと思えない方はぜひ私の他の記事や、私のセッションや交流会などに遊びにいらして欲しい)、心の軸もブレ、自分軸からズレていくこととなる。
人の心身というのは、呼吸たったひとつ、肺に対する潜在認識の在り方たったひとつでも、心身すべてが、あなたそのものが変わる。

自分軸がズレる、ブレる、思わぬ、しかし根底的根本的に非常に大きな大きな理由なのである。

だから、私は、危機を感じるほどに近代新日本語をこの器の口から発することに恐ろしさと違和感を持っていたのだと、そして自分を守るために、(そのメカニズムがわかるまで)それを「私」という形で守り通してきたのだと、気付いた。

勿論、自律した自分軸のヒト、心や身体に歪み(問題)を抱えておられない方が全く同じような言葉遣い、語彙になると言っているわけではない。
…しかしながら、どんなに少なくとも私の感じる限り、自分の軸がブレているひとであればあるほど、言葉の使い方に流行的な癖や文法的や使っている言葉の面からすると”潜在意識と疎通できないような傾向”というのか、”現代の流行の社会でしか通じないような表面的な言語体系”いわば言語に見せかけながら別の言語体系…のような使い方をしている割合が高い…
そして、クライアントさん達は自覚は恐らくないが、しかし自分軸を取り戻していくクライアントさんは、本来の自分自身と近づいて来れば来るほど、言葉の使い方が”自然なもの”に変わってくる。そして不思議なことに、「近代化で生まれた言葉(体感ではなく思考・社会的表面の単語)」が、減ってくる。

…そして、自律して本来の自分軸で生きておられる人ほど(みんなが心理学者ではないから勿論その自覚はなくとも)、自然な、そして文法にも違和感のない美しい日本語を、そして新日本単語も必要なことを伝えるために使いはするのだが”体感の言葉”の割合多く、全く違う重きで、使っておられる傾向を感じる。


ちなみに、実は前々から「言葉の重要性」というようなテーマにおいては、つまり言葉ひとつの使い方が如何に自分軸を実はブレさせるものであるか、そしていつの間にかそういう言葉の使い方を入れてきてしまうことによってそれが自分の言葉の癖になり、それがどんどん自分の症状を増大させたりラケット感情に繋がったり本来の自分(自分軸)からズレていってしまうことに影響があるか、ということにおいては、大分前から記事を書こうとしていた。
例えば、現代日本では(あくまで「現代」という時代が悪いと言っているわけではない)、敬語の使い方が崩れた人がたくさんいる。その中でも、尊敬語と謙譲語がぐちゃまぜになったり、使い方が反対になっていたりする場合が多い。尊敬語と謙譲語では、表面的な文字列で見ると、一見「られる」「される」「くださる」「いただく」など、受身的な文字列になっているものが多い。この辺りで、潜在意識には、実は自分で意味がよくわからずに使っているがために「”自分が”受身」だとか「他人からいつも何かさせられている」だとかいう妙な潜在認識の暗示になってしまっていたり、逆に自分の自分軸のブレでわけがわからなくなっていること自体がその敬語の使い方によって外に現わされていたりする。
だとか、
他、現代日本はその辺りを歩いているだけで暗示だらけ、しかも表面的にも情報だらけの社会で、そうでなくとも自分自身(の情報)を感じる前に外側からの情報が押し寄せて呑まれてしまっているわけであるが、その上さらに、その情報の中でも、例えば…見ようによってはあまりに細かいと思われるかもしれないが、例えば昨今は天気予報士ですら、「大雨の対策を”して下さい”」というような言い方をするようになっている。
端的に表現するために語弊を恐れず一言で(一面を)表現してしまえば、もはや「自分で決めさせる」ということを最初から阻止するような、他人が決めたことを否応なしに「させられる」「自分からそう決めたかのように錯覚させられながらも他人のレールを強いられる」ようになる…そんなからくりが蜘蛛の巣のように土台からして張り巡らされているような社会になってきている。
そんな中で、一体どのようにあなた方ひとりひとりに、私達ひとりひとりに、影響が及ぼされているのだろうか、というようなところに関しては、大分前から記事にしようと考えていた。


また、ではそんな中でどのようにして心身の健康を、自分の人生を、自分の軸を保って行けば良いのか、更に本来の自分に気付き自分らしく生きやすい形に落ち着かせていくことができるのか、などについては、私の開講する各種ワークショップやセミナー、または個人セッションやコースにおいて、共有させていただいている。


ご興味ある方は、その方その方、個々に沿って一番合った方法をご提示するためにも、事前個別相談の形をとれるようにしております。
ぜひ、一度試しにお声がけ下さいませ。


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