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岸政彦『リリアン』の中のジャズ

岸政彦さんの小説『リリアン』(新潮社)は、大阪在住のジャズ・ベーシストが主人公の中編です。惜しくも三島賞は逃しましたが、もしかしたら日本で書かれた「ジャズ小説」の中で、最もリアルなジャズ・ミュージシャンの生活が描かれている作品かもしれません。

追記:2021年12月16日、『リリアン』が織田作之助賞を受賞しました! 岸政彦さん、おめでとうございます!!



雑誌「文學界」2021年5月号に書評を寄稿しましたが、紙幅の都合もあって、あまり具体的にこの小説に登場するジャズについて書くことができませんでした。

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このnoteでは、『リリアン』に登場するジャズの曲や演奏について、YouTubeの画像や音源を紹介しつつ書いてみます。『リリアン』を読む際のご参考になれば幸いです。


1.仕事のない夜に、ひとりで暮らしているこの路地裏の2DKの安い古マンションで、ポール・チェンバースやジョージ・ムラーツの教科書のようなベースソロをコピーしたり(略) 〈p11〉

ポール・チェンバースはマイルス・デイヴィスのバンドをはじめ、50年代から60年代前半のモダン・ジャズのレコーディングに多数参加したベーシスト。ジャズ・ベースの基本中の基本、とも言うべき存在です。

Paul Chambers / Dear Old Stockholm 


チェコ出身のジョージ・ムラーツは、1970年代以降のジャズ・ベーシストの中で、最もオーソドックスな演奏をする一人かもしれません。2人とも確かに「教科書」的なベーシストですね。

Tommy Flanagan / Denzil's Best (Bass by George Mraz)

個人的な趣味で、ジョージ・ムラーツのソロが素晴らしいビッグバンド作品を1曲ご紹介します。

Thad Jones-Mel Lewis Orchestra / Little Rascal On A Rock (Bass by George Mraz)


2.wi-fi につながったステレオから、ソニー・ロリンズの明るい歌声が小さく聴こえてくる。(略)

なんていうやつ?

Isn't She Lovely。スティービー・ワンダーやな、元歌は。〈p21-22〉

Sonny Rollins / Isn't She Lovely

76年に出たスティービーの名曲をロリンズがカヴァーしたのは78年。当時大学生だった私は「おおロリンズがフュージョンを!」と驚いたことをよく覚えています。

3.これE♭でやるねん、ふつう。でもこれ、Eやねん、ナチュラルの。〈p23〉

David Sanborn / Isn't She Lovely

ロリンズのヴァージョンはE、そしてこのサンボーンのヴァージョンはE♭です。実はスティービー・ワンダーはEでやっているんですが、サックスなどの管楽器ではEというキーはやりにくいので、ジャズでは半音下のE♭で演奏することが多いみたいです。


4.俺は携帯の小さな小さな、地球の万博公園に比べるとプランクトンみたいに小さなスピーカーから、コルトレーンの Body and Soul を流した。(略)

なんかすごい、浮かんでる感じがするねん。(略)

やっぱり音で決まってんの?

ああ、うん、そやな。これ、普通はもっとゆっくりの、べったべたのスローのバラードでやるねんけど、これぜんぜん違うねん。

うん、

D♭のキーの曲を、ベースがずっとA♭でペダルしてんねん。

ペダルって何?

えーと、ずっと下から支えてる、みたいな感じ。 〈p80-81〉

John Coltrane / Body and Soul

ペダル(ペダル・ポイント)は、ひとつの音を持続させて弾く手法です。この場合ベースがキーに対して5度の音を持続しています。5度を持続させると、下から支えつつ宙に浮かんでいる感じがするんですよね。

Frank Sinatra / Body and Soul

こちらは「べったべたのスローのバラード」の典型として。もちろん、こちらが曲のもともとの形と言えます。


5.たまに客からリクエストが入るとコルトレーンの「至上の愛」やってくれだったりして、そこは丁重に、お客様それはピアノとベースとボーカルの編成ではできないです、と言う。 〈p90〉

John Coltrane / A Love Supreme, Pt.1

「至上の愛」はコルトレーンの宗教的・哲学的信念を全開にした組曲。音楽的にも素晴らしい、いわゆる「モーダル・ジャズ」の典型ですが、さすがに北新地のクラブではできないでしょうね。女性のヴォーカリストが突然「あ、ら〜ぶすぷり〜む」と唱えだすとインパクトありそうですが。


6.かわりにMy Favorite Thingsをやったりする。あれはもともとボーカル曲だから、なんとかそれっぽい曲になる。 〈p90〉

John Coltrane /  My Favorite Things

コルトレーンのモード演奏のもうひとつの代表がこの曲。もともとはミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の中の曲なので、ヴォーカルのヴァージョンも数多くあります。たとえばサラ・ヴォーンのこれ。

Sarah Vaughan /  My Favorite Things


7.1セットめの最後の曲Stella By Starlightが終わり、五人の客がぱらぱらと拍手すると、ウッドベースを横に置いてドラムの前のテーブルに座る。 〈p90〉

Robert Glasper / Stella By Starlight

ヴィクター・ヤングが作曲したこの曲は、コード進行のおもしろさのせいか、ジャム・セッションでの定番曲になっています。ここでは比較的最近の、ロバート・グラスパー・トリオの演奏を紹介しましょう。


8.「はい、ほなえーと、But Not For Meでいいですか最初」(略)

 光藤さんが半分冗談みたいに「七拍子でしよか」と言うと、菊池も「あ、それおもろいですね」と笑う。 〈p94〉

Unknown Musicians / But Not For Me (7/4)

YouTube で7拍子の「But Not For Me」を探したら、演奏者がよくわからない動画があったので貼っておきます。あまり上手くない(失礼!)演奏ですが、4拍子と3拍子が交互になっていて、意外と自然に聴けますね。ガーシュイン作曲の原曲はもちろん4分の4拍子です。


9.まず菊池が出すイントロで、I've Got You Under My Skinが始まる。ミディアムのスウィングで、俺の得意なやつだ。E♭へのツーファイブを繰り返すだけの単調な曲だが、たまにマイナー7がハーフディミニッシュになってたりして、リラックスしながらも弾いてて飽きることがない。ベースソロも、こういう曲は「歌い」やすい。 〈P101〉

Oscar Peterson Trio / I've Got You Under My Skin

I've Got You Under My Skinはコール・ポーター作曲のスタンダードです。文中の「ハーフディミニッシュ」は、マイナー7thの5度の音が半音下がったコードで、「m7(♭5)」とも表記します。


10.最初のセットの最初の曲はSpeak Lowだが、よくやる速めの感じではなく、ブレークもなしで普通にゆったりめの4ビートだ。カナコもレッド・ガーランドみたいなブロックコードで、リラックスして弾いている。 〈p107〉

Tommy Flanagan / Speak Low

Speak Low はクルト・ワイルの作ったスタンダード。俗に「アフロ・ビート」と呼ばれるリズムで、速めに演奏されることが多い曲です。このトミー・フラナガンの演奏もやや速いテンポですが、フォービート中心でプレイしています。


11.おっさんが言ってきたのはMoment's Noticeで、菊池と俺はおお、と顔を見合わせた。菊池がやんわりと断る。「おお、さすがですね……。難しい曲をよく知ってますね。でもあれちょっとハードな曲なんで、ここラウンジやし、ピアノとデュオではちょっとつらいですね。もうちょっと普通のスタンダードにしましょか」 〈p115-116〉

John Coltrane / Moment's Notice

ラウンジでの仕事のときに、昔ウッドベースをやっていた酔客が飛び入りするシーンです。コルトレーンのMoment's Noticeは、この後に出てくるGiant Stepsほどではないものの、非常に複雑なコード進行を持つ難曲。Ⅱm7−Ⅴ7の連なりが半音で動くところとか、実にかっこいいけど難しいので、彼らは「おお、」と顔を見合わせたわけですね。ここでは譜面付きの動画を見てください。



12.おっさんが出してきたのはThere Is No Greater Loveで、菊池はすぐにイントロを出した。俺はカウンターの隅っこに座る。(略)

ベースソロに入った。俺は自分が弾くよりも他人が弾くのを見ているほうが緊張する質で、もういてもたってもいられないぐらいそわそわしていた。がんばれおっさん。 〈p116-117〉

Cedar Walton / There Is No Greater Love

There Is No Greater Loveは「普通のスタンダード」。わかりやすいコード進行とメロディを持つ曲です。シダー・ウォルトン・トリオの演奏をご紹介します。


13.「あのね、俺、ちょっと前にメキシコ行ったんですよ」「ああ、言うてたな」「でね、そこで、地下鉄乗って。そしたらね、あれわりと昼間やったかな、わっかい女の人が乗ってきて。バイオリン持ってるんですわ」(略)

「でね、あれたしか、バッハの無伴奏バイオリンソナタでした」〈p123-124〉

Johann Sebastian Bach / Fuga from Sonata No. 1 in G minor  BWV 1001  (Played by Henryk Szeryng  )

ピアノの菊池がメキシコで見た、地下鉄内でバッハを演奏する女性のエピソードです。これは1964年のヘンリク・シェリングの演奏。

あとで、この話を「俺」は美沙さんにします。

それをメキシコシティの地下鉄で弾いてたんやて。ほんで、なんか演奏が始まっても、うるさいって誰も言わずに客が見てて、弾き終わったらみんなちょっとずつ小銭を寄付したりしてたんだって。

 なんかええな

そうやねん、なんかこういうのがいいと思う。理想 〈p149〉



14.Candyが始まる。ドラムの光藤さんが四小節のイントロを出す。テンポがめっちゃ速い。最初からこれか。菊池と顔を見合わせて笑う。〈p132〉

Lee Morgan / Candy

ドラムのイントロから始まるCandy といえば、このリー・モーガンのヴァージョンを思い出してしまいます。めちゃくちゃキュートで奔放なモーガン、このとき19歳でした。


15.ピアノとふたりで、葵さんがゆっくりと歌い出す。(略)

カーメンだな、これ。

この曲はいろんな歌詞のバージョンがあるけど、葵さんが歌い出したのは、若いころのカーメン・マクレーのアルバム「ブック・オブ・バラード」の中で歌われている歌詞だ。〈p134-135〉

Carmen McRae / How Long Has This Been Going On

How Long Has This Been Going Onの英語の歌詞が引用され、葵さんの歌の伴奏をつとめるシーンに、「俺」と美沙さんの会話がフラッシュバックするこのシーンは、『リリアン』の中でも最もエモーショナルな場面かもしれません。


16.超高速のGiant Steps だ。俺は思わず大声で笑う。(略)

やがてカナコの言葉にバグが混じり出していく。「てにをは」が乱れ、誤字脱字が爆発的に増える。

「おお、今日のカナコすげえな」

この世に存在しない単語、これまで口にされたことのない言葉だけでつくられた文章が、時速200kmで通り過ぎていく。〈p139-141〉

Joey Alexander and Gábor Bolla / Giant Steps 

Giant Stepsもコルトレーンの曲です。ものすごいスピードで、長三度の転調が繰り返される難曲で、ここでカナコが演奏するシーンは、インドネシア出身の神童、ジョーイ・アレグザンダーの演奏にヒントを得た、と岸さんが山中千尋さんとの対談で明かしていました。

ついでにコルトレーン自身の演奏を、コピーした譜面付きの動画でご紹介しておきます。

John Coltrane / Giant Steps



『リリアン』はジャズ・ベーシストが主人公で、今挙げたようにたくさんの曲と演奏シーンが出てきますが、「ジャズ」を含む人と人との交わりのはかなさ、切なさ、愛おしさがテーマの小説なのだと思います。

最後に、私が「文學界」に寄稿した書評の最後のパラグラフを引用します。

表題となっている「リリアン」は、かつて女子小学生の間で流行した、プラスチックの筒に毛糸を巻いて、紐を編む玩具のこと。リリアンは、「俺」が小学生のときの苦い思い出に登場するのだが、リリアンで遊んだ結果としてできる美しい紐のことを、美沙さんはこう言う。
「きれいな、かわいらしい、手芸やねんけども。だってあれ、紐がだらだら出てくるだけやで。」「使い道、まったくないねん。ほんまにない。」
 ウッド・ベースという巨大なリリアン。
 


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