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第3章 歌うイタリア-「イタリアン・ポップス」の深く多彩な世界〜イタリア人の両義性は歌に込められる

【概要】
「カンツォーネ」と聞いて日本人がイメージする「サンタ・ルチア」などはナポリでナポリ人によって作られ、欧州やアメリカを経由し日本でも知られるようになった。本当はcanzoneは単に「歌」を意味する言葉に過ぎない。しかし、世界的に陽気さと恋の情熱と素朴な信仰心で表象される(はずの)典型的なイタリアイメージができた。背景として次のことが考えられる。
①作られた時代が統一運動時代で難しい時代だったため明るいイメージを伝えたかった
②外国人は美しいメロディと共に歌詞が語るエキゾチックで明るいイタリア人イメージを楽しんだ
③イタリア系移民が母国の幻想を見ることを望んだ(歌はアイデンティティを構築する力をもつ文化的記号体系という面も)
④メロディが美しく歌詞が分からなくともイタリアの特徴を感じる

ナポリがイタリア音楽の中心となった理由は次の要因が考えられる。
①長い間欧州の中心都市で文化交流の交差点であり1500年代から音楽への関心も高かった
②位置的に中近東の影響も受けて独特の音楽文化を構成してきた
③上記より北欧と地中海、エリートと民衆、都市と田舎の交差点となった
④1800年代-1900年代初めと1950年代のイタリア移民特にナポリ出身者が世界に伝えた

イタリアの歌の起源は中世まで遡る。ダンテはcanzoneを「言葉を調和させ音楽に合わせた作品」と定義した。当時は詩が主で音楽は単なる伴奏だった。今もこれは残っており、強いメッセージ性が特徴である。近代イタリアの歌、現代のイタリアン・ポップスはこのような複数要素の創造的混合から生まれた。
中世の詩/歌に始まり、マドリガル、メロドラマ(音楽劇)、オペラに発展詩、民謡が混ざり合い、近世フランスの歌も影響し、カフェ・シャンタンで結合して全国的に広がった。伝統的民俗音楽、英米系の音楽も影響を与えた。
1902年のレコード録音、1924年のラジオ放送スタートで大衆文化となり、世界各地の音楽もイタリアで流行するようになった。
ファシズム時代にはイデオロギー浸透や政治的失敗の糊塗のため質素な性格、勤勉、良心を讃えながら愛・母国や郷愁を扱っていった。
1958年の自由と解放の歌「ボラーレ」により新しい感覚が増え、人間の実存的な状況や社会問題を批判的に表現するようになった。そしてプログレッシブ・ロック等へと繋がっていく。

このように近代イタリアの歌は複雑な文化的要素を含み以下の複数の極を軸に絡みながらメロディーを中心的に発展してきた。
・地元-外部
・エリート的形態-民俗・民衆的形態
・芸術-娯楽
・祝祭的-日常的

このような歴史的・文化的背景もあって、イタリア人にとっての歌は単純なエンターテインメントではなく、総合的な文化現象である。地方、階級、イデオロギーや教養に関係なく、自分の人生、アイデンティティ、問題意識を経験/表現するための重要な言語体系になっている。場合によっては歌は共同体的なアイデンティティのシンボルになる。

【分かったこと】
イタリア人にとっての歌は、「両義性」という表現にも現れているが、イタリア人が単なる陽気な存在ではなく複雑な歴史背景の中で生まれてきた中での想いが込められている。それを伝えていくためにイタリア人は歌、特に詩を大切にしている。その感覚は、日本人のそれとは大きく異なる。
音楽の流行り廃りは時代によって異なる。それはある意味、時代や人々の変化に応じて変えていくためのアプリケーションのようなものであり、「伝えたい想い」は時代を超越して重要なものである。個人の中核にある軸を多様な文化の交流、歴史の深掘りを通じて定めていくプロセス、そしてその軸を言葉として紡ぎ出し、歌に乗せて伝えていく。
イタリア人にとっての歌は、そういう意味で個人の哲学そのものである。それを歌う側、そして聴く側にとっても。やはり文化は双方の深い想いの交わりから生まれていくということを感じた。

イタリア人にとっての歌に該当するものは、果たして日本人にあるのだろうか。伝える手段としての歌や踊り、演劇、本などはたくさんある。しかし一方で、ベースとして多様な人たちが議論し合って想いを深掘り、広げ、自分の軸を定めていく部分が決定的に欠けている。自分で自分のこと、家族のこと、自分の仕事や産業のこと、自分の住まう地域のこと、社会のことを過去を多面的に見つめる中から未来を見据える中で考えていく。そこからがスタートである。

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