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『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造2』(フェルナン・ブローデル) ‐鍵となる問題−遅かった輸送

フランスの歴史学者、ブローデルの「日常性の構造」を読んでいくオンライン読書会の第15回目。今回は第6章「技術革命と技術の遅れ」の「遅かった輸送」を読む。

【概要】
外洋航海における欧州の勝利は、全世界的な連絡体系に結びついていった。しかし、輸送そのものは旧制度の恒久的限界を超えられなかった。
陸上輸送は麻痺状態で足場の悪い道(とても街道とは呼べない)を徒歩や驢馬で行くしかなかった。郵便は欧州の中でも数週間や数ヶ月を要し、交易も人間関係ものろくした。エルンスト・ヴァーゲマンのいう「空間の総崩れ」が生じたのは1857年の大陸間海底ケーブル敷設からだった。

当時の街道のほとりには旅籠・鍛冶屋・村・町があった。街道は悪路でも他人の労務に頼らずして旅行はできなかったので街道を通らざるを得なかった。1776年ロシア軍医のスイス人医師はオムスク-トムスク890kmを178時間(5km/h)かけて踏破した。宿駅ごろに馬を替えながら。これは新世界の状況だが、中世の欧州でも同じだった。
街道沿いを行く限り快適な旅行ができるのは、人口が多く維持がしっかりした文明開化した国であり、中国・日本・欧州・イスラム圏などだった。
船舶についても同様で沿岸航海が基本で、食料や水を寄港地で更新しながら順番に進んだ。
1297年以来、地中海からブルージュまでの定期海上航路が確立されたが、直接交易へと変化し、中継地貿易が減るなどの構造変化が起こった。陸上でも13世紀の蒙古による征服で中国・インド・西洋の直接陸上交易が盛んになったが、景気後退で一挙に後退した。短距離交易は経済の状況をより受けた。

川が流れていれば水運が存在し、陸運が衰退してもまだ交易は続いた。水上交通の発達に伴い、水上駅も生まれ、またそこから紛争が生まれた。しかし中国の水上通商や水上都市の規模は世界でも圧倒的なもので他の地域と比較にならなかった。

結局のところ15世紀−18世紀にかけては輸送については、ほぼ進化していなかった。中国では人力がいつでも安上がりなので苦力が小舟を別の運河へ移していた様子は同じだった。ポーランドでは1957年にいたっても荷馬車が街道を運んでいく様子があるなど、世界各地で大きく変わらなかった。欧州では砲兵用砲車の前方車輪が動く馬車が本格使用され始めたのが1470年頃で四輪馬車は16世紀末、駅馬車や貸馬車はロマン主義(18世紀末−19世紀初頭)だった。

船舶も1588年の無敵艦隊より1世紀以前に造船技術は記録的段階に達しており、18世紀末期の東インド会社の船舶でも1900トンくらいで、16世紀のポルトガル大商船でも2000トンだった。造船素材・帆・大砲などに由来する限界でそれらが「天井」になった。

輸送コストは陸上は時代状況によって異なるが価格の平均10%だった。河川は関銭や臨検、河川の分断などがあったので商品は陸路を選んだ。海上輸送が発展していくと、1828年の記録では「陸上を十里輸送するのは海上を千里輸送するより費用がかかった」。これにより、道路の発達はさらに遅れた。

輸送すなわち交換が限界に達するということは、経済発達の限界を意味した。輸送の速度の遅さ・量の貧弱さ・不規則性・原価の高さが限界を課した。結果としてポール・ヴァレリーのいう「ナポレオンの行軍ののろさはユリウス・カエサルのときそのままであった」のである。

【わかったこと】
輸送量すなわち交換量の限界が経済の限界というのは、言われてみれば当たり前だが、なかなか気づかないところだった。様々な技術が発展してきたとは言え、ヴァレリーの言葉によると2,000年前と大して人類は変わらない歴史を歩んできたのだ。紀元前3000年頃には地中海貿易も盛んに行われてピラミッドもできるくらいの文明も生まれていたことを考えると、人類は5000年間、ほとんど進化していなかったとも言えなくもない。
産業革命以後は世界の主要都市間の移動時間の短縮により、交換経済の発達は飛躍的に進んでいるように見える。しかし結局のところ、この章でも見られたように資本家が富を吸い上げていることや、底流に流れつづける自然環境による影響など、それらを扱う人間はそんなに変わっていないという人間の限界も知るべきなのかもしれない。
宇宙に行っても同じことを繰り返していることで人間の変わらない性質を描写している銀河英雄伝説を思い出した。

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