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『ニコマコス倫理学』第9巻-友愛(ピリアー)の続き

哲学初心者の僕がアリストテレスに向き合う。今回は第8巻からの友愛の続きとなる第9巻を読む。恋など、友愛と似ている各種の価値観について整理していく、友愛のまとめになる。

■概要
⚫友愛の形としての「恋愛」
あらゆる友愛は双方の比例関係であり、それは貨幣が尺度として用いられている。一方でアリストテレスは、それとは異なる友愛の形として恋愛について述べている。

まず恋愛を次のように整理している。
 恋する者:恋される者を自分の快楽のために愛する
 恋される者:恋してくれる者を有用性のために愛する

このような関係性であるため、互いに求めるものが手に入らないときに不満・争いが生じる。そして求めるもの以外のものが得られた際も同様である。そして、その利益の価値の査定は与える側は受け取る側に任せている。だから約束された報酬が人に支払われよ、という規則が好まれる。

ゆえに先に報酬が支払われても過大な約束のために、言った価値が提供されないと不満になる。これを述べているところで、ついにアリストテレスはソフィストについても触れ、報酬分の仕事をしないソフィストは不満を訴えられるとする。

ソフィストというのは、自分たちが本当に知っている事柄のためにお金を払ってくれるような人はだれもいないので、相手にどうしても過大な約束をせざるを得ないのである。

第9巻第1章 P404

恋愛とは異なるが、アリストテレスは、他の友愛の形についても述べている。
⚫奉仕
奉仕へのお返しは提供した人の選択の価値においてなされるべきとする。哲学も、その価値は金銭との関係で計れないため、自分にできるものを返し与えればおそらく十分とする。

⚫近親者や隣人
父親・母親、兄弟等、そして年長者には、それぞれにふさわしい名誉を返し与えるべきである。それぞれに属しているものは異なるが、できる限りふさわしいことを考えるべきとする。

これらのバランスが崩れたときに友愛は解消されるが、過度の邪悪でない限り、配慮・期待・支援なども含めて直ちに解消されるわけではないとしている。

⚫隣人への友愛
隣人については、自分自身への友愛のあり方に由来しているのではと考え、友の種類を次のように分類し、品位ある人の自己保身に対する関係において認められるとしている。

  1. 善あるいは善に見えるものを自分の友のために望み、かつ実際に行う

  2. 自分の友が存在し、生きることを、その友のために望む

  3. 相手と一緒に過ごす

  4. 相手と同じものを選ぶ

  5. 自分の友と、一緒に苦しみ、一緒に喜ぶ

品位ある人は、ここまでの章でも述べられてきたように、善を行い、善なる行為・考えや同様のことを欲する人々と関係性を持つため、自分のために行ってもそれは相手にとっても善であることとなる。 低劣な人の場合は(筆者的には「にんげんだもの」的に現実を感じるが)欲求と願望が矛盾したり、臆病や怠惰ゆえに自分自身にとって最善のことに尻込みしたりする。そして自分だけだと不安なため、一緒に過ごしてくれる相手を求め、自分自身から逃避するが、友好的なものは無い。だからこそ邪悪を全力で避け、品位ある人間になるよう努めるべきとしている。

そして、アリストテレスは友愛と似ているが異なるものについても整理している。
⚫好意

好意は相手が気づいていない。そして緊張や欲求も無いため、愛でもない。このように一方的なものなのである。好意が持続し、恩恵の代わりに相手を好意を返し、互いの親密さに到達すると友愛になる。動機は、有用でも快楽でもない。

⚫協調
行われる事柄について有益であると同じ認識を持ち・選択し・実行する状態を指す。全体にとって利益になるものを共同で目指すことであるが、低劣な人はわずかしか協調できず、自分の利益を追い、隣人を妨害してしまったりする。

このように整理してきた上で、アリストテレスは、人々が共に生きて善い社会を成り立たせることについて論じる。多くの人々と友になることはできないが、徳のための友を少数でも持って満足すべきとする。
そして、友と過ごすことが快楽でもあり、苦しいときには補助になるといったように快苦が混じり合い、共に存在し、共に生きる行為や状態が友である人たちにとって最も望ましいとする。

■私見・感想
たまたま、この章を読んでいるタイミングで、昨年亡くなった同い年の友人を偲ぶ会があった。3日にわたって開催された会の期間中、八王子に滞在し、自分にできることをできる限り行なった。彼は亡くなっているので、「報酬」が彼から返ってくることはないし、残された家族やメンバーから返ってくるといったも含めて、そもそもそういった「報酬」を期待して行ったわけではない。ではなぜわざわざ遠く離れた八王子まで行ったのか。
この会の「ありがとうの会」という名前がまさにそれを表している。彼と生前に交わした会話や共に過ごした時間など、全てを考えると「ありがとう」という言葉が最もふさわしかった。ある意味、返しきれないものを自分も含めて多くの人が受け取っていて、だからこそ彼に今回の機会を通じて少しでも返したかったのだと思う。そして、自分としては、もう共に過ごせなくなった友としての彼との関係性を、同じように関係性や認識を持つ人たちと分かち合い、それらの人と共に生きていく関係になり、少しでも彼との友愛関係を保ち続けたいという想いから、駆けつけていたのかもしれない。
自分のこのような経験からも、今回の章での「友愛」は、前章で語られていたようなものだけではないと考えていた自分にとっては、とても整理ができたものだった。

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