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これは悲劇か災いか、それとも幸運なのか

その日は雨が降っていた。

朝、玄関から外に出ると思いのほか雨脚が強く、私は眼の前に停まる車に乗るのに傘を広げた。この日は朝からラジオの生放送出演が入っていた。遅刻してはならないとだいぶ早めに家を出た。

案の定、道路は混んでいた。朝の通勤時間ということもあってバスの往来が多かった。運悪く、私の前の車はとてつもないマイペースドライバーだった。いつまでも効率の悪い走りが続いた。おかげで本番ギリギリになってしまい、朝のコーヒーを飲み損ねた。本当はもっと早く到着して、スタジオ近くの喫茶店で淹れたてのコーヒーをテイクアウトするつもりだったのに。

マイクの前に座った瞬間に放送が始まった。間に合ってよかった。番組が始まると、私は敏腕パーソナリティによって心地よく弄ばれ、踊らされた。これがベッドの上であれば私の方からもバランスよくお返しするところだが、味気ないグレーのデスクと、リスナーと繋がるマイクの前では成すすべもなかった。

あっという間に私の出演コーナーが終わった。
私は番組スタッフに挨拶をしてスタジオを後にした。さぁ、これで淹れたての美味しいコーヒーが飲める。

目指していた喫茶店の扉を開けようとすると、マスターが何やら忙しそうにカウンターの奥で動いていた。今はタイミングではない気がする。

私は諦めて、隣のコンビニでコーヒーを買い求めた。
最近のコンビニでは挽きたての豆のまぁまぁ美味しいコーヒーが購入出来る。これが100円ちょっとで飲めるのだからリーズナブルだ。SサイズかMサイズかで迷ったが、欲張るとろくなことがないと思い直し、Sサイズを購入した。熱いコーヒーがなみなみと入った紙コップにリッドをきっちりと締め、颯爽と店を後にした。

朝早い放送だと、その後の時間が死ぬほど有意義に過ごせる。これが何もない日だと、目が覚めてから寝ながら仕事をして昼近くまで寝室から出ず、ようやく寝室を出た後ジムに行き、帰宅して入浴をし、さぁ一日の始まりだと引き締まった気持ちになる頃には既にその日の夕暮れを迎えていたりする。

時計を見るとまだ十時前。うひょー! と脳内歓声を上げ、私はコーヒーをすすった。朝早いコーヒーがこんなに美味しいだなんて、バリ島でバカンスを過ごしているかのようだ。

鼻歌を歌いながら滑るように車に乗り込み、エンジンを掛ける前にもう一口コーヒーをすすった。今一度リッドがきちんとハマっているか確認した。大丈夫。斜めにしてもこぼれないくらいきっちりと重なっている。駐車場を出て、直線道路に出たらゆっくりコーヒーを楽しもう。

紙コップをドリンクホルダーに置いた。しばらく走っているうちにふと、何かのコードが紙コップの下敷きになっているのが気になった。その時、信号が青になった。私は進行方向を見ながら、コードを紙コップの下から引き抜いた。その拍子に紙コップが浮き上がったのを感じた。私の左手の方で コポコポコポ… という車の中では聞いたことのない音がした。ああ、コーヒーをこぼしてしまったか、と私は左手で自分の服を触った。まったく濡れていなかった。あれ? 紙コップが置いてあったドリンクホルダーを探る。コップがない。足元を見る。コップはない。助手席に触れる。濡れてはいない。コップもない。ひょっとして、助手席の足元に転がったかなと思い、ああ面倒なことになったとため息をついた。助手席には濡れた傘が置いてあり、コーヒーがこぼれたとなると傘はコーヒーだらけ、助手席の足元はフロアマットが敷いてあるものの、液体がその下に入り込んでいたらシミ取りだのなんだの、面倒だ。

こんな時に限って信号はどこまでも青だった。
来る時はあれほど渋滞していたのに、帰りはまったく滞ることなく順調だ。

ああ、助手席の方が見たい…。

どこか路肩に停まって確認することもできた。
しかし、確認できたところで路肩ではその後の処理は何もできない。何も手が出せないまま悶々として道中を行くのはストレスだ。それなら見ない方がいい。

覚悟を決めたところで信号が赤になった。タイミングよ…。

私はドリンクホルダーを見た。私は自分の目を疑った。紙コップは隣のドリンクホルダーに逆さになって安置していた。

先程の コポコポコポ… という音は、しっかりとしまったリッドの呑み口からコーヒーがドリンクホルダーに注がれる音だった。私は逆さまになったコップを引き抜いた。憎たらしいくらいリッドは紙コップとかみ合っていた。

まだ二口分しか減っていないコーヒーが、助手席側のドリンクホルダーの中でタプタプと揺れていた。Mサイズにしなくて本当に良かった。このドリンクホルダーにはSサイズがジャストミート。むしろ二口分減ったくらいがベストアマウント。なんならこれよりかさが減ったら退屈過ぎる。

どうか見てほしい。美しいまでのこの惨劇を。

おわかりになるだろうか。右側のカップの中がすっかり殻になっている。
まるでそこにあるのが当たり前のように揺れるコーヒー。

おかげさまでどこを汚すというわけでもなく、コーヒーは見事に助手席側のドリンクホルダーにチップイン。液体として正しい佇まいだ。ただし、飲み方はわからない。たぶんマクレーン刑事*でもわからない。

マクレーン刑事:映画『ダイ・ハード』の主人公。ダイ・ハード3でテロリストから「3ガロンの容器と5ガロンの容器がある。この容器のひとつに4ガロンぴったしの水の量を入れて測りの上に置けば爆弾タイマーが止まる」というクイズを出題され、見事に解答する。

https://www.eiga-square.jp/title/die_hard_with_a_vengeance/keyword/13

飲みたかった美味しいコーヒー。我慢してやっと手に入れた美味しいコーヒー。まだ二口しか飲んでない熱々のコーヒー。諦めきれない。どうしたらいいの。何をしたらいいの。私の脳内で声がする。

”吸え。吸うのだ。吸ってしまえ!”

吸うの? これを? ストローもなしに?
私は口をとがらせて必死の形相でこのコーヒーを飲もうとする自分を想像した。

いや、無理。
普通に無理。
そんなことをしたら妖怪コーヒー吸いとして伝説を残してしまう。

いつの未来か、母親が小さい子供に言って聞かせるのだ。車のドリンクホルダーにいたずらでコーヒーを入れたり、こぼしたりしてはダメよ。コーヒー吸いのお化けが出るわよと。そうしてその子は大人になって、自然な振る舞いとしてドリンクホルダーにコーヒーを注ぐことのない、正しい大人として成長していくのだ―――。

なんの栄養にもならない思考を巡らせている間に自宅に着いた。
さて、どうやってこれを片付けようかと考えを巡らせる。

ふと、夜中の通販で衝動買いしたまま一度も使ったことのない超吸収クロスがあったのを思い出した。それをドリンクホルダーに突っ込んだら、ものの2秒でコーヒーを吸い上げ、なんの面倒もなくきれいになった。いろいろな意味で感嘆した。

時計を見ると、まだ11時前だった。
既に一日分のエネルギーを消費しているように思えた。

クロスにたっぷり染み込んだコーヒーを絞ると、コーヒーと雨水が混ざりあって足元を流れていった。”死ぬほど有意義な時間” も一緒に流れていっているような気がした。

雨の降る空を見上げた。雨粒が私のまつ毛を濡らした。

#妖怪コーヒー吸い
#リッドを取らずにいてよかった
#脳内盆正月

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雨の日をたのしく

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