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#10 天空に舞うセスナ

私は今でもコマーシャルな場所を観光するのが苦手です。暮らすように旅をするのが私のスタイルです。でも、この時ばかりはグランドキャニオンの壮大な眺めを天空から見たかったのです。ドローンでの空撮みたいなあの景色を。


ぽかぽか陽気の気持ちのいい日だった。
私は旅の最中に、営利的な場所へ行ったりツアーに参加するのはあまり好きではない。しかし、今回は特別だった。グランドキャニオンを空から眺めてみてもいいんじゃないか?とふと思いたったのである。というわけで、私は遊覧セスナを予約した。

セスナの操縦士は、老人だった。既にリタイアしていて、老後は大好きなセスナを操縦して毎日を過ごしている、というところであろうか。もうすぐ予約しているフライトの時間なのに、操縦士は、「頭が割れるように痛い」と言って横になっていた。大丈夫なのだろうか。なんでも、午前中セスナを一人で飛ばして気ままに遊覧してきたのだが、セスナを操縦した後は必ずひどい頭痛と肩こりに悩まされるということだった。

「でも、大丈夫だよ」

とおじいさんは起きあがった。
今日は風が強い。地平線の向こうに雨の柱が見えた。遠い向こうではどうやらにわか雨が降っているようだ。私は強い日差しをよけて、木陰へ腰をかけた。はー、のんびりとした午後だこと。

おじいさんは、天候がよくなるまでしばらく待とうといった。そして、風が強いから、行きは時間がかかるけど、帰りはピュンってあっという間に帰れるよ、と説明してくれた。帰りは燃料も減って軽くなるので、ことさら早いとのことだった。しばらく世間話をしながら、ゆったりとした時間を過ごした。目の前のセスナはとても小さい。先頭に付いているプロペラが強風でくるくると回っていた。

「さぁ、出発しようか!」

もったいぶった言い方をして、おじいさんが飛行機へ向かった。おじいさんは私にシートベルトの締め方を教えてくれ、ドアを閉めた。うーん、思ったより狭いんだなぁ。隣の席におじいさんが座る。おじいさんがドアを閉める時、古いイギリス車のドアが閉まるようなひしゃいだ音がした。目の前にあるのはわけのわからないたくさんの計器と、プラスチック製のようなフロントスクリーンだけである。フロントスクリーンの向こうに、プロペラの一部が見えた。景色は、フロントスクリーンよりも横の窓からのほうがよく見えそうである。

おじいさんが、グィッと何度か紐を引っ張った。ブンブルン! セスナのエンジンが始動する。プロペラが勢いよく回り始める。おー、これで飛ぶのか。そのまま地面を走るだけでも、楽しそうな乗り物だなぁ…などと最初はのん気に構えていたのだった。

セスナが前に走り出す。ゴロゴロゴロと音を立てて走り出す。どんどんスピードが増していく。おじいさんがハンドルをぐいと手前に引いた。するとどうだろう。ぐっと体が重くなったと思ったら、セスナが宙に浮いたのである。横の窓から下を見る。おお! 飛んでる! 地面がどんどん小さくなっていく! 遠くに見える山が斜めに見える。ついに、セスナが空を飛び始めた!

家々のカラフルな屋根や、青く茂る芝生の庭がどんどん小さくなるにつれて、私は心細くなっていった。さよなら、私のいた町。また戻って来れるかな。私は密かに心の中で、死んだおじいちゃんに話し掛けた。無事に帰って来れますように。誰にも心配かけるようなことがありませんように。おじいちゃん、よろしくね。(ちなみに私が生まれた時、祖父は既に他界していたのでその姿は遺影でしか見たことがない)

民家がどんどん減っていった。目の前は空しか見えない。横の窓から見える景色は、斜めを向いた不毛な大地だけであった。

おじいさんがこの辺りについて説明してくれる。エンジン音に声がかき消されないように、大きな声で説明してくれる。草木の生えない大地がどんどん遠くまで広がっていく。そしてついに大地が裂け始め、その裂け目が次第に私達を飲み込んでいく。その間にコロラド川が流れている。コロラド川の流れはその日によって表情が違う。赤色であったり、緑色であったり、青色であったり、オレンジ色であったり。今日のコロラド川は、昨日の雨のせいで泥のような色になっていた。水のあるところには草が生える。この辺り一帯は、Native Americanの土地で、野生の馬や牛が生息しているとのことだった。たったこれだけのわずかな緑を糧に、野生の動物が生息しているのだ。

アルタビスタというソフトを知っているだろうか。
PCの画面の中で大地を創造し、太陽の傾き、木々、雲、湖や川を思うままに設定していく画像作成ソフトである。仕上がった画像の中を、自由に飛び回り、その映像を見ることも出来る。目の前にアルタビスタで作成したような景色が広がっていた。いや、それよりもはるかに美しい、リアルで、剥き出しの大地が広がっていた。荒くて、飾り気のない自然は、ありのままの姿で美しい。これが、誰が手がけたわけでもない、長い年月が勝手に作り上げたものなのかと思うと、その尊さに心を奪われる。そんなことを考えてる最中だった。

あおり風にセスナが木の葉のように揺れた。

ガタガタガタッ! ストン!

突然、高度を下げるので、私は天井に頭を打ちそうになる。実は、私はジェットコースターなどの類が大嫌いである。Gのショックは大丈夫。でも、抜けるようなマイナスのG(これをなんと言うのだろうか)には滅法弱い。内臓が体内で宙に浮く感じ。お尻が宙に浮く感覚。おじいさん、私達、どこまで落ちるんですか。

「ヒューヒュー!」

おじいさんは不安気な私を気遣ってか、空騒ぎだ。もう一度、高度を上げる。あおり風にまたやられて、セスナが揺れた。揺れる揺れる、木の葉のように。このまま落ちたら、あの絶壁に当たって粉々だ。逆Gを感じるたびに、私の体が宙に浮く。

ふと、おじいさんが真剣に私を見た。どうも私のシートベルトが気になるらしい。

「もっときつく締めないといけないよ」

おじいさん。私はアメリカ人のように体が大きくないんです。めいっぱい締めてるのに、まだぶかぶかなんです。

「どれ」

おじいさんがシートベルトを更にきつく締めようとする。別に道路じゃないから、「前! 前!」って騒がなくてもいいけど、気分は不安だ。おじいさんは、シートベルトはこれ以上きつくならないことがわかったらしい。それ以降、シートベルトを気にすることはなかった。その代わり、急な高度の上げ下げもしなくなった。もしかして私、危険なの?

どんなに怖くても、私は叫び声などはあげない。ヒステリーな女と思われるのは心外だからだ。ヒステリックにわめきちらす女を見ると、一発殴って気絶させて黙らせたくなる。私は泣き声もあげない。弱虫と思われたくないからだ。めそめそしたって、何も解決にはならない。泣けたらかわいいんだけど、私はかわい気のない女なので泣けない。それに、私が泣いてもかわいくない。

話がそれた。
フロントスクリーンがカチカチと鳴り出した。おー、雨の中へ突入したのだ。雨がスクリーンに当たって、カチカチとみぞれが当たっているような音をたてている。風が吹く。ふわりとセスナが揺れる。あああ、落ちそうだ。おじいさん、私達はちゃんと飛行場まで帰れるんでしょうか。激しい雨のせいで、視界はかなり悪い。

こんな緊張感とは裏腹に、急激な睡魔が私を襲った。ね、眠い。こんな危険な状態で寝てしまっていいのか。いや、それよりも、眼下に広がるこの壮大な景色を、睡魔などに負けて見逃してしまってもいいのか。根性で目を開けるんだ!しかし、私のまぶたは重たい。こんなに急激に眠くていいんだろうか。ああ、眠い、眠い、眠いーーー!!! くそー、地上に戻ったら寝てやる! 寝てやる! この世の果てまで眠ってやる!! だから、今は目を開けるんだーーー!!!

私は睡魔と戦いながら、頭をがくがくさせていた。
どうもおかしい。この眠気は異常だ。何か普通ではないものが、これほどまでに私を眠くさせている! なんだ? 極度の緊張のせいか? それとも、この大自然を前にα波がビンビン出てるのか? いったい何なんだ! この眠気は!!!

怖かった。辛かった。
セスナが小さな空港へ戻ったときは、帰ってこれたことに心底感謝した。
と、当時にあれほど眠くさせた異様な眠気はどこかへ行ってしまっていた。
手のひらは、汗でびっしょりだった。

後に聞いた話であるが、小型セスナでの飛行中に眠気が襲う、というのは普通のことなのだそうである。小型セスナは前方にエンジンがあり、そのエンジンから有毒なガスが出てくるとか。ただでさえも高度が高くて空気が薄いのに、有毒なガスの効果も加わって、異様な眠気を催すらしい。だから、操縦士にはガスマスクの着用が義務付けられているとか…。え? 本当? おじいさんはサングラスしかしていなかったよ。はっ…おじいさんの頭痛と肩こりってそのガスによるものなんじゃないかな。

うーん、私はラッキーな便に乗ったのだろうな。

(つづく)


今はヒステリックな女性を見ても殴りません。私の心は瀬戸内海のように凪いでいるので、そういう女性にはただもうイイコイイコしてあげることにしています。獰猛な闘犬だって、イイコイイコすれば大人しくなるって誰かから聞きました。

#セスナは木の葉のように

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