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武庫川と歌劇と阪急電車。我が青春の街・宝塚に思いを馳せる-ボツ原稿にR.I.P-

このnoteは、SUUMOタウンに寄稿させていただいたコラムのボツ原稿を、執筆にお声がけいただいた今井くんへの感謝に少しの恨み節を加えて供養するためのものです。

かつての音楽業界は、レコードやCDといった円盤型のディスクにシングル曲と一緒にサブ的に1-2曲入れた形で販売されていた。そして時に、リード曲としてA面に収録される曲以上に人気を博すことがあり、「隠れた名曲はB面にある」と言われることも少なくなかった。

足踏みと手拍子から始まるイントロを聴けば誰もが興奮するQueenの「We Will Rock You」だって、もともとはシングル曲のB面として収録される予定のものだったという。

35年連続オリコンランキングTOP100に入る山下達郎の代名詞とも呼べる名曲「クリスマスイブ」だって、もともとは「MELODIES」というアルバムに収録された曲だ。

A面でもB面でも、どれが名曲になるかは出すまで分からないものである。

「地元をテーマに、SUUMOタウンでコラムを書いてほしい」

ツドイの今井くんから連絡が来たのは、2020年9月ごろのことだった。

小野美由紀さんや徳谷柿次郎さんなど、身近な人が沢山寄稿するSUUMOタウンの地元コラム。「あぁ、いいよー」と何食わぬ顔で引き受けたものの、心の中では「おせーよ」とつぶやいていた。僕は嬉しかったのだ。ありがとう今井くん。

自分がSUUMOタウンでコラムを書くことなんて本当はかけらも思っていなかったんだけど、書くならここしかない。僕の地元、宝塚のことを書こう。

今井くんにも了承を得て、キーボードを見つめながら自分の生まれ育った街に思いを馳せる。「写真も欲しい」と言われたので、自腹で実家に帰省することにした。地元で中学時代の友人がやってる居酒屋に行き、思い出話に花を咲かせたりもした。僕は、愛する地元の話を誰かに聞いて欲しかったんだと思う。

依頼からひと月ほどして、原稿が完成した。反応はまずまずだった。

しかし、事態は急転する。「先方確認に回すね!」という言葉から、連絡が来なくなってしまった。その後、「一度原稿について話したい」と今井くんから声が掛かり、渋谷のタイ料理屋で飯を食いながら話すことに。

「…ごめん、『いまの宝塚』について書けへん?」

無理だ。なにせ宝塚から離れて13年も経つ。そんな僕が書く宝塚は10代の記憶、もう20年以上前の話。僕の記憶の奥にしまってあるそのレコードは、頭の中で何度も針を落とされ少々音飛びがするほどには古くなっている。

そんな僕が地元について書くと、限りなく昔話で構成されるのは自明である。「地元についての思い出を書くこと」と、「地元について書くこと」は、似て非なるものがあるのだ。SUUMOタウンのコラムを改めて読み返すと、地元であろうがなかろうが、確かにみんな「いま」を書いているじゃないか。

やってしまった。自分も編集者なので大体察しがつくが、この時点でボツは決まった。

そこで書き上げたのが、かれこれ6-7年は暮らしているであろう富ヶ谷についてのコラムだ。吹けば飛ぶようなポップな語り口のコラムとなったが、これはこれで気に入っている。富ヶ谷はいい街だ。

しかしこれでは宝塚も僕も報われない。この原稿のために帰省するきっかけを作り、採算度外視(※)で作った原稿の掲載を、今井くんにもご快諾いただいたのでここに公開することとする。
(※)編集部からの強制ではなく個人の判断で帰省しました

このnoteで盛大に恨み節でも書いてやろうと筆を執ったが、こういう機会がなければ地元について書くことも、久しぶりに帰省することも、友人の店に立ち寄ることもなかったかなと思うと、これはこれでいい経験になった気がする。

ということで、一度はボツになった原稿だが、ここで供養させていただこう。今井くん、改めて貴重な機会をありがとうございました。

* * *

ボツコラム: 住みたい街ランキング常連の街で育った僕が思う、「住みたさ」の正体

2020年10月。「地元をテーマにコラムを書いてほしい」という友人からの依頼を受け、東京からはるばる実家の兵庫県宝塚市に帰省することにした。新型コロナウイルスの影響もあって、約1年ぶりの帰省だ。

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「めんどくさいことは物語の最初に説明せよ。最初なら観客は我慢して聞いてくれるだろう」と、漫画家のすぎむらしんいちさんが『最後の遊覧船』の冒頭で架空の本『シナリオの極意』に書いた通り、簡単な僕の自己紹介を最初に済ませておこう。

僕は浪人を経て2004年に大学に入学し、2008年に新卒で契約社員としてギリギリ滑り込んだ人材系の会社で働くために上京。オウンドメディアのオの字もない頃にWebメディアの編集者となってベンチャー企業の取材をするうちに何故かベンチャー企業で働き出し、気がついたら起業という道を選んでいた。

現在は、株式会社ナンバーナインという漫画のデジタル配信サービスを展開する出版ベンチャーの取締役兼編集者として働いている。ベンチャーに取材する側からされる側へ、ミイラ取りがミイラになってしまったかたちだ。

実家にいてもすぐにPCを開いて仕事をしてしまうから、せっかくだし家から15分くらい歩いて居酒屋「炙り 湖ノ味」に向かった。中学時代の友人が営む創作居酒屋で、有川浩さんの小説『阪急電車』の舞台になった阪急今津線の小林駅近くにあるお店だ。まさかこの地に中谷美紀ほどの有名人が舞い降りたことは、子どもの頃に見た千堂あきほ以来の衝撃だった。

店に到着すると、カウンター越しに元生徒会長のしゅうちゃんが笑顔で迎え入れてくれた。この日は小中大学時代の友人も来てくれたこともあって、中学生の頃の思い出話を肴に飲むことになった。

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僕が通っていた中学は荒れていた。ヤンキーは廊下でカツアゲするし先輩にヤキを入れられるし他校の生徒たちと河川敷で乱闘騒ぎを起こすしシンナーだって吸う。休み時間に友だちと馬鹿話していたら突然ヤンキーがやってきて、一人ひとりをしばいて回ったあとで何故か僕だけ「コロ(僕のあだ名)は許したるわ」と言われ難を逃れたこともあった。その時とっさに口からこぼれた「ありがとう」の意味を、20年経った今も探している。

僕の所属していたサッカー部はヤンキーのたまり場だった。なぜか3年生に上がったタイミングで学年一ヤバいヤツが入部してきて、卒業アルバムの写真にちゃっかり写っていた。部室ではタバコにシンナー、競馬に麻雀もどんとこいだ。

一番ヤバかったヤツはいま、ヤクザから足を洗って堅気の仕事をしていると風のうわさで聞いた。他にもクスリをやったり、悪いことで小銭を稼いでいたりしているらしい。彼らは中学生の延長線上を生きているのだろうか。

純朴少年だった僕は、不良たちの嗜好品に一切興味を持たなかったので純粋にサッカーを頑張っていた。よくもまぁそんな環境でグレずにその部活を3年間続けたなと思うが、まぁあれだ。ヤンキーは友だちには優しいというが、サッカー部のメンバーにはたしかに優しかったんだ。

とまぁ、皆さんの想像する宝塚とは少し違うかもしれないが、僕の思春期はリアルサグライフと隣合わせにあった。これも僕が育った宝塚の一つの物語である。

「住みやすい」という言葉の裏に隠れた素朴さと没個性

僕の中学時代は置いておくとして、宝塚が住みやすい街かどうかと聞かれると、答えは100%「イエス」だ。

関西の二大都市・神戸と大阪梅田へはそれぞれ30分から40分くらいで行けるし、1時間ちょっとかければ京都の河原町へも行くことができる。関西の名所へのアクセスの良さは、宝塚が受ける大きな恩恵だろう。おかげで県外デートも捗った。

サッカーにすべての時間を捧げようと息巻いていた高校時代、その決意は入学3ヶ月で崩れ去った。クラスの子に一目惚れし、お互い携帯電話がなかった時代に毎晩自宅のデスクトップPCからメールを送り合った結果、晴れてお付き合いをさせていただくことになったのだ。今思うと、僕の高校時代はどっぷり恋愛沼に浸かったような気がする。

初めてデートしたのは神戸で、映画を観たり買い物をしたりもいいけど、街をぶらり散歩するだけで二人の時間は輝いていた。帰りに逆瀬川駅のロッカーに一輪のチューリップを忍ばせていたのはかわいい思い出である。

二回目のデートは定番の梅田だった。「乗ったカップルは別れる」ともっぱらの噂だったHEP FIVEの観覧車は、いまも夜な夜な関西圏の初々しい恋人たちを乗せているのだろうか。

一方で、魅力あふれる都市に囲まれた宝塚には、よくも悪くも何もなかった。宝塚市民は宝塚歌劇を観に行かないし(公立高校は社会見学で観劇する)、手塚治虫記念館の魅力に気づくのはたいてい大人になってからだ。宝塚の山中にひっそり佇む武田尾温泉も、少し足を伸ばせばたどり着く全国屈指の温泉地・有馬温泉を前にしては太刀打ちできない。

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地元でやるデートといえば、とても素朴でかわいいもんだ。高校時代は学校から駅までの道をバスに乗らず二人で手をつないで帰ったし、無駄にだだっ広い末広公園のベンチや武庫川の河川敷でちょっといちゃついたりしていた。大学時代に周り全員から「絶対やめとけ」と言われていた、僕が廃人になりかけるレベルで惚れた美容師の女の子を11月のクソ寒い河川敷で待ち続けたのはいい思い出である。(結局、彼女が来ることはなかった)

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あぁ宝塚。なんて素朴で控えめで上品な街なんだろう。

ちょっと移動すればすてきな場所がそこここにあるから、あんまり頑張る必要がなかったんだと思う。海も山も川も、貧も富も。ここにはすべて揃っていた。宝塚の住みやすさイコール利便性であり、裏を返せば没個性的であるということなのかもしれない。

素朴な町並みの中に潜む、隠れた名店たち

続いては、少し角度を変えて宝塚の魅力を伝えていきたい。地元の友人とはほとんど交流がなくなったいま、実家に帰るたびに地元に根ざしたお店に入るというのが僕の数少ない楽しみである。宝塚はいい佇まいのお店が点在しているのだ。

逆瀬川の閑静な住宅街にある石豊亭は、目の前を通ってもただの一軒家にしか見えない、知る人ぞ知る中華料理屋だ。肩肘張らずに和やかな雰囲気を演出してくれる和の空間でいただく中華料理は、日本人の口に合わせた上品で素朴な味わいである。

同じく逆瀬川にあるのは、荘厳な外観がひときわ目を引く珈琲専門店MUC。学生時代はその敷居の高そうな雰囲気ゆえ見向きもしなかったが、30歳を超えて初めて足を踏み入れた。店内は円を描くようにカウンター席が用意されていた。コーヒー豆の種類も豊富でケーキも充実。

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この喫茶店、実は京阪神を中心に展開する珈琲専門店で、大阪の中百舌鳥の方にレトロや趣という言葉を通り越した古墳級の激シブ喫茶店も同じフランチャイズだと知り、一層興味が湧いている。

地元で外せないのが、庶民派パン屋の代表格である「パンネル」だ。僕はパンネルで育ち、一時期はパン屋さんになりたいという夢を語っていたこともあるほど僕をパン好きにさせた罪なお店である。とにかく安くてラインアップも安定している、何十年も変わらず地元に根ざした町のパン屋さんだ。

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八百屋並の声量で僕の帰省を迎えてくれる高橋がなり似のおっちゃんパティシエがいるいなせなケーキ屋さん「ガトールテチア」は、おっちゃんが癌になった後もしばらく頑張ってお店を切り盛りしていたが、数年前に閉店してしまったらしい。「男は募集していない」と大学時代にバイトを門前払いを食らって以来優しくしてくれたおっちゃん。生きていたらまたおっちゃんのケーキが食べたいなぁ。

こちらも閉店してしまったが、大学生の頃に僕がバイトしていた阪急門戸厄神駅(西宮市)のちっちゃなイタリア料理屋「ラ・ランテルナ」。オーナー兼シェフのイタリア人・サルバトーレは、電車を降りて帰り道を歩く女性を見かけるといつも店内からナンパしまくっていた。味は文句なしだったんだけど、イタリア人ってマジでナンパしまくるんやとカルチャーショックを受けた。サルバトーレは今も元気にやっているだろうか。

上京して12年の年月が変えたものと、変わらない場所

大学卒業後に地元を離れてから、そろそろ12年が経とうとしている。

関西を離れるつもりがなかった僕は、来たくもなかった東京に住み始めた頃は「いつか必ず地元に住む」と思っていた。しかし、仕事の忙しさにかまけて帰省の頻度は年々減っていき、地元に帰りたいという気持ちは薄れていく一方である。どうやら、転職や起業を経て、自分の生き方に対する価値観が変わっていったようだ。

そんな僕を尻目に、宝塚の町並みはいつ帰ってもほとんど変わらない。永遠に工事をしてるんじゃないかと思っていた場所にベビーザらスやホームセンターができたり、立派なマンションが立ち並んだりと、それなりのマイナーアップデートを繰り返し代わり映えしない地方都市化が進む日常は、日々めまぐるしく変化する東京の中心にいる僕にとってはどうしても退屈に感じてしまう。

冒頭に出てきた居酒屋で地元の友人に、この率直な思いを話してみると、彼はこう答えた。

「そうやって頑張ってるやつがたまに帰ってきて顔出してくれたらええねん。そういうやつのために店やってるから」

ちょっとキュンとしてしまったが、ありがたい。そんな粋なアンサーを聞いて、僕が上京する時に母が言ったセリフが頭をよぎった。

「母は港やから、いつでも帰っといで」

旅は、必ずいつか終わる。港は、いつものご飯に味噌汁、布団を用意して旅人の帰りを待っている。刺激的な毎日は長く続かないことを、僕は知っている。

そうか、僕の東京住まいも旅であり、旅にはいつか終わりが訪れ、安息の地を求める日が来るのかもしれない。その場所がどこかはいまはまだ分からないが、少なくとも地元とは僕にとって安息の地であることに違いはない。

いつ帰っても受け入れてくれる世界で一つしかない街。

そう思うと、まだまだ東京で頑張ってもいいんだなと背中を押された気がした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。noteはここまでですが、ボツになった悲しき原稿に心ばかりの支援をいただけますと次の執筆にも繋がりますので、おもしろいと思ってくださった方はぜひ応援してください。

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