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ワンパントーストに思うよしなしごと



昨年夏バズった時、フライパン購入意欲がグラッと現状を揺るがしたる簡単レシピ、それがワンパントースト。

バターを熱したフライパンに卵液を流し、トーストパンを並べてひっくり返し、ガレットのように卵焼きを織り込んでチーズ挟んではい出来上がり、なキッチンハック。在宅勤務体制が新たな日常となりつつあり、おうちメシのネタが切れかけてたタイミングでの華々しい登場に、巷が一時ふんわり湧いた。

アメリカの調理系YouTubeオタクのわたしとしては、てっきりアメリカ発だと勘違いしていたけれど、出処は実のところ今を時めく韓国の屋台おやつの定番だったのを知ったのはごく最近。
似たようなものが世界のどこかでほぼ同時多発的に発生することはよくあること。みんな大好きパン、卵、チーズが揃えば、国は違えど行き付く果てはほぼ同じなのは大体納得できる。動画を観るたび口中に涎溢れる。実は知ってる味である。

わたしにとってのワンパントーストの味の記憶は、NYに住んでいた頃デリカテッセンで頼むと、器用なアミーゴが鉄板の上でサクッと作ってくれるbreakfast sandwich。精神的に寝違えた朝など、月1くらい自分に買うのを許してた鬼カロリー朝ごはん。

基本、パンはライ麦・ホールウィート・ホワイト・ベーグル(NYデリでは5~8種類常備がデフォルト)、挟むチーズはイエローチェダー・ホワイトチェダー・アメリカン・プロボローネ・スイス・モッツアレラなど。スペイン語訛りの棒読み英語でまくし立ててくるから、それぞれ1種選んで声高に返す仕組み。アメリカに2年以上住んでいれば難なくクリアできるだろう呪文の洗礼。ケチャップマヨ?レタストマトオニオン?ハラペーノ?など店の特色に応じた突然の変化球にも備えておこう。
スペル返しが通った末に出来上がったサンドイッチは手早く油紙に包まれて上から半分にカットされ、これも棒読みのhave a nice dayと共に手渡される。この無味乾燥な一瞬の触れ合いを無駄にせず、1ドル札をチップに握らせると、次回はチーズを2倍にしてくれる(場合もある)。右てのひらにはみ出んばかりのずっしりした温かみと、ブラックって言ってるのに5回に3回の割合で砂糖とクリームがたんまり入ったコーヒー(チップを渡すとき「わたしblack coffee kinda girl (or guy) なんだ笑」と無邪気に言っておくと次回から間違えない。シンプル)を左手に、体当たりで扉を抜け、泥にまみれた灰色の雪が両脇にそびえ立つ冬の歩道を踏みしめて職場まで急ぐ。氷点下の街を歩くわたしの両手から、ささやかな湯気が必要以上に大げさに立ち上るのを見るのがちょっと得意でもあったし、冷める前にデスクでありつきたい食い意地と焦りが余計に歩幅を広げた。

あの魔法のようなアミーゴの手さばきは何度見ても真似出来ないと思っていたけれど、どこぞのバズマーケターがうまいこと波に乗せてくれて初見時は内心胸躍った。
で、見た目簡単そうで結局まあまあコツが要されるこのレシピ、これにかなり敏感に反応してたのが、キッチンハック大好きアメリカ人以外だとインド・中東系Tuber。
アメリカ人なんかより1000倍手慣れたコテ捌きでちゃちゃっとデモしながら、同じようなのを露店で買い食いしただの、亡き母がおやつに作ってくれただのと、バターチーズもりもりのこの鉄板料理のバックストーリーを並々ならぬ情熱を持って語り尽くしていた。
本格的なディナーから、街角の屋台メシまで、人生の至るシーンで鉄板料理はおなじみの存在であり、彼女らにとってワンパントースト的な食べ物はどうしようもなくノスタルジーを誘うもののようだ。ただし、いかんせん英語とヒンドゥーごちゃ混ぜだったせいか、わたしのシンパシーゲージが100%に到達できなかったのが残念。
一度に大量に調理する飲食店のみならず、猫の額のようなキッチンでもかなり立派な鉄板を据え付けてたくましくワンパントーストを作るインドやヨルダンの主婦Tuberたちを見てると、自分ちの30x40cmの調理スペースを嘆くのも贅沢なような気になってくる。
世界中のキッチンを覗くのは楽しい。その人となりが如実に反映される極めてパーソナルな空間であると同時に、その地域独特の風習・宗教観や使われる食材、調味料、調理器具、社会情勢までも垣間見ることが出来る場所だから。

在宅勤務が始まるずっと前から、手持ちの調理器具はテフロン製の蓋つき片手鍋一択である。件のレシピは、この片手鍋では到底実現できそうにない。主婦Tuberのような鉄板はもちろんない。じゃ、フライパン買えよ、いや、それはどうだろう、とぐだぐだ考えてるうちに6か月経過。自分の中で、この料理への欲求が未だ風化していないのが不思議なほど。食い意地と、Tuberたちにも負けないほどの個人的な思い入れの強さのたまものでしょうか。

片手鍋そのものに対する特に強いこだわりがあるわけでもなく、何か変な修行とかでもない。さしあたり、今のキッチンの収納スペースが絶望的に足りないというのがプライマリーな理由だけど、たとえ妥協の末に取っ手の取れる〇ファール3点セットなんかに着地したとしても、無理くり押し込められるくらいのスペースはある。でも、簡単にはそっちに流れて行きたくないふしぎな意思が働いてる。

2020年3月からほぼ毎日自炊しているけど、どうにかこの片手鍋ひとつで完結する献立で、今のところ腹とこころと健康は満たされている。たぶん、自分でコントロールできないほどの豊かさや選択肢の多さは、少なさがもたらす不便さよりももっとずっと大きな虚しさを呼ぶと思っているからかもしれない。

終の棲家に共に住まおうとNYから呼び戻され、水が上から下へと流れる様さながらに行き付いたボストンの古民家。自分たちで一から改装したキッチンには、蛇口の取っ手からオーブンのブランドまですべてわたしの意向が取り入れられ、傍目には申し分ない第2の人生の幕開けだった。朝から晩まで粉をこねてパンを焼き、異国の煮込みや焼き菓子を作り、庭で収穫したハーブを干した。自分の理解できない言語がキッチンドア越しのリビングから漏れ聞こえる中、面識もなく一生関わることもないだろう10数人の来訪者のために毎週金曜、もてなしのごちそうを作り、カラの皿の山を受け取ることで、わずかな存在意義を感じていた。こんな日常の端々で感じるちょっとした違和感の切れ端は、新しい人生を始めたばかりの人間には誰しも起こることと自身を納得させていた。いつかそれが、満たされた充実感に変わることと信じて。そんな姿が献身的で理想の新妻に見えたのでしょうか、何の気なしにフードプロセッサが欲しいだの、スロークッカーが云々と言えば、夢や親・友人の多くを捨てて自分の世界に飛び込んできてくれた「お返し」として、何の躊躇もなく買い与えられた。相手の気持ちは純粋だった。互いに満たされる関係を望んでいたのは想像するに難くない。しかし愛着も思い入れもない器具は結局使いこなせず、埃をかぶってパントリーに置き去りにされた。調理器具が増えるに反して、わたしのこころは満たされるどころか、埋め切れない虚空が広がった。穴ぼこが大きくなりすぎて、自分が今そこに居る実感が湧かなくなった。生涯通して最大の趣味であった料理はただの義務となり、唯一無二の喜びであった食べることは、悲しい存在証明の手段として異常な食欲に変わった。罵倒や競争が飛び交う職場を捨て、相手の望む通り、一日の大半をひとりで過ごしたその場所は、今考えれば当たり前だが自分が自分の意思で望み、掴んだ場所ではなかった。言うまでもなくそんな日々は長続きせず、互いを満たし合う約束を交わした相手の人生から、使われない調理器具が満ち満ちたドリームキッチンから、物理的にもわたしは消えて居なくなった。右も左も分からない日本という新天地で、色んな意味で穴ぼこだらけだったわたしは、それから今まで別のものでもって、自分を満たそうとしている。ただしこれからわたしを満たしていくものは、自分の意思100%で選んだものにしたいと思った。

本当に今の自分に必要なのかどうか、フライパン1こに半年あーだこーだ御託を並べるのは、ただただ、その時間に無上の喜びを感じるからだ。たかがフライパン1このささやかすぎるイベントからさえも、再び自分の意思で自分を満たし、わたしが今ここに居ると感じられることが泣けてくるほどうれしい。
うれしくなると、わたしが確かにそこに居た風景を、自分の人生からちょっとずつ拾い上げていきたくなる。今の自分はまだ初志を貫いているのかな、って確認作業をしているのかもしれない。

メヒコのアミーゴが2分で作ったサンドイッチ持って職場に急いだどん曇りのNYの雪道。アイスコーヒーとおはぎの組み合わせってどうなんでしょう?とかよそ行き顔で言いながら、はす向かいに座る相手に温かい思いが込み上げた日本橋の百貨店の屋上。どうしても食べたくなったが最後、まつ毛も凍る極寒の街に飛び出し、ようやくありつけたボストンクラムチャウダーが五臓六腑に染み渡ったあの日。友人が思いっきり振りかけたモルトビネガーの蓋が緩んでて、むせ返るほど酸っぱくなったフィッシュアンドチップスを食べたグラストンベリーフェスのテントの中。大ゲンカしながらも歩調を合わせ、辿り着いた山頂でホットドッグを頬張った途端お互いの機嫌が直ってて笑いあった母との散歩。そして、自分が食べたいものを作り、時おり訪ねてくる恋人と換気扇の下で一服する、画用紙ほどの作業スペースと、片手鍋1こを備えた我が愛しの極狭キッチン。

今日も世界のどこかで、さまざまな背景を抱えながらも、自分のキッチンで鉄板相手に格闘する誰かが、公園のベンチでお弁当を広げる誰かが、退屈なZoom会議中にお昼なんだろと思い巡らす誰かが、腹もこころも満たされて、今の自分を最大限に感じられていることを勝手に願う。それは自分自身や、自分が愛する人たちに向けた祈りでもある。

とりあえずこのレシピがそんなわたしのフライパン購入意欲をくすぐったのは確かだが、フライパンを得ることで生じうる「鬼カロリーへのアクセスアラート発動させて踏みとどまれるか」問題は、感情論云々以前に、現時点でかなり切実な「フライパン買わない」要因のひとつとなっていることも付け加えておく。
台所の不便さは、実は密接に体型維持に直結しており、ドリームキッチンを手に入れてしまったが最後、欲望のおもむくままに料理して食べてしまう自分の性格を考慮すると、ちょっと不便さ滲むくらいが自分にとってちょうど良い状態なのかもね、と暫定的に結論づけてしまおう。

このレシピがわたしの口に入るのはいつになることやら。

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