「祭りと黄泉国と、とある本」 -やんわりと死と生-
鼕(どう)行列
10月15日、松江城下で行われた「鼕行列」を観に行った。鼕とは出雲地方で太鼓のことをいうらしい。
祭りのお囃子、からだに響く鼕の音の心地よさ。無意識に祭りのリズムに呼応するからだ、どこからか立ち上がってくる祭りの場の懐かしさ。老若男女問わず外にむかって解放される清々しいハレの日のエネルギー。
その場にいるだけで感じる生の力強さ。鼕行列の歴史を調べてみると、現在の形になったのは大正時代らしいのだけれど、そのルーツは古く、平安時代から正月行事として行われていた「生」に対する感謝の行事らしい。
『NHKドキュメント72時間』 黄泉の国の入り口 黄泉比良坂(よもつひらさか)
ちょうど鼕行列の前日の朝、『NHKドキュメント72時間』の再放送を観ていた。特集は「島根 黄泉比良坂 あの世との境界で」。
『古事記』にも登場し、この世とあの世の境界であると古くから言い伝えられてきた場所。テレビの中では、亡くなった親友、亡き父に手紙を綴って来た人など、様々な人が生と死の境界とされるこの地に訪れる様子が描かれていた。
さまざまな背景で訪れていたが、映っていた人たちはすべて何らかの「死に直面した」、「死を想った」ことのある人たちだった。この世とあの世との境界に身を置くと何を感じるのだろう?テレビを観ながらそんなことを考えていた。
その日、昼ご飯でネパール料理『MANTRA BHANCHHA』に訪れた際、お店の人たちと話していると、これまた黄泉平坂の話になった。松江や出雲のおすすめスポットをいろいろと聞いたのだけど、どうもやっぱり、黄泉比良坂が気になって、鼕行列を観た後に行くことにした。
黄泉比良坂に行く前に、秋晴れの空気がすうっと抜ける揖屋神社に参拝して現地へ向かうと、そこは当初持っていた死をイメージする重そうな雰囲気とは違った澄んだ雰囲気を感じさせてくれる場所だった。
大きな石柱が立ちそびえる場所から、少し外れたところに「賽の河原」に繋がる道があり、その中をずんずんと歩いてみる。その道中は、夕暮れ間近の茶褐色の木漏れ日がさし、とても幻想的で、この世のものとも思えないような景色だった。鉄っぽい土の香りや少しひんやりとした空気が、いろんな感覚器を刺激して、からだが浄化されていく感じがした。
『急に具合が悪くなる』を読む。
少し前、9月。久しぶりに仕事をともにしたGさんが紹介してくれた『急に具合が悪くなる』という本。哲学者でがん患者の宮野さんと人類学者の磯野さんとの往復書簡の形で書かれた本。この週末、この本を読んでいた。
宮野さんはこの往復書簡のやりとりの数か月後に、この世を去った。10往復するやり取りの中で、後半に行くにしたがってひしひしと伝わってくる死のリアリティ。リアリティと言っても、どこまでいっても”他人事”としてしか受け取れないのかもしれないけれど、何か届いてくるものがあった。
その言葉の端々から、死と同時に生を感じとることができた。哲学者として、言葉の可能性を信じ言葉を持って思考する、可能な限り合理的に表現しようと在る中で、死を感じながらも今を生きようとする自分自身の葛藤的な心の声や、亡くなる数か月前のやり取りにおけるむき出しの言葉は、生々しく、生に満ちた存在感を感じさせ、ぼくの心をざわざわと揺らがせた。
身体が元気になる野菜たち
ぼくが愛してやまない、鳥取県智頭町の農家さん山口さん(以下ぐっさん)の野菜が先週末に届いた。ぐっさん野菜は、農薬や化学肥料は使用せず、また在来種・固定種の作物をなるべく自家採取された種で育てることを大切にしていて、味そのものが本当にエネルギッシュで美味しい。野菜だけでからだが満たされる、そんな野菜たち。
祭りと黄泉の国、現代を生き、そして去りゆく人の声。自然の恵み。
今の自分を取り巻くもの、こと、ひと。とり入れるもの、こと、ひと。その一つ一つが生きること、死をかたちづくる。
死とか、生とか、いろいろが、からだをかけ巡った週末の夜。
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