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SDGsを現実の事業戦略に落とし込むには?【第4話】

 前回は、共通価値創造戦略理論(CSV理論)をご紹介しました。一世を風靡した競争戦略論の系譜で共通価値を論じた同理論は、今日のSDGsビジネスが暗黙に依拠しています。しかし、“バリューチェーン”で“クラスター”限定的という理論構造は、今日的なビジネス環境―とりわけ善を媒介にしたコミュニケーションネットワークから生じるリスク―に対応が困難であることを指摘しました。

 CSV理論があくまで企業活動の客観的側面(手段)に着目してポジショニングとしての共通価値創出を提示するのに対し、今回ご紹介する知識創造理論は、企業活動の主観的側面(目的)―意思・思い・ビジョン・コミットメント―に着目し、企業内部の価値創造のプロセスを解き明かすことを目的としています。その理論的視座において「共通善」は、企業にとって組織と事業の出発点と位置づけられています。

 SDGsビジネスを考えるには、おそらく現代の経営理論のなかで、知識創造理論はもっとも整合性があると思います。ただ、これから見ていくように、実務面での課題があります。その点を含めてみていきましょう。

※前回の第3話と今回の第4話は、現代の経営理論をSDGs事業戦略にあてはめるには限界があることを指摘する内容です。興味のない方は飛ばして第5話を読んでいただいて構いません。

 最初に、企業活動に対するこれまでの経営学的アプローチを、戦略論との比較という視点で整理したのが次の図になります。

知識創造理論1

 前回のCSV理論があくまで企業活動の客観的側面(手段)に着目してポジショニングとしての共通価値創出を提示するのに対して、知識創造理論は、企業活動の主観的側面(目的)―意思・思い・ビジョン・コミットメント―に着目し、企業内部の価値創造のプロセスを解き明かすことを目的としています。その出発点は、はるか昔のアリストテレスからの系譜ですが、その理由は後述のように共通善にもとづく行動意志が優れたリーダーシップとイノベータを生むという考えからです。

 そして、このような理論的視座は、知識創造理論において「共通善」こそが企業にとって組織と事業の出発点と位置づけられることを意味します。このことを、筆者なりの理解で共通善と企業倫理、企業行動と社会的価値形成の関係で整理したのが次の図になります。

知識創造理論2

 企業を社会的・政治的な位置づけ(公共性)でとらえた場合には、共通善は企業倫理として求められ、表出化します。第2話で指摘した企業活動の分類でいえば、①のガバナンスとしての企業倫理です。しかし、知識創造理論における共通善は単にそれにとどまらず、社会的価値形成の源である知識創造サイクルを担保するものになります。

 具体的には、共通善にもとづく企業倫理に裏付けされた企業行動が、組織・理念・戦略の形成と適用によって知識創造のかたちで社会的価値を形成します。この知識創造には後述するようにリーダーシップが不可欠です(※1)。知識創造によって形成された社会的価値は、従来は市場(マーケット)、現在はそれよりも広い社会(ソーシャル)を通じて、企業に対して利潤と信用のかたちで反映されます。そのサイクルが企業の永続性を担保します。すなわち、企業目的としてもっとも重要とされる永続性(※2)は、共通善を行動目的とした知識創造サイクルの繰り返しで生まれます。

(※1)ここはもちろん正しいのですが、知識創造理論が大企業のトップにウケる理由にもなっていそうです。
(※2)個人的には企業の永続性担保は株式会社方式を採用したことによる制度上の問題であって必然性はないように思えます。時間と興味があれば考察したいと思います。

 次の図は、その知識創造サイクルにもとづく知識創造経営の7つの要素と共通善の位置づけを示したものです。

知識創造理論7要素

 この図の中心に「共通善に基づく存在目的」があります。知識創造理論では、企業経営における価値創出の原点に、共通善がある(べき)としています。

 では、共通善ってなんでしょうか?「三方よし」のことでしょうか?

 前回までの議論は、場所と時間と技術によって、共通善(や共通価値)のあり方は変わるというものでした。これは、知識創造理論においても(たぶん)同様です。共通善の内実は画一的ではなく、その場・その時の様々な文脈に応じて変化するものであり 、賢慮(理性)に基づく実践のなかで定義されるものとします。

 この理論的視座は、ポーターとクラマーのCSV理論が“Value”という定義では今日的な現象を説明しきれず、コミュニティ相互間の対立解消に理論的解を与えていない点に比べると説得力があるといえます。しかし、筆者からすれば完璧ではありません。

 知識創造理論の立場では、イノベーションを実現する企業活動の根底には共通善が存在せねばなりませんから、戦略策定における最も重要な課題は、なにが共通善であるかを見極めること・定めることにあるといえます。ところが、共通善は定量化できるものではなく、知識創造そのものがダイナミズムであるから画一化ができません(定性化も難しい)。

 実際に知識創造理論では共通善を定義するための具体的なツールやモデルは示されず、様々な事例研究に基づく示唆が点在しているのが現状です。次の図は、知識創造理論における共通善の定義をロジックモデルに示して批判的に検証したものです(ちょっとイヤミな感じですがご容赦ください)。

実践学?


 知識創造理論では、共通善を定義する能力を「賢慮」とします。賢慮とは「何が善いのかという共通善を求める目的と美的判断力」と定義しています。この能力(=内的資質)は「日常の高質な習慣の中でしか育まれない」とし、例としてアリストテレスの「真善美」、陽明学の「知行合一」、武士道の「義・不義」を提示しています。

 ・・・・・・。

 みなさん、これで共通善がなにか、わかりますでしょうか?知識創造理論は「実践学という理論」を標榜していますが、実務的というには程遠いのではないか?というのが筆者の感想です(※3)。むしろ、多くの人に敬遠されてしまう恐れすらあると思います(野中先生ごめんなさい!)。

(※3) 野中・廣瀬・平田(2014)は「われわれの考える共通善は、特定の共同体から多数決や最大公約数として演繹的に出てくるものではない」(同書,p.304)とし、「知識創造理論は実践論であり、経営における分析ツールや経営のハウツーを提供するのではなく」(同書,p.315)とも断りを入れていますから、主張は一貫しています。実務的という批判はお門違いと言われれば、その通りです。

 そのうえで、企業の戦略形成の視点でみたときには、知識創造理論において共通善は企業目的であり、共通善を実現するための顧客価値を事業目的として定義するとします(野中・紺野2012,p.102)。これは、経営層が企業目的を定めるときには“Good”であり、事業の執行担当が事業目的を定めるときには“Value”とするロジックを含意していると解釈できそうです(※4)。


(※4)野中・紺野(2012)はビジネスモデルに関連して、知識創造経営における利潤について「究極には「共通善」を志向する企業目的のために、活用可能な知識資産を活かす知識創造活動によって初めて可能になる」(同書,p.215)とする。そして、事業戦略のレベルにおいては「目を向けるべきなのは市場価値や情報格差のギャップでなく、「社会的責任の不均衡」(responsibility gap)である」(同書,p.215)とし、「こうした社会的責任ギャップへの注視は新たな市場機会の芽を見出すことにつながる」(同書,p.216)とする。

 この点、前回のCSV理論で例に挙げたBLM運動に対するIBMの対応を考えると、事業戦略のレベルにおいても善(Good)による外部圧力を媒介にして、事業としての価値(Value)が変質もしくは放棄を余儀なくされることを示していますから、知識創造理論も事業戦略を立案するレベルにおいては、CSV理論と同様の理論的限界が生じることにならないでしょうか?

 実は、次の第5話で論じるように、コミュニティの多層性を前提として共通善に階層性があると考えた場合には、上位の善(Good)に対して下位は価値または利益(Value)という解釈は可能です。第5話で提案する「共通善階層構造モデル」は、それを端的に示すものであるともいえます。筆者の理解では、知識創造理論では、このような共通善の階層性と優先度にもとづく相対的な変容について明確に示してはいません(※5)。しかし、仮に理論上含意するのであるならば、理論的な齟齬は生じず、課題は実務性のみになると考えています。

(※5)共通善の定義は、公共性に関する規範的・哲学的議論が必要ですが、これは法哲学と政治哲学の学問領域です。経営学で展開するには議論が広汎になりすぎることもあり、捨象されるのは仕方ないでしょう。

 前回の第3話と今回の第4話で、価値(Value)や善(Good)として定義されるものに対し、企業活動でどのように取り組むべきかについて、CSV理論と知識創造理論で検討しました。それぞれ理論上の限界と、実務への適用が困難という点が明らかになったと思います。

 筆者の問題意識は、実際の事業戦略の立案において共通善をどのように反映させればよいかにあります。共通善が事業戦略に反映できれば、共通善をグローバル制度化したSDGsは比較的ラクに扱うことができます。次回の第5話では、実務に適用可能なフレームワークとして「共通善階層構造モデル」をご紹介します。

(第5話につづく)

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