見出し画像

SNSを通じた世界の“ジャパナイゼーション”

 欧米で無宗教化が進んでいるようです。ヨーロッパでは神の存在を確信する人よりも不在を確信する人のほうが多くなっており、ヨーロッパ諸国に比べて信仰の喪失が遅かったアメリカでも、1990年以降に無宗教の人が急速に増えているそうです。そして、2050年には、大半の人がどの宗教ともまったく無関係という状態になると見られています。このことについて、心理学者のフランク・マルテラ(Frank Martela)は、「科学的世界観が広まり、多様な宗教に触れることで、宗教が自身の属性ではなく、単なる好みとして扱うことが普通になったためだ」と指摘します。

 乱暴な言い方をすれば、そもそも宗教は、最大公約数でコミュニティの秩序を維持・向上させるための方便であったといえます。であるならば、人間の知性と見識が向上することで、伝統以外の力を宗教が保てないのは必然であるともいえそうです。これはマルテラの見方でもあるのですが、ただ、筆者はその理解だけでは片手落ちというか、社会学の集団構成原理で見ると面白いと考えます。

 地球上でコミュニティを構成する社会集団の原理には「資格の共通性」と「場の共有性」があり、どちらの原理が強く作用するかは、国や地域によって強弱があります。

 資格とは、宗教や民族、血縁、社会階層などで、概ね日本以外の国で重視されてきました。となると、欧米を中心とした無宗教化は、単に宗教の力が弱まっただけでなく、もしかしたら、この集団原理の変容も関係していると考えられないでしょうか?すなわち、全世界的に集団構成原理が資格から場重視に変容している可能性です。

 なぜなら、近年のBLM運動やウクライナ危機に見るように、今日のSNSを媒介としたグローバルなトレンドは、宗教や民族、血縁、社会階層といった資格の垣根を越えて、人々の共感や良心という感性ベースで共有されているからです。「誰が」よりも「何を」言ったかが重視され、利己よりも利他、カネよりもヒトが重んじられます。これらは「価値観」として定義づけることもできますが、やはり「感性」と呼ぶほうがふさわしい気がします。

 そして、仮にこの「感性」が新しい資格であると定義したとしても、それは旧来の集団構成原理からすると場重視に他ならないと思うのです。というのも、感性はSNSでグローバルにリアルタイムで繋がる情報「場」を共有するための資格であって、SNSでの世界観が日々の生活を営むコミュニティと同じかそれ以上の価値を持つ時代には、それは場重視として機能するからです。ゆえに、仮に感性がグローバル化して共有されたとしても、それは資格ではなく、場重視であると定義することができます。

 このSNS時代の変容を、従来の社会集団構成原理における「資格の共通性」から「場の共有性」へのシフトと見るならば、それは世界で最も場重視の社会である日本社会に近づくという点で、人類の世界の”ジャパナイゼーション”ともいえるのではないでしょうか?全世界の「日本化」であるといえるかもしれません。

 ジャパナイゼーション(場重視)で想定されることのひとつに、「空気」の規範化があります。これはすでに表現の規制という形で顕れている気がします。具体的にはナチスや反ウクライナ表記の規制です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?