禅的分節論の現実の運用に関する考察(特にコーチングの場面)
井筒俊彦の「意識と本質」にかかる禅的分節論の現実における運用についてあれこれ考察していたのですが、少し単純な話な気がしてきました。
「本質」的分節とは、フレームワークありきで対象を分節する方法です。いわゆる通常の思考方法ですね。一方で、無「本質」的分節(禅的分節)とは、対象を虚心坦懐に観察した上で脳裏に創発されるフレームワークで対象を分節する方法ではないかと本から読み解いてきています。
「対象を虚心坦懐に観察した上で脳裏に創発されるフレームワークで対象を分節する」ためには、素材として多彩なフレームワークが脳内に貯蔵されている必要があります。
例えば安部公房は小説制作に着手する前に、専門書を含む大量の読書をして、それをしばらく「発酵させる」工夫をしていました。
脳内に大量のフレームワーク(言語)が蓄積され、時間をかけて脳内で融合されることで、自身のユニークな着想を得ていたと彼は語っていたのです。
安部公房はエリアス・カネッティやガルシア・マルケスを参考にしていましたが、常にそれらのコピーではなく、融合物の一つとして小説に織り込みました。そういった質感で無「本質」的分節(禅的分節)を捉えて良いとしたら、私はコーチングの文脈で常に禅的分節を実践していることになります。
私の中には井筒、西田、鈴木大拙、ジェンドリン、ハイデガー、レヴィナス、メルロ・ポンティ、ウィルバー、成人発達理論、タイプ論が息づいています。他にも補助線は数限りなくあります。ただ、セッション中はそれら分節の種が頭をよぎることは一切ありません。
直観として分節したものを振り返ると、既出の思想家の叡智が融合された結果として、私の直観が表出されたということを事後的に気づくことになります。
この、セッション中に平素意識している状態が、禅的分節そのものなのかもしれないと思うフシがあるのです。
だとしたら、禅的分節とは、(セッション文脈においては)私にとっては拍子抜けするほど当たり前の、いたって自然なあり方のように思います。確かに私は思想は学ぶけれども、思想それ自体に心酔することは全くありません(東洋哲学しかり)。それはより善く生きるためのTipsに過ぎないのです。
脱力感満載で知に親しみ、それを融合させ、他者を特定のフレームワークでは決して分節できない単独性の存在として尊重すれば、禅的分節は造作もなく可能なのかもしれません。
現時点の見解は
「禅」とは、当たり前の物の見方である(爆)
となるのですが、さすがに誤解ですかね笑
まあ、禅的分節論を明確に理解すること自体が目的ではないので、自らのスタンスがそれなりに効果的だということを再確認した上で、このスタンスを維持し、ブラッシュアップしていくことを決意する程度で考察は留めておいた方が良いのかもしれませんね。