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幸せな人生とは。

幸せな人生とは何か。この問いに対して私は明確な答えを持っています。

「圧力に抗い、乗り越える喜びとして人生を捉える」ということ。それが幸せな人生であるという考えを持っています。

私は武術が趣味です。武術とは自分に危害を加えようとする敵の圧力にどう抗うかをテーマに、古来より様々な技術体系が築き上げられてきました。

武術家は厳しい訓練を通じてこの体系を型として学び、これまた厳しい対人訓練において、時に傷つきながら技術と胆力、体力を鍛え上げていきます。

体格に恵まれなかったり、才能が乏しかったりすると、負けを重ねることになります。誰かにねじ伏せられる、全く歯が立たないという経験は悔しくて、なさけないものです。敵と相対して圧力に抗うのは文字通りプレッシャーですし、多大なストレスがかかるもの。

しかしそうした圧力に圧倒されながらも訓練を続けていくと、その圧力に抗うための体幹や技のパターンが育ってくる。そして相手のかける圧力に容易に屈することはなくなる。そしてついには大きな圧力の壁を乗り越えて、逆に相手を制圧することに成功する。

その瞬間、相手に対する優越感とか、損得勘定などを度外視した心の底からの喜びが感じられる。その瞬間に幸せな感覚が満ちてくるのを感じます。自分がレベルアップしたことを実感し、それを喜ぶ。そこに至るまでの努力を思い起し、自分を誇りに思う瞬間もある。

「幸せな人生」と問われた時、私の脳裏に浮かぶのはこのような経験です。つまり私にとって「幸せな人生」とは「生きるうえで直面する圧力に抗う過程で、何かを学び、成長してついにそれを乗り越えた瞬間の喜びを全身で味わうことの連続としての経験」と定義されるのです。

武術の修行は、まさに人生の縮図とも言えるでしょう。修行の過程では幾度となく挫折を味わい、心が折れそうになる時もあります。しかしそれを乗り越えた先にこそ、真の強さと喜びが待っているのです。これは武術に限らず、学業、仕事、恋愛、子育てなど、人生のあらゆる局面に当てはまる法則だと言えます。

私の考える「幸せな人生」とは「生きるうえで直面する圧力に抗う過程で、何かを学び、成長してついにそれを乗り越えた瞬間の喜びを全身で味わうことの連続としての経験」です。それはあくまで私の個人的な人生観です。

人生観は元来多様でありうるもので、何が正しいとか、何が間違っているとかの評価判断に適するものではありません。

それにも関わらず私はこの文章で、あなたに、そして全ての人に「幸せな人生」とは「生きるうえで直面する圧力に抗う過程で、何かを学び、成長してついにそれを乗り越えた瞬間の喜びを全身で味わうことの連続としての経験」であるという人生観を持つことを提案したいと思います。

是非このような考えを持っていただきたいと思う。

このような人生の捉え方は、おそらくは全ての人間にとってある意味では"救い"であるからです。

人生とは、常に何らかの圧力やストレスとの戦いの連続です。その圧力は人によって質や程度は異なりますが、誰もが等しく直面するものだと言えるでしょう。そうした逆境にひるまず立ち向かい、乗り越えていくプロセスこそが人生の本質であり、そこにこそ喜びや幸福が宿るのです。この考えには普遍的な説得力があると感じます。

"Life is already hard."。何かの映画で聞いたことがあるセリフですが、人生は常にタフな経験だ。私はそう思うことがあります。あなたはどうでしょうか?少なくとも人生を通して簡単、楽ちんなゲームだと思われる方は少ないのではないでしょうか。

はっきり申し上げれば、生きることには常に圧力が満ちています。圧力から逃げようとしても、逃げ切ることは難しい。

ビジネスでは厳しい競争を勝ち残らなくてはならない。ロクでもない上司に迎合し、横暴な顧客にも笑顔で応じなければならない。やりがいのあるプロジェクトを志を共にする仲間と立ち上げても、あえなく失敗する。リーダーになって権力を持っても、部下は言うことを聞かない、面従腹背。

こういった難しい問題と常に我々は共にいることを強いられている。全ての圧力から解放されて存分にリラックスするという形の「幸せな人生」は、幸運に恵まれればまだしも、我々の多くが主体的にそれを実現するのは困難と言わざるを得ないでしょう。

もっと極端なことを言いましょう。

我々の生きるスタートラインの環境が、とてつもない圧力を課してくる環境だったらどうでしょうか。いわゆる毒親と言われるような両親の元に生まれて、恒常的に罵声と暴力を受け続けてきた人には「幸せな人生」は閉ざされているのでしょうか?紛争地域に生まれた人々は?勉強が苦手で、運動ができなくて、恋愛も不得手で、そのために自己肯定感がとてつもなく低い状態だったとしたら?ハンディキャップのある人たちは?人生の序盤からそうしたタフな要素を背負って人生を歩むことを強いられた人たちには「幸せな人生」は不可能なのでしょうか?

私の「幸せな人生」の定義に従えば、そんなことはないと断言できるわけです。大変で絶望的な圧力であることは時にあるでしょう。だがそれはあなたが「幸せな人生」を歩むうえで避けがたく付随する圧力の質感の種類に過ぎない。

「生きるうえで直面する圧力に抗う過程で、何かを学び、成長してついにそれを乗り越えた瞬間の喜びを全身で味わうことの連続としての経験」は、その圧力がどのようなものであるかに関係なく、誰にでも可能性として開かれていると私は考えます。

私の子どもがある日、学校の友達についてこういうことを言っていました。度重なる父親の暴力に耐えきれず母親と家出をし、あまりよろしくない友達とつるむようになってしまった友達の話です。「パパ、A(友人)が今年タバコをやめたんだよ。禁煙がもう半年続いている。Aはすごいよ、自分で決めたことをやりきって前に進んでいる。Aは頑張ってる。」。

子供の言葉に私は感銘を受けました。この言葉は本質だと。

Aさんはまだ素行の悪い友人と付き合っているし、禁煙はしているけどまだお酒は飲んでいるようです。未成年者がタバコを吸うこと自体がけしからんわけで、禁煙など当たり前だと思われる方もいるでしょう。

だが私の定義に照らせば、Aさんは「幸せな人生」を目指す勇者です。「生きるうえで直面する圧力(煙草を吸いたいという欲求)に抗う過程で、何かを学び(自制すること)、成長してついにそれを乗り越えた瞬間の喜びを全身で味わう経験」をAさんはしたのだと思います。

もっとも、またAさんは挫折するかもしれない。もっとひどい薬物に手を染めることだって在りうるのかもしれない。だが、Aさんが意を決して禁煙をして、自分の人生をより自分を肯定できる方向に向けようと足掻くいまのその姿勢は、人の心を打つと思うし、それができた瞬間には紛れもなく、Aさんは「幸せな人生」があると思うのです。

ここで重要なのは、「幸せ」とは他人との比較の中にあるのではなく、自分自身の内面の成長にこそあるのだという洞察です。Aさんの禁煙は社会的な価値基準からすれば取るに足りない出来事かもしれません。だが、おそらくは本人にとっては並大抵ではない挑戦であったでしょう、それを乗り越えたことは紛れもない「幸せ」なのです。

私の考える「幸せな人生」には成長が必ず必要になります。圧力を跳ね除け、壁を乗り越えるには足腰を鍛えなければならない。しかし、ここでいう成長は主観的なもの、つまり「私の中での成長感覚」であり、誰かとの比較でどうこうという話をしているわけではありません。決して他者から強制されるものでもない。

他人との比較で言うならば、Aさんはまったくパッとしないというか、落ちこぼれの人生と評価されてしまうかもしれません。だが禁煙という壁と向き合った未成年であるAさんの主体における挑戦は、私には偉大なものに見えます。そのプロセスには「私の中での成長感覚」はあったはずで、それは「幸せ」なんだと私は主張したい。これだったらどんな人にも可能だと思いませんか?

人は誰しも、生まれ育った環境に違いはあれど、何かしらの困難を背負って生きています。そうした中でも諦めることなく、自分なりの幸せを見出す力強さを持ち続けることの尊さを、私たちは忘れてはいけない。

確かに人生とは already hard です。でもそれと向き合い、乗り越えていくことにこそ人生の価値があるのかもしれません。圧力をバネに成長し続ける、そんな人生観を私たちは大切にしていくべきなのです。

 こうした考え方は、実は過去の偉大な思想家たちも共有していたものです。

ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、困難や苦難を乗り越えることで人間は成長し、より高みに到達できると考えました。彼が提唱した「übermenschlich(超人的)」という概念は、自己を超越し、困難を乗り越えることで達成される理想的な人間像を表しています。ニーチェにとって、圧力や逆境は成長のチャンスであり、それを乗り越えることこそが人生の目的だったのです。

ナチス強制収容所での過酷な経験を乗り越えた心理学者ヴィクトール・フランクルは、人生の意味を見出すことの重要性を説きました。彼の著書『夜と霧』では、どんなに辛い状況下でも、そこに意味を見出し、それを通じて成長することができると述べています。フランクルにとって、圧力に立ち向かい、意味を見出すことは、人間の尊厳を守る行為だったのです。

ポジティブ心理学の第一人者マーティン・セリグマンは、逆境に立ち向かうレジリエンス(回復力)の重要性を現代的な観点から説明しています。彼は、困難を乗り越える過程で得られる成長や意味づけを重視し、それがwell-beingにつながると考えました。セリグマンの考えは、古い哲学者の思想を実証的に裏付ける形で、圧力を糧として成長する生き方の重要性を示しているのです。

このように、圧力を乗り越え、成長し続ける生き方は、古今東西の思想家たちが共通して大切にしてきたテーマだったのです。私たちもまた、彼らの知恵に学びながら、困難に立ち向かう勇気と、そこから学び成長する柔軟さを持ち続けることが大切なのかもしれません。

これが私の考える「幸せな人生」に対する考え方です。幸せな人生には圧力が付き物ではあるのですが、ではどうすればこのような圧力に屈せずに成長しながら自分自身の人生を歩んでいけるのか?それは私の他のnote記事にヒントが含まれていると思いますから参照してみてください。

ちなみに、私はこの記事で紹介させていただいた「幸せな人生」に関する考えは世の中に様々あります。皆さんそれぞれの人生観や人生のフェーズによって柔軟にこの定義を変えていくことも有益かもしれませんので代表的なものを以下に掲載しておきます。

エピクロス:古代ギリシャの哲学者。身体的・精神的な苦痛からの解放と、節度ある生活による平静な心の状態(アタラクシア)を幸福の条件としました。彼の考え方によれば、「幸福な人生」とは「安定と平穏」とされるのであって、今回の記事で私が紹介した観点とは異なるかもしれません。私の定義は「圧力との対峙」に重きを置くのに対し、エピクロスはむやみに圧力を戦わないということを志向するのではないでしょうか。このような考え方も時には必要ですよね。

ショーペンハウアー:ドイツの哲学者。意志の否定と苦悩からの解放を説き、禁欲的な生き方を理想としました。彼は人生における理想は苦痛からの解放と主張しました。 人生の目的は、意志の支配からの解放、すなわち苦痛からの解放だと考え、そのための方法として、芸術的観照、共感、禁欲、そして最終的には意志の完全な否定(ニルヴァーナ)を挙げています。ちょっと虚無的ですが、時にはこのようなあきらめや脱力も必要なのかもしれません。

スピノザ:オランダの哲学者。スピノザの場合は徳と幸福の一致を唱えます。理性的な認識に基づいて行動することが徳であり、それが同時に個人の幸福につながるというわけです。自分の本質を実現し、他者との調和を保つことが、幸福な生き方だとスピノザは考えました。彼が何をもって「理性的な認識」と捉えているのかはもう少し補足が必要な気もしますが、興味のある方はご自身で掘り下げてみて下さい。

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