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コンフォートゾーンへの意識からの挑戦状

人間関係をどう紡ぎ合わせるかを模索する中で、時と場合によって、2つの傾向に分かれると思う。いろんな対人関係で出くわす、苦難、つまずきに、自分の「居心地のいい心のオアシス」の境界に壁を作りながら、その領域を頑なに守る人と、逆に、それらの苦難をチャンスと解釈し、「快適安全地帯」の境界を広げていく人。幸せの定義はそれぞれですが、自分の「コンフォートゾーン」を意識的に広げないようにしているのなら、それはそれでいいのですが、無意識にそうなってしまっているのなら、自分が定義した幸せからも遠ざかっていくのではないでしょうか?

他者との関わりの中から築き上げられていくコンフォートゾーンの境界は、ゴムのように柔軟に伸び縮みするが、使わないと委縮する筋肉のようなものだ。伸ばし広げていくためには、常に好奇心揺さぶる練習メニューと、成長痛に耐える根気が必要だ、それが心地よい痛みに変わるまで。油断は禁物だすぐ縮まろうとするから。その領域が伸びた瞬間、別の視点を持った未知の自分との対面があるかもしれない。いままで自分を守ろうと作っていた壁が崩れて、敵対すると思っていた相手の弱点が露わになりすぎて、逆に守ってやろうとするかもしれない。

コンフォートゾーンの輪郭は、ピンチの場面に試合に出てくる新人リリーフ投手のように、突然現れ、真価を問われる。今のままで快適なとき、それ以上広げる気も起きないから意識もしないが、これまで作った壁の中の領域で快適なままいることができないという状況が生まれたときや、強力だと思っていた壁が外からの力で簡単に崩されることがわかったときに始めて、壁を作って輪郭を守ることが無意味なことに気づく。最小点差を守ってセーブを上げようというプレッシャーで、心と体ががちがちになって、ブルペンではあれほどビシビシ、ストライクゾーンに決まっていたのに、同じような球が投げられない。一度深呼吸をして、その息でコンフォートゾーンの輪郭を、マウンドの上まで膨らませられるかが勝負の分かれ目、満員のスタジアムの異様な雰囲気にのまれないようにするために。

マウンドに立たなければいけないのは、野球の世界だけではない。いがみ合う相手の考え方を変えるより、相手が自分こそ正しいという見方を、そっくり包み込むようにコンフォートゾーンの輪郭を広げるほうが、お互いにとって省エネだし、お互いの世界観の中の正義は、映画の中の物語として楽しめる、主人公の眼と、鑑賞者の眼を同時に持って。コンフォートゾーンは、広がれば広がるほど、いろんな視点から様々な物語を吸い込み、映写されるたびに新たな展開が浮き出されていく、映画館のスクリーンと割り切ればいい

どうして大きなスクリーンのある映画館で、より臨場感溢れる鑑賞をしないのか?それができないのは、現実の世界から湧き上がる不安に折り合いがつけられないので、大きなスクリーンを想像しただけで足がすくむからだろうか。自分が見ている現実世界だけが反映される心のスクリーン、それが狭ければ狭いほど、湧き上がる不安が大きくなるにもかかわらず、大きなスクリーンを毛嫌いする気持ちもわからないわけではない。たとえば、役員の成り手のない自治会があるとしよう。会員一人一人が、役員になると自分のコンフォートゾーンが侵される不安を感じて、壁を作って、自分が大事だと信じるものを守ろうとする。一人一人が自分のコンフォートゾーンを広げないと、自分の周りの治安や環境さえ守れない状況になっているのに、大きなスクリーンでの「映画鑑賞」の経験を共有しようという勇気が出ない。自分の小さな心のスクリーンに映っている物語以外は現実性がない、虚構の世界だと言う。虚構でも信じれば現実になるし、そもそも自分のスクリーンに映っていた世界の方が虚構だと、コロナ茶番で教わったにもかかわらず。

何より、コンフォートゾーンを広げようという意識こそ、支配しようする無意識への、人間の尊厳を賭けた挑戦状だ。それこそ、90%無意識に操られたロボットのように見える人間の、完全にロボットではない人間らしい自由意志の表明だから。人間には自由意志なんてないことを証明したと言われている、1983年のベンジャミン・リベットの実験で、被験者の「手をあげよう」という意志が生まれる前に、脳が既に手をあげなさいという命令を出していたことが分かった。つまり決断は意志がしていたのではなく、脳からの信号に従っていただけだとわかった。この実験から、研究者も、脳からの「自由意志があるかどうか実験をしなさい」という命令を受けて、その結果、自由意志がないことが決定づけられたそうだ。もともと研究者も自由意志をもたないロボットなら、自由意志があるかどうか選択する自由があるのか?自由があるから実験したのではないか?それとも脳に操られていただけ?この実験結果が常識から考えられないものだったので、何度も検証しているが、脳からの「実験をしなさい」という命令に従ってやった結果に、もし自由意志を持たなかったら、おかしいと感じて何度も検証し直すだろうか?おかしいと感じる前に、脳が「検証し直せ」という信号を出していたのか、直感が脳に信号を出させたのか?直感の方が先な気がする。たとえ脳からの電気信号が、コンフォートゾーンはそのままでいいといっても、それに疑いを差しはさめる意識があることが、ロボットが人間に近づけないところではないでしょうか。たとえ人間がますますロボットに似てくるこの時代にあっても。


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