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聖隷クリストファー高校の試合を見て チームについて考えた話

チームスポーツから学んだことについて述べてみたいと思います

きっかけは、今年のセンバツを逃した
静岡県の聖隷クリストファーの試合を観戦したことで
チームってなんかいいな~と感じました

現代人は徹底した個人主義を進めてきた結果
やっぱりどこかでチームへの所属の欲求を満たしたいのかな
そうした姿を見ると無性に憧れを感じてしまうのかな
などと考えます

私が社会に出て20数年
段々とこの個人主義が当たり前となりコロナでそれが加速しました

世代間の意識の違いとか
もちろん人はそれぞれですから
その是非については様々な考え方があると思う

自分はいわゆる昭和的な核家族で育ち
家父長的な父親が夜に酒を飲みながら巨人戦のナイターを観ている
そんな家庭で姉と弟と同じ畳の部屋で大きくなりました

そんな私が、村上春樹の小説の主人公のように
クールで知的な都会人に憧れた訳です

小説の主人公の多くは
休日に一人でスイミングしたりするような人物を
乾いたタッチで描き出していて
そうしたどこか無国籍で都会的な生活スタイルに憧れたものです

そんな自分も人の親となり普通に暮らしてきたつもりでいたのが
ちょっとした行き違いから
次第に家族と疎遠になり
流行りの?家庭内別居が早くも半年以上経過

気付けば、立派なお一人様
家にいても、出掛けても一人

そんな中ふと昔から好きだった野球
それも高校野球観戦に行きたくなったのです

母校の試合は休みの予定と合わず
え~っとと思いながら見つけたのが
冒頭のセンバツ選考に揺れた聖隷クリストファー高校の試合

選考から漏れ、落胆した彼らは普通に春の県大会で惨敗
「普通の高校生になってしまった」
と試合後の監督さんのコメントに胸が痛んだのを覚えています

そんな彼らが最後の夏に向かう姿を応援したい
そんな気持ちだったと思います

しかし、試合のある浜松球場周辺には駐車場はないので
遠州鉄道で何駅か離れた駐車場を見つけ車を停め
電車と徒歩で球場に向かい
やっとのことでついたのが
試合開始から遅れること20分

ちょうど相手チームがチャンスを迎えていたところでした

バックネット裏の程よい席を見つけ
途中スーパーで買ってきた日焼け止めを塗りたくり観戦開始

その回の相手チームの攻撃で先制を許すと
その後も追加点を奪われ、劣勢となったクリストファー

球場全体に聖隷クリストファーどうした⁉️
という雰囲気が漂います

自分はそうした中でも聖隷ベンチの中から
仲間の挽回を信じて声を出し続けているメンバーの姿
攻守交代の時に誰よりも先に元気にファーストへ向かう
エース(登板はしなかった)の姿など
負けてはいるが良いチームだなと感じた

5点差のまま試合が進みます

しかしクリストファーの打たれた先発投手が
レフトに下がりファインプレーをして流れが変わります

その後の攻撃でその選手がヒットを打ちベンチも活気づきます

気が付けば相手チームからは笑顔が消え
ベンチからも声がでなくなっていました

ピンチは自らがそう思った時に初めてピンチとして現れる
そんな言葉を思い出します

聖隷クリストファーはチーム全体が一つの有機体のように
まとまって立ち向かっていたと感じます

しかし相手チームにはこうした劣勢を
団結して跳ね返すことは出来なかった

同じ高校生
個々の能力は大谷のような飛び抜けた選手などはいないから
さほどの差は感じなかった

野球と言うスポーツは
ピッチャーとバッターの勝負の場面がメインで
それを取り巻くチームメンバーにはそれぞれの役割がある

伝令に走る選手一人でもチーム全体に大きな影響を与えることがある

小さなものの積み重ねでホームインという得点に繋がるのですが
こうした小さなものは球場に足を運んで観ないことには気付けない

会社という組織では『私』という単位で目標や成果が語られることが
多いと思うのですが本当にそうなのだろうか?

チームの目標、成果が大前提で
そこに個々の役割があるのではないだろうか?

もちろん仕事のやり方も生み出す価値も様々だから
必ずしもそうとは限らないだろう

少し現代人の生活に疲れを感じる今日この頃

聖隷クリストファー高校のチームから何かを感じ
それを忘れない為に書いてみました

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