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認知の父、心配の母⑩

父は次第に、昔とは違う父になっていった。

母は当分このことを妻や娘、姉や弟の家族にも内緒にして欲しいと言った。

そう、この頃の私はまだ、妻や娘と会話をしていた。
今の住まいに引っ越し子猫のげんを迎えた幸せな家族の最後の時期だった。

今ではげんは立派な猫になった。それだけが救いだ。


手術後の疲れもあるから当分の間実家には来ないようにとお願いをしてと、母は付け加えた。

父のそんな姿を嫁や孫に見せるわけにはいかないし、万が一あの興奮状態で女性に襲い掛かるような事態にでもなったら、と母の心配は尽きなかった。

帰省をキャンセルすることになり弟は不満のようだった。

その後のコロナ禍で、弟家族に新しく生まれた二人目の男の子のお披露目も先延ばしになってしまった。
感染予防の為には仕方がなかった。

その年の年賀状には子猫のげんの写真を入れて送った。


かかりつけ医によると認知症には一定程度こうした行動があるそうだった。

人が変わったようになり、どのように接して良いのかわからなくなることも多いそうだ。

総合病院の経過観察の際に、認知症外来も受診するように勧められた。


その外来の待合で父は不機嫌だった。

表向きには認知症の外来と分からないようになってはいるが、父は察知しているようにも見えた。

簡単な計算や図形、記憶の問題などのテストが父を警戒させたのだろう。

軽度の認知症という結果。

異存はない。
必要になれば公的介護保険の申請ができるようになる。

母は医師に薬で興奮を抑えることができると聞き、処方をお願いした。


『これは何の薬なんだ』父は飲もうとしない。
『胆嚢を取った影響を抑えるための薬』嘘も方便。

薬の効果で落ち着いたが、ますます何もできなくなっていった。

排便の問題が発生した。
小便をまき散らし、何度も下着を汚してはそれを隠そうと風呂場で洗おうとしたり、洗濯機を回そうとしては失敗した。

日に何度もトイレ掃除と下着の洗濯に追われ、母は疲れ果てていった。

プライドの高い父が紙おむつを嫌がらなくなるほど症状が進んでからやっとトイレ問題は落ち着いた。


今後の相談の為、姉と弟に現状を伝え、実家に集合することにした。
これが一昨年の夏のことだ。

いきさつを聞き、姉も弟も神妙な顔をしていた。

きょうだいでLINEのグループを開き、様々な情報共有ができるようになったのは、ある意味父のおかげでもあった。

それぞれ家族のことで忙しくしているようだったが、私は家族の話題には、適当にお茶を濁した。

その時私は家族のことは何も知らなかったからだ。

げんはすくすくと成長していた。もう子猫ではなくなっていた。


弟の発案で父の傘寿の祝いをやろうということになった。

日本平ホテルの会食の予約をしてくれた。
これが昨年の秋のことだ。

弟は私の妻と娘が参加しないのか母に尋ね、私が妻と娘と不仲になり疎遠であることを伝えたらしい。

弟からのLINEがあった。

父の転倒事故の際に捜索をし現場に駆けつけてくれた妻と娘を除け者にして父の祝いの席をすることが母には心苦しいという。
せめて誘い掛けだけでもしてくれないか、ということだった。

すでに母の心配は、私だった。

げんだけが私の友だちだった。


私はやむなく、妻と娘に置き書きをした。
傘寿の祝いへの二人の参加の有無を母か弟に連絡をして欲しい、と。

当日父と母、姉と弟家族、笑顔の集合写真が撮れた。

結局、妻と娘は参加しなかった。
姉の家族が不参加だったのはたまたまだったと聞いている。
妻や娘から連絡があったかは聞けなかった。

げんはいつも私が帰宅すると玄関まで迎えに来てくれ、子猫の時と同じように無邪気にひとしきり私の手をなめ、夜に眠る際は2階の妻の部屋に戻っていった。


介護認定を受け用具のレンタルや手すり工事補助金申請、デイケアも始め、週に一度私が送迎をしている。

母は自分の時間ができ、少しづつ笑顔を取り戻しつつある。

長く続いてくれることを祈っている。


娘の不登校や進路、妻のガン発症、同居の家族のことは断片的な情報として後から見聞きするだけだった。

妻からその都度必要な金額を口座に入れておくよう置き手紙で告げられた。

ひとつ屋根の下で2階の妻と娘、1階で暮らす私の間を行き来するのは猫のげんだけだった。

げんだけがそうした全てを見ていた。

そう、猫は何でも知っている。

                                了



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