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⑥12歳で単身アルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校へ-日本出発、開校、入学式…かなり変わった閉鎖された環境へーぶどう畑の真ん中で

私は11歳の時にフランス、アルザスにある日系全寮制学校に行くことを決め、12歳で単身でアルザス留学するために日本を出発した。あれから右往左往しながら、その後アルザスのストラスブール大学に留学し、私にとってアルザスは第二の故郷となった。


12歳の時に入学した全寮制の日本人学校の開校、そして入学までの日々を綴ろうと思う。


日本出発、開校、入学式

仏蘭西の学校の入学式は9月なのだが、この学校は日本の学校ということもあり、4月開校だった。
私はこの大学の開校とともに、4月の入学式ギリギリに他の生徒や父兄と共に、日本を離れた。もちろん、入学式の時は母親も一緒にフランスへと向かった。

私にとって初めての海外、実はどんな思いで日本を発ったか、実は全く覚えていない。ただ、海外で最初に訪れた国は実はフランスではなく、私達の乗った飛行機はスイスのチューリッヒに到着し、そこから1日スイスに宿泊、そしてフランス、アルザスに到着した。

海外とは全く縁のなかった私だが、実は私が小さい頃憧れていた国はスイスだった。小さい頃見ていたハイジの国で、幼いながらにスイスが永世中立国で戦争をしない国ということを聞いて、スイスに興味を持っていた。そんな憧れていた国が自分が最初に訪れた外国の国だったことを覚えている。

そして、このアルザスという地域はスイスやドイツから近く、その時この地に3年いたのだが、修学旅行で周囲の国に行くこともあった。国を超えての修学旅行なんて、なんだかすごいことなのだが、逆にその3年間の間、フランスの首都パリは遠く、一度もパリに行かずに、フランス滞在を終えてしまったのだ。

入寮日と入学式

アルザス成城学園は1986年4月17日、全入学生の入寮日を迎えた。10時前から生徒が父兄と供に続々と学校に到着した。私は日本からのツアーでこの学校に行ったので、母親を含めた多くの生徒とその家族と一緒にツアーバスで入校した。
何でも最初は大変だ。全教員や生徒が、慣れない寮生活の初めての食事、入浴、就寝などでてんてこまいだった。それも海外の小さな村にあるに全寮制日本人学校では、食事や入浴、日曜品を買ったり、お菓子を買ったりという普通のことまで、全て日本とは異なることが多かった。

そしてその次の日の4月18日に開校式を迎えた。元修道院であったこの学校で、開校式の会場となる講堂は旧礼拝堂で、幼い私にはとても神聖な場所に見えた。天井を見上げれば、ヨーロッパの絵画が描かれており、そこはもう日本とは違う場所だった。そこに生徒132名、教員28名、父母150名、同窓生20名、学校関係者、日本大使館、フランス側からは県議会議長アルザス州議会議長、知事を始めとして、地元の市長、教育関係者など来賓が列席し、生徒席を除いては1階、2階とも参列者でいっぱいとなった。

そういう意味でも通常では味わえない、開校式だったと思う。東京の学校から来た幼い私には、この光景がとても不思議に感じた。突然多くのフランス人が入学式にいるような環境で、「ああ、私は今外国にいるんだな。」と感じることができた。
式は日本語とフランス語訳、もしくはフランス語のスピーチなどもあって、それが日本語に訳されていた。今思えばとてもすごいことなのだが、その時のフランス語の先生が全て訳していた。こんな厳かな式で、物怖じせず、堂々と通訳をしていたフランス語の先生のことは今でも案となく覚えている。大きくなって、自分が通訳と言う仕事をしたことがあるが、大勢の人の前で通訳をするなんて、すごいことだなと思った。

アルザス成城学園の理念と特色が私の心に今もある

この開校式の時、成城学園、学園長は式辞の中でアルザス校の理念と特色を3つあげていた。そのまま抜粋するが、これがこのフランス、アルザスのぶどう畑の真ん中にある日系学校が他の学校と異なる大きな3つの点だったと思う。そして、その時の言葉が私の今の原点にも少し影響していると思う。12歳という幼い子であったけれど、だからこそ、ここで聞いた様々な話は私の中にずっと残っていたようだ。

①フランス国にある日本人の学校であること。
外国語や外国の事情を学習し、地元との交流に努め、国際的視野と共用を持った生徒を育てたい。

②成城学園が作った学校であること
個性尊重の理念をかかげた成城教育の精神が、国際的な学校を作ることによって、新たな発展となるであろう。

➂寄宿舎つきの全寮制の学校であること
これは成城学園とって新しい経験である。生徒も教師も一緒になって、明るく楽しい、意義のあるものをつくってほしい。

私にとって、この3つの特徴を鮮明に覚えていたわけではないのだが、今の自分の信念を考えると、「ああ、自分はこの時聞いた言葉をちゃんと自分の中で消化して、実体験に生かしていたんだ。」と思った。
まず、フランスにある日本ということ、それはフランスにいる日本人で、地元の人との交流や国際的視野という点でにおいて、私はいつも海外に在住する時は「私はここで何ができるんだろう?」と常に考え、どの国にいても現地の人との交流を重んじていた。

また、成城学園の理念である個性尊重という点でも私は自分のしたいことを自由にするように生きてきた。個性という点では分からないけれど、私は少し周囲とは変わっていた子で、そんな個性的な子でも、それを変えることなく、マイペースにこうしていつまでも海外をフラフラするような人生を送ってきている。
そして、私にとっても初めての全寮制の学校であったが、それ以降私はどれだけの寮で生活してきてしまったんだろうと思う。寮生活なんて自分には合っていないと思うのだが、それ以降、数えてみると大学も大学で寮生活をし、何度か語学学校に通った時も寮に宿泊していたこともあり、そして、その後していた仕事でもいくつか学校の寮に宿泊することがあった。恐らく、10以上の寮滞在経験があると思う。
それもこの全寮制の学校のお陰で、どんな寮でもどんな宿でも、滞在できるようになった気がする。この学校の3つの特徴は私のその後の人生に大きく影響し、生きるための様々な能力を得た気がする。

開校式の言葉

開校式では、生徒全員の名前が読み上げられ、校長が次のような告辞を述べた。その言葉が記録に残っているので全文をここにも残しておこうと思う。フランスという異国の地にあるけれど、この学校がとても日本らしい学校だったことがここでよく分かるような、そんなお言葉だったように思う。

『わが成城学園は個性尊重を旗印にする学校であります。それまた相手の人間を十分尊重することから始まります。そこから人間同士の『和』が生まれ、その『和』こそ全寮制の学校では特別大切なものとなるのです。このキーンツハイムの地は、勉強したり、運動したり、読書をしたりするには理想のところです。ものを考えるにはふさわしい丘や、小径があります。身体を鍛えるのに絶好な山や川や森があります。この恵まれた自然の中で、諸君のすばらしい青春をつくりあげて下さい。』

個性尊重の学校の理念の中、今になって思うが、この学校はとても日本らしかった。そして全寮制という特徴もあり、他者との「和」が重要と言われていたが、私みたいなちょっと変わり者、はずれ者にはその「和」が少し辛かった。
日本の先生方が設立した学校で、この中には海外留学経験者や海外在住者もほとんどいなかった。校内で働いていたフランス、アルザス在住の日本人の方もいたが、それはそれで海外留学経験者ということではなく、海外長期滞在者で、私達生徒の気持や生活を最初から理解できている人達がとても少ない、そんな環境だったように思う。
そして、オトナになってこの地に戻った時には、確かに「このキーンツハイムという地は、本当で、山に囲まれ、ブドウ畑の真ん中にあり、何も邪魔する環境ではなく、勉強したり、運動したり、読書をしたりするには理想のところだった。言い換えれば、それ以外にやることがなかったような場所だった。
そして、その穏やかな環境はものを考えるにはふさわしい丘や、小径があり、山や川や森があった。それは確かに恵まれた自然の環境だったが、10代の生徒たちにはちょっとたいくつな場所でもあったかもしれない。それでも、私もこの地でかなりのんびり、ゆったりした時間が流れ、たくさんの本を読むことができた。
元々一人でも大丈夫で、好きなことをするためなら一人でいることが全く苦ではない私は、よく図書館にいた。ここで、ある作家の海外生活期のようなエッセイ本が多くあり、それをたくさん読んでいた。

作家の名前は森村桂さんと言って、日本では「天国に一番近い島」という彼女のニューカレドニアでの滞在記を書いた本や、それを元にした映画などがよく知られている。そんな森村さんは、お菓子研究科としても有名で、また、アメリカ、フランスなど多くの国へ旅をして、お菓子を食べて、現地の人との交流を楽しむ、とても行動的で面白い体験を多くしている人だった。
今の私があるのは、この学校だけのお陰ではなく、森村桂さんのお陰でもあると思っている。彼女のお陰でお菓子にも興味を持てたし、せっかく外国に行ったら、現地の人の生活を体験したいと思うようになった。またその後の外国生活の中で知らない人の家に泊まったり、その場で会った人の家に行ったり、という行動力は、森村桂さんの影響をたくさん受けたような気がする。あの頃読んでいた本は決して中学生用の本ではなかったように思うが、この環境にいたからこそ、読めた多くの本があったように思う。

問題しかないような学校だった

本当にこの学校は開校当時、生徒だけではなく、教師にしても手探りのことばかり、何もかもが新しく、知らない事ばかりで、皆で一緒に創っていく学校だった。開校当初は、何かしてみて、そこで問題を見つけて、それから解決していく…。もしくは先生たちが予想しないようなことを生徒がしでかしたり、問題を起こしたりして、そこでその解決法を探していくような、そんな場所だった。

例えば、毎日「自習時間」が設けられていたのだが、開校当時はその勉強する場所すらなかった。図書館はあるものの、全生徒が入れるスペースはなく、その頃まだ自習室というもののなく、
先生が「自習しなさい!」と部屋から出なければならなかったのだが、
「どこで勉強したら良いんですか?」ということになり、結局開校当初は教室に戻って勉強するような、そんな環境だった。

食事の時間は決まっており、その時間に食堂に行かなければ食事を食べ損ねてしまう。食堂の食事は食堂以外に持ち運びは禁止だったのだが、日曜の朝など、起きることができない時は早く起きた友達にパンを部屋まで持って来てもらったりしてもらっていた。さらに、強者は電気ポットを買い始め、インスタントスープやラーメンを部屋で食べるようになり、更には炊飯器まで買ってご飯を炊く生徒もいた。
また電気ポットでパスタまで茹で、様々な方法でそのパスタを食べていた。例えば、パスタにふりかけを混ぜたり、日本でいたらしないような食べ方もたくさんしていた。そのせいで、必要以上に電気を使用することもあって、ブレーカーが落ちてしまう時もあった。その後、ある程度の電化製品所持禁止になった気もする。

消灯時間は決まっていたけれど、ランプも買ってきて、消灯後に電気を付けて寝ない生徒も出始めていた。試験前、夜中に勉強する生徒もいたが、調理道具もあり、こっそり夜中に起きて夜食を食べる生徒もいたこともあり、恐らくそのせいで、2年目になった時には消灯時間には電源のブレーカーまでおろされるようになった。

試験勉強の時には、消灯時間と就寝時間は決まっているのだが、逆に起床時間として、その時間までに起きなければいけない時間は決まっているものの、「x時以前に起きてはいけない」という規則はなかったので、朝4時、5時に起きて試験勉強をしたりした。ただ、最初の頃は教室で勉強していたので、夜は教室のカギがかかってしまうため、廊下に机を出して、勉強したりしていた。

フランスにある日本という閉鎖された世界の中で

今となってはインターネットやSNSもあって、遠くにいても様々な情報が入ってくる世の中になった。そして、留学もかなり簡単にできるようになった。世界はどんどん近く感じられるようになっている。
けれどまだこの頃は留学、それも私みたいなこんな幼い子供たちが留学するなんてことは珍しいことだったと思う。
また、中学生、高校生ならスマホも持っている時代だけれど、その頃は携帯も、スマホなんてないし、コンピューターも気軽に使える時代ではなかった。だから日本も遠い国だったけれど、外との関係からもかなり閉ざされた環境であったかもしれない。
中学生、高校生なんて、流行りの音楽や流行りの服、それこそアイドルに憧れたり、好きな推しがいたりする時代だけれど、そこにはテレビもなかったし、簡単に好きな音楽が聴けるような環境でもなかった。色んな意味で閉鎖されているような、そんな環境だった。日本の文化からも遠く、そしてフランスの文化からも遠い、そこだけの文化や生活様式が出来上がっていた。
そこでの世界は大人がある程度寛容しているものの、日本でも、フランスでもない、子供だけの世界が出来上がっていたように思う。
日本でもフランスでもないそこだけの規則があり、そこでしか通じない世界が出来上がっていた。

もちろん、フランス文化、アルザス文化に触れる機会もあったものの、私達の学校はその頃人口500人ほどの小さな村にあり、村の文化を体験することができた。また、そんな所に急に150人以上の日本人がやってきたのだ。この地方にとっても、村にとっても大きな出来事だったに違いない。この地域にとっても、まだまだ日本が遠い世界で、日本の情報が少ない中、急にこんなに多くの日本人の子供がやってきて、色々変化があったことだろう。

マスメディアにも注目されていた

そんなこともあってか、入学式、開校式の間、多数の新聞、テレビカメラマンが忙しく動きまわり、フラッシュの波の中で東京の学園、いや通常の入学式や開校式では見られない式典の光景だった。そして、この日の様子が地元新聞にも掲載され、私の初めての新聞掲載デビューとなったのだった。とは言え、開校式の様子なので、多くの生徒と一緒に写ったものなので、私が大きく写っているということではなかった。

開校が1986年、そしてその19年後に閉校になったこの学校は既に閉校からも長い月日が経ってしまったが、先日、学校の近くのホテルに行くと、そこのオーナーさんが大きなファイルを取り出して、開校当時の地元新聞を見せてくれた。今でもこうして残しておいてくれる人がいるなんて、本当に有難い。閉校後は他の組織や企業が介入していたにも関わらず、今でもこうしてこの日本人学校のことを地元の人が忘れないでいてくれているのは、やはりこんな小さな村に日本人学校が設立されたことは大きなことだったんだと思う。

そんなアルザス成城学園はこのぶどう畑の真ん中のアルザスの地に、地元の人々の好意に包まれて、スタートした。そしてその地に私のように12歳という年齢で親元離れ海外留学するということも珍しい体験だったと思う。
そして生徒も先生も一緒に創っていくような、そんな新しい学校の開校時に入学するということも、全寮制の学校へ入学することも、人生において色んな点で私は多くの新しく、珍しい体験をすることになったのだ。
ただ、今でも思うのだが、私がこの学校に在校して一番学べたことはフランス文化でも、フランス語でも、国際的な視野でもなく、どこでも寝られて、何でも食べられて、誰とでも気負いなく話せるようになった、ことだと思う。

12歳の私は親元離れてホームシック?

そして、たまに聞かれるのだが、そんな幼い時に親元を離れて寂しくなかったのか、ホームシックにならなかったのか、泣いたりしなかったのか。
実は最初この学校に到着した時は、まるで修学旅行の延長のような感じもあり、寂しさとか親元を離れて悲しいという気持にはすぐにならなかった。それよりもここでの生活をするのこと、この環境に慣れることに精一杯で、それどころではなかったことを覚えている。

ただ、ホームシック=家というよりは、この頃まだインターネットなどもなく、簡単に日本の情報も入って来ず、ジャパンシック、日本が恋しいと思うことはたまにあった。
中学生、高校生にもなれば、通常なら買い物に行ったり、アイドルに憧れたり、テレビを観たり、流行りのお菓子を買ったり、ゲームをしたり…。そういう日常にできることが全くできない状況なことが辛かった。ある意味様々な外の世界との距離がある環境で、メデイアに触れる機会が少なかった。服などの買い物もフランスでは少し難しかったし、コンビニもないし、簡単にお菓子とか食べ物が手に入る環境でもなかった。だから、ホームシックというより、毎日観ていたテレビとかもっとシンプルな物が恋しく思ったりもした。

毎日の食事も慣れないフランスの食事になったり、あまり事前に想像していなかった不便さが幾つかあった。けれど、私自身は特に日本食に拘った食生活を元々していなかったことなど、食生活においてはそこまで大変だとは思わなかった。あまり食べ物に好き嫌いもなかったけれど、それでも口に合わない食べ物もあって、そういう時はいつも必ず出てくるパンとチーズを食べていた。ただ、男の子はパンよりも腹持ちのするご飯を好んでいた子も多かったようだ。
日本の人だとやっぱり白いご飯が食べたい、なんて思うこともあるようなのだが、そういう気持ちはあまり持っていなかった。それは良かったことだと思う。そのせいか、今でも感覚的に何か食べるものを家においておこうと思う時はご飯と梅干、お漬物、とかではなく、長い間パンとチーズをおいておこう、と思うようになってしまった。

恐らく、12歳という年齢で、私には兄弟もいなかったし、母子家庭で母と二人で暮らしていたような環境で育っていたので、急に多くの人たちと暮らし始めることになり、本当に色んな意味で全てが新しいことばかりだった。
私のフランス留学は、フランスという外国で素敵な留学生活、を送るというのではなかったと思う。
親元離れて寮という環境で、自分と同じくらいの年齢の人たちと24時間一緒に暮らし、食事も食堂で食べるので決まった時間に食べなければならず、それも好きなものが何でも簡単に手に入らない田舎の村での留学だったのだ。


開校までの経緯





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