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(39)5人目のあきれたぼうい/あきれたぼういず活動記

前回までのあらすじ)
引抜き騒動で舞台から姿を消しているあきれたぼういず。結局、新興キネマ演芸部に坊屋三郎・益田喜頓・芝利英が移籍、川田義雄は吉本興業に残ることとなった。
そして同じ時期、続々と新たなボーイズグループが出現。本家の代わりに舞台を賑わせていた。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【穴埋め】

新興キネマ演芸部へ移った三人は、京都木屋町の旅館「国の家」にかくまわれていた。
当時新興キネマ所属だった森光子の実家である。
自由に外出できない坊屋達に、森がいろいろな情報を届けてくれた。

 新興キネマに演芸部ができて、吉本興行の坊屋三郎さんと益田キートンさんをひきぬいた。それに、山茶花究さんをくわえて、“あきれたボーイズ”をつくったのだが、吉本興行がかんかんに怒って、やくざを使って二人を殺そうとしている、という噂がとんだ。
 そこで、永田さんにたのまれて、私の家に二人を匿すことになった。

森光子/『我ら大正っ子』

川田の移籍が絶望的な今、まずは川田の穴をどう埋めるかが重要問題だった。

そこで白羽の矢が立ったのが、ロッパ一座の青年部員で「ハリキリボーイズ」の一員でもあった加川久である。
ロッパ一座は東宝の所属だが、彼については引き抜きではなく、座長の古川ロッパに交渉して円満に貰い受けている。

加川は「山茶花究」と改名。
酒豪で知られる彼、ロッパからの手紙には「あいつは酒がないときヨーモトニックなんか飲むから、心臓に毛が生えてるよ」なんてスゴいことが書いてあったそうだ。

 十一時起き、あきれたぼういずの坊屋三郎から、うちの加川を引抜いた詫手紙が来たので、その返事、そんな事はいいから勉強々々の事と。

『古川ロッパ昭和日記』昭和14年5月10日

加川こと山茶花究の加入は、意外と早い段階で打診されていたらしい。
4月8日の都新聞には先述の「ハリキリボーイズ」の紹介記事が出ているが(※前回note参照)、その写真に山茶花の姿はない。
記事では「余りハリキリすぎてか四人のうち加川久が病気で倒れ、吉川孝が代って出演している」とあるが、病気というのは無論、表向きの口実で、実際にはすでに移籍が進んでいたのだろう。

そして新興演芸部へ向かう山茶花は偶然にも、同じく京都へ向かう芝利英と出くわしている。

芝  この氏(山茶花)とはね、偶然、帝劇の前で会った。こいつが、お互に腹の探りっこでね、「芝君は京都へ行くのか」と訊く。行くのは秘密だったから、「ウンニャ、行かんよ、ところで君は?」と訊くと、「俺は、病気で舞台をやめて、神戸へ、帰る」と云うんだ。そこで別れた二人が、なんと同じ汽車の、前と後に乗っていて、京都の駅で下りたら、パッタリ、会ったときは、お互に、アレアレ、と言ったきりだった。

「あきれたぼういず朗らかに語る」/『スタア』1939年7月上旬号

となると、山茶花も芝と同時期、4月20日頃に新興演芸部へ移ってきたわけだ。
山茶花を加えた新生あきれたぼういずは、オリジナルと区別して「第2次あきれたぼういず」と呼ぶこともある。

その後、京都北白川久保田町にいい具合に四軒、固まって空いている家が見つかったので、四人まとめて引っ越した。
この家も私服刑事達が常に見張っていた。

山茶花究も加わったあきれたぼういずが新聞社へ挨拶。(京都日日新聞/1939年4月29日)

【五人目のあきれたぼうい】

山茶花究は1914(大正3)年4月1日、大阪市の米問屋の次男として生まれた。
船場でも指折りの米問屋だったというが、米騒動のあおりをくらってつぶれてしまい、さらに山茶花が九歳のときに父が先立った。
本名「末広峯夫」、この「末広」は母方の姓である。

1940年前後の資料等では神戸出身となっていることがあるが、大阪から移り住んだのだろうか。
母方の実家があったのかもしれない。
『レコード音楽技芸家銘鑑・昭和一五年版』に出ているプロフィールは以下の通り。

神戸市須磨区戎町に生る。工業学校建築科を出たがふとしたはづみで約十年前浅草へ出て漂浪す。

山茶花の経歴について最も詳しいのは『さらば、愛しき芸人たち』(矢野誠一)だろう。
ここでは「神戸工業学校の建築科」に入ったとある。
しかし、神戸工業高等学校の当時の生徒名簿に名前が見当たらないので、別の工業学校だったのかもしれない。
とにかく、経歴に謎の多い人である。

建築会社へ就職が決まったが、画家を志して上京していた兄の影響もあり、自身も画家になろうと卒業試験をすっぽかして東京へ。
ところが絵を学ぶうちにプロレタリア美術等の左翼的な活動に関わるようになったため、保安当局から目をつけられてしまう。
その尾行を巻くうちに、浅草の芝居小屋へもぐり込んだのが、この世界へ入るきっかけだった。

1932(昭和7)年10月にオペラ館のカジノ・フォーリーで歌手としてデビュー。
ちょうど、川田がカジノ・フォーリーに在籍していた時期と重なる。(※note(16)参照)
その後もときには舞台に立って歌や楽器をやり、ときには裏方で台本を書き、浅草の一座を転々としたようだ。

やがて万成座のグラン・テッカールに加入。
ここでまた、川田と一緒になっている。(※note(17)参照)
のちに川田の代役を務めることを思うと、ちょっと不思議な縁だ。
当時の都新聞の配役表には、「川田」と「笠井」の名が並んでいるのが確認できる。
当時の芸名は「笠井峯」だった。

その後一度、浅草を離れ、大阪の「陽気な一座」に参加。
これは吉本興業所属の男性五人のコメディグループで、川田の弟の岡村龍雄も在籍していた。
『ヨシモト』誌にはメンバーの写真や座談会記事なども出ていて、背の高い岡村と四角い顔の山茶花が並んでいる。

再び東京へ戻ると、古川ロッパの一座の青年部に参加。
ここで、生涯の無二の親友となる森繁久彌と出会う。
(この森繁ですら、山茶花の実家が米問屋だと知ったのは山茶花が亡くなったときだというから、その正体不明さがわかろうというもの。)
ロッパ一座では芸名に「川」を入れるのがならわしで、山茶花は「加川久」、森繁は「藤川一彦」を名乗った。

森繁は1937(昭和12)年に退座し、満州へ渡る。
その後、「ハリキリボーイズ」が結成されると、山茶花もその中心メンバーとして活躍。
そこへ新興キネマ演芸部から声がかかり……というのが、あきれたぼういず参加前までの彼の大まかな経歴である。

【山茶花究という人】

山茶花が、色紙にサインを求められると「非情」と添えていたというのは有名な話。

常に世の中を醒めた目で見ていて、決して表には出さない何かを胸のうちに抱えているような、正体を捉えきれないところが、底知れぬ魅力だ。

矢野誠一は『さらば、愛しき芸人たち』の中で「多少世をすねて、つねに醒めた目を持ちつづけていたこのひとは、絶えず充たされない思いをいだいていたように見える」とその内面を考察している。
後年、酒と薬に溺れていった山茶花だが、周囲の人は「あいつは、望んで麻薬中毒になろうとしている」と言い、そして「そこがあいつの弱さなんだ」と森繁久彌は語る。

「友だちの少ない男だったよ。オレはたった1人の、文字どおり無二の親友だった」
「永遠に孤独な男で、酒も1人で黙って飲んでいる時が多かった」

森繁久彌/「週刊明星」1971年3月21日号

一方で、芸に真摯で真面目という印象を受ける人でもある。
実際、かなりの読書家でもあり、また歌舞伎の所作事を歌舞伎役者・市川中車に習いに行ったり、活動弁士・大辻司郎からいろいろな弁士の解説を教わったりと、勉強熱心さの伝わる話も多い。

「自分が凝り性で勉強家なだけに、人のことでもいい加減なことががまんできない。仕事場でもよく、誰かれかまわずどなりつけた。そのために嫌われるということはなかったし、今になれば惜しむ人ばかりなんだが、本人は人に嫌われてると思いこんでいた。“オレはうんと嫌われて生きていくんだ” なんてイキがっていたが、本当はテレ性で寂しがりやなんだよ。それでつい酒にいっちゃう。」

森繁久彌/「週刊明星」1971年3月21日号

あきれたぼういずのレコードを聴いていると、彼のキャラクターが生み出す、80年前のものとは思えないような醒めたユーモアにハッとすることがある。


【参考文献】
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1986
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『さらば、愛しき芸人たち』矢野誠一/文芸春秋/1985
『日本映画俳優全集男優編』/キネマ旬報社/1979
『我ら大正っ子』/徳間書店/1961
『古川ロッパ昭和日記:戦前篇』古川ロッパ/晶文社/1987
  ※青空文庫より引用
『レコード音楽技芸家銘鑑・昭和一五年版』/レコード世界社/1940
「あきれたぼういず朗らかに語る」/『スタア』1939年7月上旬号/スタア社
『週刊明星』1971年3月21日号/集英社
『広告批評』1992年10月号/マドラ出版
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社


(次回11/5UP)新生あきれたぼういず始動!

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