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(17)グラン・テッカールの浅草進出/あきれたぼういず活動記

(前回のあらすじ)
吉本興業によるレヴュー団「グラン・テッカール」が旗上げされた。
川田義雄は旗上げ時から参加したがまもなく離脱。
入れ替わりに芝利英・益田喜頓が加入してきた。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【浅草進出】

関西巡業を終えた一座は、一旦横浜花月へ戻ったのち、念願の東京進出を果たす。
場所は浅草の万成座で、初演は1934(昭和9)年正月。

浅草にきてからのグラン・テッカールの配役表には、川田の名前が確認できるので、座に復帰したようだ。

また、東山比佐良(大竹タモツ)の名前はなくなっている。
彼はグラン・テッカールを抜けて、大阪で自身の一座「オオタケ・フォーリー」を立ち上げた。(オオタケ・フォーリーについては次章で述べる。)

芝と益田にとってはこれが初めての浅草公演であり、そして名古屋では客席から観た川田義雄と初の共演である。
芝と益田は西浅草の六畳一間を二人で借りて暮らし始めた。

 芝利英とぼくと、浅草の田島町に六畳一間を借りて、そこから劇場に通ってたんですが、ぼくは必ず日本に、オペレッタの時代がくると考えてたものですから、七円五十銭のギターを買ったりして、楽屋でギターの教則本を見ながら練習してました。

益田喜頓「キートンひきがたり②赤い風車」/『面白半分』1973年5月号

この頃には、二枚看板だったはずの鈴木旗男と林葉三は抜けてしまっており、代わりに川田が芝居や歌で大車輪の活躍をしている。
また、一座の歌手であった澄川久と二人で歌とギャグとを織り交ぜたネタを作って、舞台にかけたりもしていた。

 彼(=澄川久)と僕とは或時は当時のショーの構成がマンネリズムに陥っているのを嘆いて、二人で夜の目も寝ずに新作して、ギターを弾きながら唄とギャグを盛り込んで舞台にのせたこともある。簡単な唄でないと譜を作るのが大変だから、他愛もないおかしみのあるものをーー蛙がひょこひょこ二ひょこひょこ、蛇が三びき三にょろにょろ、あわせて二ひょこ三にょろにょろ……なんてものを僕等が唄っていると女連中がウクレレを持って出て来る、真似てみろと言う、女連中はうまく出来ない、口惜しがってタップをやってみせて、此方にやってみろと言う、こちらがやっていてひっくりかえって暗転ーーと言った風な取入れ方をしたのである。だから澄川君が、僕に向って「あきれたぼーいずなどの形式はとうの昔にやったじゃないか」と豪語するのも尤もであると思う。唄とギャグを盛ってギターとウクレレで舞台にのせたのは、恐らくこれが創世紀であろう。

川田義雄「あきれた自叙伝」


川田はこの頃から「あきれたぼういず」の芸の原型を模索していたようだ。

また、万成座ではグラン・テッカールのレヴューの他に吉本興業の芸人達による漫才や落語、舞踊や曲技なども併せて舞台に出していた。
これは「浅草の小屋でレヴューと色物の興行は万成座だけ」と当時の都新聞にも書かれているように、吉本独自の公演スタイルである。
レヴューと落語や漫才では客層も異なるため、新聞では否定的な意見も多くみられる。
しかしこの吉本式プログラムが後の「吉本ショウ」へと繋がっていき、そのアイデンティティとなっている。

メンバーには先に挙げた大竹タモツや澄川久のほか、伴淳三郎、谷崎歳子、大井律子、石田清、小宮凡人、石田守衛などがいた。
また、のちに吉本ショウでも活躍したメンバーには歌手の町田金嶺やダンサーの西條君江、櫻文子(のちの川田義雄夫人)、棚木みさを、賀川龍子ら、そして文芸部の岩本正夫や振付の間野玉三郎等がいる。

あきれたぼういずの面々では、最後まで残ったのは川田のみで、芝は1月末頃に、先述の「オオタケ・フォーリー」に移り、益田は3月以降のどこかで抜けている。

また9月20日公演から翌1935(昭和10)年2月始めまで、配役表に「笠井」の名前があり、これはのちにあきれたぼういずの一員となる「山茶花究」だと思われる。
彼は吉本興業で活動中、「笠井峰」を名乗っていた。

1934年2月10日〜浅草万成座の公演パンフレット。
「川田義雄」「桝田喜頓」の名前が確認できる。芝利英はすでにオオタケ・フォーリーに移っている。

【爆笑王キング万歳】

この頃の映画界はちょうど、サイレントからトーキーへの過渡期であった。
1932(昭和7)年に京都に建設されたトーキー用スタジオ「JOスタジオ」は、吉本興業と契約し、吉本芸人達の出演するトーキー映画を制作。
1934(昭和9)年1月には第一弾として柳家金語楼主演の「俺は水兵」、2月には永田キング主演の「爆笑王キング万歳」を公開した。

そしてなんと、この「爆笑王キング万歳」には、益田喜頓も出演している。

 或日数十名の役者の中から私だけがただ一人、京都JO(後のPCL)撮映所へ抜擢されることになった。永田キングの「キング万才」と言う映画だった。

益田喜頓『乞食のナポ:喜頓短篇集』

筆者の知る限り、あきれたぼういずのメンバーが出演した映画はこれが最初である。
永田キングは野球芸などのスポーツ漫才を得意としており、この映画の中でも披露していたようだ。
益田が抜擢されたのも、ひょっとすると野球経験者だったからかもしれない。
当時、同じくグラン・テッカールに所属していた三益愛子も出演している。

永田キングの経歴に迫った澤田隆治の『永田キング』によれば、撮影期間は1933(昭和8)年12月頃なので、グラン・テッカールが横浜から浅草に出る直前頃ということになる。

「爆笑王キング万歳」を紹介する記事/都新聞・1934年2月18日

【準備期間】

グラン・テッカールは一年ほど万成座で活動を続けたが、吉本興業が万成座を手離すこととなり、1935(昭和10)年3月1日からの公演を最後に解散した。
川田やダンサー四人ほか数人のメンバーは同じ吉本系列の一座へ応援参加することになり、3月11日からは京都花月劇場のピッコロ座公演に加わっている。

 ピッコロコントのトリオ、コメデーは『ラヴ・イズ・ベスト』を出すが、これはレヴュー形式に新しい内容を盛り込んだ純然たる音楽喜劇で、最も清新な流線型喜劇であり、更にスピーディなものにするため、東京吉本より振付の名手間野玉三郎、タップダンスガール西条君江・棚木みさを・桜文子・賀川静子・山田芳江らに、ヴォカル歌手川田義雄・小宮凡人や谷崎歳子・南百合子が参加している。

(京都日出新聞/1935年3月11日)

その後8月まで大阪の劇場へ出演。
9月からは、懐かしの横浜花月劇場で永田キングの一党に加わった。
永田キングらの横浜での熱演は徐々に観客の心を掴み、上京の際には送別会が催されたほどであった。

地元新聞にも度々取り上げられており、川田については
キングと川田義雄が目立っている」「歌では(町田)金嶺より川田のテノールまがいの方が魅力があって一般受けがする」(横浜貿易新報/1935年9月27日)、
欲を云えば川田か町田にもっと歌を歌わせたい」(横浜貿易新報/同年10月27日)と、特に歌に対する受けがいい。

その一方で吉本興業は、浅草の「東京館」というバラック建ての芝居小屋を入手。
ここを東京での新たな拠点とするべく改築を進めていた。

川田らは、こうして他の一座に参加しながら、東京館の跡に「浅草花月劇場」が完成し、グラン・テッカールをさらに進化させた新たなレヴュー団「吉本ショウ」が誕生する日を待っていた。

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【参考文献】
『吉本興業百五年史』吉本興業/ワニブックス/2017
『永田キング』澤田隆治/鳥影社/2020
「あきれた自敍傳」川田義雄/『中央公論』1940年春季特別号/中央公論新社
「あちゃらかぱいッ」色川武大/『別冊文藝春秋』1979年9月号/文藝春秋
「キートンひきがたり」②益田喜頓/『月刊面白半分』1973年5月号/面白半分
「読売新聞」/読売新聞東京本社
「都新聞」/都新聞社
「横浜貿易新報」/横浜貿易新報社


(6/4UP)オオタケ・フォーリーと粟ヶ崎大衆座

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