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(38)ボーイズ戦国時代/あきれたぼういず活動記
(前回のあらすじ)
引抜き騒動の結果、あきれたぼういずは坊屋・芝・益田が新興キネマ演芸部(関西)に移籍、川田のみが吉本興業(東京)に残ることとなった。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【ボーイズというジャンル】
引き抜き騒動の動向とともに紙面を賑わせていたのが、「あきれたぼういずの代用品」……あきれたぼういずを模したグループの出現だった。
それまでにない新たな芸風を編み出したあきれたぼういずだが、その人気が高まるにつれ、同様のスタイルで売り出す演芸グループが現れ始めた。
そして引き抜き騒動の最中、あきれたぼういずが表舞台に出られずにいる間、そうしたグループへの注目度や需要も高まり、ブームに拍車をかけた。
吉本興業に誕生した「ザツオンブラザース」もその一例だ。
多くのグループが「〇〇ボーイズ」を名乗ったことから、彼らを「ボーイズ」と呼ぶようになっていった。
四人の珍奇なヴォードビリアンだった「あきれたぼういず」が、「ボーイズ」という演芸の一ジャンルへと膨らんでいったのだ。
今回は、そんなボーイズ達の紹介記事をいくつか見ていきたい。
①ビックリボーイズ
引き抜き騒動が起きるより以前、かなり早い時点で登場したのが「ビックリボーイズ」である。
しかも、東京ではなく宝塚発というのも興味深い。
1939(昭和14)年元旦の宝塚中劇場公演に初登場。
「先ずねばれ!/宝塚ショウ第一回公演評」
ショウ、軽演劇繁昌時代の波に乗って、元旦を初日に、宝塚中劇場の舞台に宝塚ショウが生れた…(略)
◆…第一、志村治之助作「宝塚慰問袋」は、アクロバット、手品、漫才、タップなどなどの芸を主にして構成したショウ形式のものであるが、それには、その芸があまりに貧弱でたよりない、ただ「あきれた・ぼういず」張りの「ビックリ・ボーイズ」と云うのが、あらゆる楽器を駆使して、歌ったりはてはタップまで踊って、客を喜ばせる
これは「ショウ・イズ・オン」に出ていた宝塚の楽士が四人でやっているのであるが、努力如何によっては、相当な芸人となろう、このショウでは、これだけがひろい物であり面白い芸である…
レビュー芸人出身のあきれたぼういずと違い、元々楽器のプロである楽士達によるグループなので、演奏技術と楽器のレパートリーはかなりのものだったのかもしれない。
このビックリ・ボーイズのリーダーは、のちに音楽男(おとらくお)の名前であきれたぼういずに加入する星野伸二である。
②ハリキリボーイズ
続いて、古川ロッパ一座の青年部の面々が結成したのが「ハリキリボーイズ」。
初演日は不明だが、正月のロッパ一座公演にあきれたぼういずが特別出演したのがきっかけで、その芸風をすっかりコピーしてしまったらしい。
紹介記事は引き抜き騒動の最中に書かれたもの。
「ハリキリ・ボーイズ」あきれた代用品
ロッパ一座で暴れ回る
★……有楽座「ロッパの鶴八鶴次郎」の序景、特選漫才大会で、堀井英一と石田守衛の掛合い漫才が済むと下手から「ハリキリ・ボーイズ」が楽器片手にはしゃぎながら登場して観客席を引掻き回す、これが又恐ろしく「あきれた・ぼういず」に似ているので再びお客の度胆を抜く…(中略)…この連中は白川道太郎、須田村桃太郎、城木浩二、吉川孝の四人、お正月特別出演した本物の「あきれた・ぼういず」に刺戟されて蹶起した若手連中で、一月舞台を共にした間にすっかり本家の癖と芸風を取り自分のものにしてしまった
★……〽一つとせエ……の大漁節につれて四人がてんでに芸を始める、澤正張りの赤城山の国定忠次があるかと思えば浪花節が飛び出し、苗売りの声帯模写から尺八、汽車の擬音まで息つく暇もない位の忙しさ、陽気に舞台を暴れ回っているが、余りハリキリすぎてか四人のうち加川久が病気で倒れ、吉川孝が代って出演している
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③ザツオンブラザース
「ザツオンブラザース」は先述の通り、吉本興業があきれたぼういずの代わりとして作ったボーイズだ。
ところがのちにリーダーの木下華声(二代目江戸屋猫八)は吉本を辞め、新興キネマで新たに「あひる艦隊」というボーイズを作って活動する。
売りはやはり、木下の物真似(声帯模写)だったようだ。
「あきれた・ぼういず」の半身を新興に攫われた吉本興業では、これも新興から覘(ねら)われている物真似の木下華声を中心にハワイ生れの混血児来栖ジェリー、某ダンス・ホールのバンド・マスターをしていた銀光兒にヴォードビリアン伊佐一太、紅みちるの五人で擬音とジャズないまぜの「ザツオン・ブラザース」を新編成、十三日から浅草昭和劇場にデヴューさすことになった
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本家より一人多い、五人組なのも印象的だが、6月頃には紅一点の紅みちるが抜けて四人に。
また8月には伊佐一太が抜け、代わりに只茶兵が加入する。
④あわてたバンド
芝や益田がかつて在籍したオオタケ・フォーリーは、いつの間にか広告に名前が出なくなり、解散してしまった様子である。
1938(昭和13)年9月、常盤座「笑の王国」の公演に、オオタケ・フォーリーの一員だった大竹タモツや白河夜舟(オオタケ・フォーリー時代の表記は白川夜舟)が参加してるのが確認できる。
9月25日の都新聞に書かれている舞台評には、
「最も楽しめるのは白河夜舟、牧昇二、竹中良一、隠岐メリー等の、例の『呆れたボーイズ』を思わせるリズム・チームで、これに後に大竹タモツが加わっての一場は、却々(なかなか)に利いたものである」
との一文があり、すでにあきれたぼういず風のショウをやっていたことがわかる。
グループ名等は言及されておらず、このステージ限りのユニットだったのかもしれない。
そして引き抜き騒動後、1939年5月に金龍館で結成された「あわてたバンド」に、白河夜舟の名前が再び登場。
今度は“あわてたバンド”
蟇口歌手の高屋朗等で
あきれたボーイズは崩れてしまっても、その後を襲った形で、昭和劇場の舞台に、木下華声を中心にザツオン・ブラザースというのが出来たり、かと思うと、今度は金龍館の舞台に「松竹朗ショウ」あわてたバンドというのが誕生、これは例の蟇口歌手の高屋朗を中心に近年はロッパ一座で道川晴子を名乗っていた往年の丸山夢路の瀧美鈴、益田喜頓張りの白河夜舟に、牧野昇二といったメンバーで、ザツオン・ブラザースにも紅一点紅みちるというのが加わっていたがこちらは瀧が漫唱クインの肩書で、堂々高屋と張合って、女ヴォードビリアン振りを見せるのが強味、そして高屋がよだれ掛けを着けた赤ン坊になれば、瀧は子守唄を唄い、それが、しまいに鶴八鶴次郎になるなど、人を喰う事は存分に喰っている
高屋の大口ばかりに頼らずに、工夫を怠らずに行けばこれもエンコの一名物となって行こう
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別の紹介記事では「白河夜舟は『あきれた』の芝利英や益田喜頓と、オオタケ・フォーリーで同じ釜の飯を食い合った仲」と紹介されている(都新聞/1939年6月12日)。
かつて同じ一座にいた仲間が、新たなボーイズグループをやっていると思うと嬉しくなる。
リーダーは「ガマ口」の愛称で知られる浅草芸人の高屋朗。
彼は元々あきれたぼういずのファンでもあり、自分の出番のないときには花月劇場に観に来ていたらしい。
「牧野昇二」は笑の王国の舞台評に出ていた「牧昇二」と同一人物だろう。
【参考文献】
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
(次回10/29UP)五人目のぼういず
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