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(16)グラン・テッカール旗上げ/あきれたぼういず活動記

(前回までのあらすじ)
益田喜頓と芝利英はレヴュー団「赤い風車」に参加し巡業していたが、京都で解散。
同じ頃、川田義雄が座長をしていた「ジャズ・オブ・トーキョー新劇レヴュー団」も解散した。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

▶︎今回は吉本興業が作った初のレヴュー団、グラン・テッカールについて…

【吉本興業の東京進出】

この当時の吉本興業は、関西でこそ落語・漫才を中心に演芸界を牛耳っていたが、関東では二大勢力としてしのぎを削り合う東宝松竹に対抗できずにいた。
東京支社長の林弘高は、東京でさらなる躍進を遂げるためには、吉本興業も自身のレヴュー団を持つべきだと考えた。
そしてメンバーを集めて旗上げしたのが「グラン・テッカール」だ。

あきれたぼういずのメンバーでは、川田、芝、益田、そして山茶花がこの一座に在籍した。
やがてこのグラン・テッカールを元に「吉本ショウ」が作られ、「吉本ショウ」から「あきれたぼういず」が生まれた。
グラン・テッカールは、あきれたぼういずの源流であるといえる。

グラン・テッカールについて書く前に、グラン・テッカールへ参加する直前の川田、芝、益田の状況をみておこう。

【他流試合】

「ジャズ・オブ・トーキョー新劇レヴュー団」が解散し、川田義雄は本人の言うところの「初めての他流試合」に臨んだ。
1932(昭和7)年10月末に再始動した、浅草水族館のカジノ・フォーリーに参加。
当時、玉ノ井でバラバラ殺人事件が起き話題となっていたが、六区の劇場でもこれを競い合って舞台化した。

 当時、玉の井の有名なバラバラ事件が突発した。オイソレ来れとばかり、それを舞台に実演した。しかも僕はバラバラにされる張本人になった。イヤじゃありませんか! であった。

川田義雄「あきれた自叙伝」

「殺された隆太郎」と題された芝居がそれで、1932(昭和7)年11月11日から公演されている。
その次の公演回では、公開されたばかりの映画「ロイドの活動狂」を舞台化。
川田はロイド役を演じ、これを読売新聞で褒められているが、これが新聞に名前入りの評が出た最初だったので非常に喜んだという。

「カジノの活動狂」
水族館カジノ・フォーリーこんどの出しものでは、第五の「ハリウッドの活動狂」が面白い、ロイドの映画を舞台にうつしたものであるが川田義雄のロイドが写真で見る本物とちっとも違わぬ点が感心、もっと塗れば尚さらよく似よう、動きも殊更に軽くせずに、陽気でやって行くのがめっけもの

読売新聞/1932年11月29日


また、「日本映画俳優全集男優編」(キネマ旬報社)によれば、のちにあきれたぼういずの一員となる山茶花究が1932年11月にカジノ・フォーリーでデビューしている。
ちょうど川田が活躍していた時期に重なる。
ここで二人が顔を合わせていたのなら非常に興味深い。

【大竹タモツ】

一方、赤い風車が解散した後、夢の浅草を目指して再出発することにした芝利英・益田喜頓に、声をかけてきたのがコメディアンの大竹タモツだった。

オオタケタモツ(都新聞/1936年8月23日)

 大竹保さんという人がいまして、その人がぼくと芝利英に目をつけてくれたんです。で、オーディションというほどでもないんですけど、一応テストみたいなものがあって、今のロック座ですね、そのころは万世座といってましたが、そこに入ったんです。吉本興行の経営でね。そこでだいたい、軽演劇のグループに入ることができたわけですよ。

益田喜頓「キートンひきがたり」②/『月刊面白半分』1973年5月号

と、益田は語っている。
ただしこれはかなり端折られており、実際はすぐに浅草(万成座)に出られたわけではなかった。
大竹は一時期神戸を拠点に活動していたようで、二人が大竹と出会ったのもこの頃らしい。
後に雑誌『漫才』の読者投稿欄に掲載された神戸「千代之座」の思い出の中に、大竹と芝が出てくる。

 忘られぬ舞台の最高は、オオタケタモツ、当時の東山比佐良が浅草バツドガール集団を連れて出演した昭和七年の十月であった。
 後の白河夜舟、当時の白川耕ニ、後の芝利英、当時の白井順、ヤパンモカルの男性の踊り手の横山芳夫、河合君子、草川喜代子、東山敏子等皆は美しかった。(※1)

新田珠樹「千代之座芸人」/『漫才』1977年2月号

(※1)「東山比佐良(とうやまひさら)」は大竹タモツの前の芸名である。また芝利英について「当時の白井順」とあるのは「石川順」の記憶違いだろう(白井順というムーラン・ルージュの歌手も別にいる)。益田の名前は出てきていないが、これは投稿者の記憶に残っていなかったのか、あるいは二人の参加時期にズレがあったのかもしれない。
 また、「昭和七年十月」というと、赤い風車が解散したと筆者が予想している時期よりも早い。このあたりの時期関係についてはもう少し調べてみる必要がありそうだ。

【グラン・テッカール旗上げ】

グラン・テッカールの座長はエノケン一座で活躍していた小柄なコメディアン、鈴木圭介
初の座長公演ということで、これを機に「鈴木旗男」に改名した。
そして相棒が黒人風のメイキャップで踊る長身のダンサー、林葉三
林はかつて鈴木と同じ一座にいた馴染みから声がかかったものらしいが、このときは川田と同じカジノ・フォーリーに在籍していた。
そして林や数人のメンバーらと共に、川田義雄もグラン・テッカールに加わった。

鈴木圭介(旗男)(都新聞/1936年7月1日)
林葉三(読売新聞/1932年11月23日)

いずれは東京、浅草への進出を目論むグラン・テッカールだが、最初の拠点は横浜花月劇場だった。1932(昭和7)年12月30日に初演の幕を開け、1933(昭和8)年6月末まで半年間、横浜で活動している。

グランテッカール初演広告/横浜貿易新報・1933年1月1日

(鈴木圭介や林葉三については、色川武大『あちゃらかぱいッ』によく描かれている。グラン・テッカール旗上げのいきさつや横浜での様子も出てくるので気になる方はぜひ。)

川田がこの横浜花月劇場での旗上げ当初のことを回想しており、旗上げ時には参加していたことがうかがわれる。
しかしその後、川田はギャラの折り合いがつかず、一座を抜けている時期がある。
なんと2月の朝鮮新聞、朝日座の生駒雷遊一座の公演広告に名前があるようだ。

【芝・益田が加入】

グラン・テッカールは7月から、京都の中座を皮切りに関西を巡っている。

この京都公演時のパンフレットに、「芝利英」「枡田喜頓」、そして「東山比佐良(=大竹タモツ)」の名前がある。
それまで拠点にしていた神戸を離れ、揃って加入したらしい。
芸名の「芝利英」「益田(枡田)喜頓」を名乗ったのはこの時からで、名づけ親は吉本興業の東京支社長、林弘高だそうだ。

1933年6月30日~京都中座公演のパンフレット。
「芝利英」「桝田喜頓」の名前がある。川田の名前はない。

【参考文献】
『吉本興業百五年史』吉本興業/ワニブックス/2017
『乞食のナポ:喜頓短篇集』益田喜頓/六芸書房/1967
日本映画俳優全集男優編/キネマ旬報社/1979
「あきれた自敍傳」川田義雄/『中央公論』1940年春季特別号/中央公論新社
「あちゃらかぱいッ」色川武大/『別冊文藝春秋』1979年9月号/文藝春秋
「キートンひきがたり」②益田喜頓/『月刊面白半分』1973年5月号/面白半分
「千代之座芸人」/『漫才』1977年2月号/漫才作家くらぶ
「読売新聞」/読売新聞東京本社
「都新聞」/都新聞社
「横浜貿易新報」/横浜貿易新報社


(5/28UP)グランテッカール、念願の浅草進出!

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