見出し画像

(24)あきれたぼういず誕生②/あきれたぼういず活動記

(前回のあらすじ)
吉本ショウのマンネリ化に不満を溜めた川田義雄ら数人の芸人達は、自分達でアイディアを練った新しいパフォーマンスを披露して大ウケ。
「あきれたぼういず」が誕生した。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【三人組に】

やがて、あきれたぼういずは川田・芝・坊屋の三人組として定着してくる。

当時、共に吉本ショウの舞台に立っていた中川三郎は、自伝『踊らんかな、人生!』の中で川田・芝・坊屋の三人のあきれたぼういずについて「たしか、初演は新宿の花月劇場の舞台だった」と記している。
「新宿の花月劇場」とは、浅草花月と並んで吉本ショウの拠点となっていた新宿帝國館のことだろう。
彼は「浅草でいきなりブッツケなかったところに、川田義雄らしい深謀があった」ようだと語る。
三人組として方向性も定まった「あきれたぼういず」を、まず新宿で試演したのだという解釈だろう。

新宿帝國館での吉本ショウの公演記録を見てみるに、この三人組での初演は7月1日である。再び、瀬川昌久の「川田義雄の半生期」から引用しておく。

 七月一日の新宿帝国館に、吉本ショウ『当世ハリキリ読本』と『中川三郎ハタアズ公演ーー新作ボトムズ・アップ』の二本立てを出した時に、後者の第八景が「アキレタ・ボーイズ」となって、川田、芝、坊屋の三人が出ている。三人は「ダイナ」と「小さな喫茶店」を歌ったが、十分に笑えて楽しかった、との評が残っている。花月の七月の舞台には、明らかにこの三人による「あきれたぼういず」のショウがかかっていた。『モダン・ダンス』誌昭和十二年八月号には、「あきれたぼういずのジャズ漫才」という題で川田義雄の写真入りで、明石欣也名の評が次のように述べている。
「川田義雄のパーソナリティには、エノケンやロッパなどより、もっとジャズ化された新時代向きなセンスを盛るのに適している。……この三人がチームになって、呼吸のあった洋式漫才を運んでいくところには、何か今までになかった時代性が芽を吹いて来たように思えるーー」

瀬川昌久「川田義雄の半生期」/『川田晴久読本』
1937(昭和12)年7月1日からの吉本ショウ・新宿帝国館公演チラシ。
この公演であきれたぼういずが川田・芝・坊屋の三人組になったと思われる。写真は中川三郎。

【益田喜頓の加入】

やがて、芝利英が「もう一人加えようぜ、いいのがいるよ」と誘ったのが親友の益田喜頓だ。

彼はこの時オオタケ・フォーリーに在籍していたが、座長の大竹タモツに交渉して吉本ショウへもらいうけた。
当時は劇団対抗の野球試合がさかんに開催されていたが、益田はそちらでも大いに活躍して一座に貢献していたので、抜けるとき大竹はずいぶん残念がったようだ。

普段は浅草花月劇場や新宿帝國館で吉本ショウと一体となって公演していたオオタケ・フォーリーだが、完全に吉本ショウに統合されたわけではないようで、
ちょうど川田達が「あきれたぼういず」をやり始めた1937(昭和12)年5月から6月にかけては横浜花月劇場で「オオタケ・フォーリー」としての公演を行っている。

益田があきれたぼういずに加わった正確な時期ははっきりしないが、このオオタケ・フォーリーの横浜公演が終わり、再び東京へ戻ってきたタイミングである可能性が高そうだ。

7月11日からの新宿帝國館での吉本ショウには大竹の名前もあり、横浜から戻ってきたことがわかる。
そして8月11日からの浅草花月劇場での吉本ショウの配役には、初めて「増田」の名前が見つけられる。
おそらくこのあたりの時期に、あきれたぼういずに参加したのだろう。

瀬川昌久『ジャズで踊って』によれば、9月8日からの吉本ショウ「中川三郎ハタアズ」公演の中で、益田を加えた四人が出演する「あきれたぼういず」が二景にわたって出演しており、これが確認できる最初のもののようだ。

川田義雄・芝利英・坊屋三郎・益田喜頓
いわゆるオリジナルメンバー、お馴染み四人の「あきれたぼういず」がようやく揃ったわけだ。

田添  その苦労が、あきれたぼーいずによって実を結んだというわけですね
川田  まだ実を結んだ――とまではいかないが、道は展(ひら)けた。希望が生れました。
芝    はじめて四人の意気が揃って、あの戦争ものを演った時は嬉しかったなあ…
川田  「進め!進め!」の時だろう
益田  嬉しかったよ
川田  あの時、第一回の舞台が済んだトタンにオヤジ(林弘高氏)が楽屋へ飛んで来て「大成功だぞ」と肩を叩いてくれた。嬉しくて涙が出た。

「あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号
今回までで第一部が終了。一旦区切りとなります。ざっくりしたまとめ図

【芸名やグループ名の由来】

本編が少し短いのでオマケということで、ここで芸名・グループ名の由来を。

川田義雄

…「義」の字は憧れのテナー歌手、藤原義江から頂戴したようだが、「川田」の由来についてはなぜか諸説ある。
①「川」は師であるカワベキミヲの「カワ」、田はカワベの本名「田中」から。
②「川」はテナーを、「田」はローカル・カラーを表す。
③女優、川田芳子のファンだったことから。

愛称は「ヨッちゃん」。あきれたのメンバーからは、年長者で先輩ということもあり「川田さん」と呼ばれたりしている。

芝利英

…フランスの名優「モーリス・シュバリエ」から。
シュバリエも元々はヴォードビリアンで、歌もダンスもできる稀代のエンターテイナーだ。フランスからアメリカへ移り映画で活躍、日本でも親しまれていた。魅力的な笑顔と、斜めに被ったカンカン帽がトレードマーク。

芝利英の正しい読みは「シバリエ」だが、「シバトシエ」「シバトシヒデ」と読まれたり、「光利英」と誤表記されたり散々である。兄の坊屋の本名が「柴田俊英(シバタトシヒデ)」なのも、一層混乱を招くところ。他メンバーからは「シバリエ」とフルネームで呼ばれているか、「リエ」と呼ばれている。

益田喜頓

…日本でも知らぬ人はいない映画スター、笑わぬ喜劇王「バスター・キートン」から。学生時代から彼の真似をして、「キートン」のあだ名を頂戴していたことは前に書いた通り。

なお、元々「益田キートン」だったのを戦争中に漢字の「喜頓」に改名させられた、としている文献もあるがこれは誤り。「益田」が「増田」「桝田」となっている表記揺れはあるが、下の名前は一貫して「喜頓」である。「キートン」表記にしたのは戦後の一時期(1950年頃〜)。愛称は「トンちゃん」。

坊屋三郎

…三男で、実家がお寺だから……というわけではなく、小柄で可愛らしかったことから学生時代のあだ名が「ボウヤ」だったそうだ。師匠の松山芳野里から「坊やとくればサブロウだよ、ゴロウもハチロウも似合わない」と言われ、下は三郎となった。

川田からは「ボウヤ」、益田からは「ボウヤちゃん」または「サブちゃん」、芝からは「兄さん」と呼ばれている。

グラン・テッカール

新居格の命名。フランス語で「大股歩き」の意味だそうだ。レヴューといえば踊り子の脚…というところと、一座が大股歩きで前進するように、という意味か。

あきれたぼういず

…映画「あきれた連中」が由来か。坊屋によれば、メンバーで六区をぶらつきながら考えた名前だそうだ。しかし林弘高が命名したという話や、吉本ショウ文芸部の中澤清太郎が一景のタイトルとして付けたのが元だという情報もある。
中澤の書いた台本には、「アキレタとは滑稽なとかおどけるという珍エスペラント語なり」との解説が付いていたそうである。(「昭和技芸伝・神と人と獣との間に――小説山崎醇之輔――」中島まさし/『政界往来』1981年10月号)
ボーイズ」はナカノ・リズムボーイズなどのようにコーラス団が名乗っていたので、ふざけたコーラス団というニュアンスだろう。カタカナ蔓延の時期だったので、あえてひらがなにしたそうだ。


【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
「ちょいと出ましたあきれたぼういず」坊屋三郎/『広告批評』1992年10月号より/マドラ出版
『ヨシモト 復刻版』/吉本合名会社/吉本興業/1996
「あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号/国際情報社
「関西発レコード120年(15)あきれたぼういず」山崎正/ 『神戸新聞』1997年12月9日
「昭和技芸伝・神と人と獣との間に――小説山崎醇之輔――」中島まさし/『政界往来』1981年10月号
『にっぽん民衆演劇史』向井爽也/日本放送出版協会/1977
『ジャズで踊って』瀬川昌久/サイマル出版会/1983
『吉本興業百五年史』吉本興業/ワニブックス/2017
「都新聞」/都新聞社


(7/23UP)あきれたぼういずの芸風について考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?