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私の昭和歌謡

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昭和は遠くなりにけり(おばあちゃんがいつも「明治は遠くなりにけり」って言ってたっけ)私も歳をとったもんだ。 でも、昭和歌謡を聞けば、そこに私の青春がよみがえるの。 だから、昭和人…
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#岩谷時子

私の昭和歌謡80   特版 八代亜紀追悼  この素晴らしき世界 1983

私の昭和歌謡80 特版 八代亜紀追悼  この素晴らしき世界 1983

ジャズもいい。歌手が一度は憧れる粋なアドリブ演歌の小節

八代亜紀さんが73歳で亡くなった。
ヒット曲はたくさんあるけれど、私が思い浮かべた曲は「この素晴らしき世界」だった。

X(Twitter)の9日にBlueさんがポストしていた。
(あっ自分と同じ曲で追悼してる人がいるんだ)
と驚いた。

確か、八代亜紀さんは「ジャズを歌いたい」って言っていたような気がする。

日本語歌詞は鈴木博文さんの作

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私の昭和歌謡71   逢いたくて逢いたくて 1966

私の昭和歌謡71 逢いたくて逢いたくて 1966

「でてきちゃう」可愛い言葉が歌詞にある嬉し恥ずかしでも口ずさむ

すごく可愛らしい歌を可愛らしい歌手が歌ったので、好感度が高かった。今でも。

どうして可愛らしいのか?

🎵涙が出てきちゃう🎵
🎵死にたくなっちゃうわ🎵

これを園まりの声で歌うんだから、参りましたよ。

園まりがこの曲をヒットさせた当時、彼女は決して色っぽいとか、セクシーとかいうタレントじゃなかった。

でも、清純派でもな

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私の昭和歌謡70  ほんきかしら 1966

私の昭和歌謡70 ほんきかしら 1966

鈴の音の声に聞き惚れ真似をしてほんきかしらと何度も歌う

島倉千代子さんは、人を全く疑わない性格なので、人に騙されてお金をむしり取られた。でも、なかにし礼によると、その何倍もの芸能関係者が彼女を助けたと言っている。

なかにし礼の「愛のさざなみ」は、またの機会に。今回は「ほんきかしら」を思い出そう。

千代子さんの声は、よく鈴の音のようだと言われる。本当にそう。ころころと高くひびく。のびやかに歌う

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私の昭和歌謡48 夜明けのうた 1964

私の昭和歌謡48 夜明けのうた 1964

カンツォーネはたまたシャンソン語るよう心に沁むは夜明けのうたよ

なんでこんな繰り返しの童謡みたいな歌を、父さんも母さんも叔父さんも叔母さんも「いい歌だー」と聞いたりするのか、小学生の私には理解できなかった。

この曲を私が認めたのは、66歳だった。
この年の秋、私はGISTの開腹手術をした。全く不安もなく「手術して2週間ぐらいで職場復帰」なんて、超アマアマな考えだった。

手術後、なんと、ヘタレ

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私の昭和歌謡42  弾厚作(加山雄三)と岩谷時子 

私の昭和歌謡42  弾厚作(加山雄三)と岩谷時子 

歌もよしスポーツもよし顔もよし若大将のようになあれ!

前回のラストショーに続き、またまた若大将。

加山雄三だったら「行きたい」と思うディナーショー。
30年以上前に行った。テレビで見るのと同じ爽やかさで十分満足する。

歌も上手で、スポーツもできて、顔もいい、性格がなによりまっすぐ。そんな若大将は、昭和の女性の憧れだったし、だから息子が生まれたら、そう育ってほしいと願っていた。ま、うまくはいか

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私の昭和歌謡20 恋の季節

私の昭和歌謡20 恋の季節

コーラスが歌詞を重ねる気持ちよさキラーズパートも続けて歌う

ピンキーとキラーズは、大柄な女の子今陽子がメインボーカル、男性4人がコーラスの、山高帽にステッキがトレードマークのちょい異色の売り出し方だった。

あとで、ソロじゃ売れないのでプロモーションとして、こんなアイデアを活かしたらしい。

1968年、デビュー曲「恋の季節」歌ったピンキー(今陽子)は17歳の若さだった。ピチピチしていて、ガリガ

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私の昭和歌謡17 君といつまでも

私の昭和歌謡17 君といつまでも

君がいて海とギターがあればいい幸せだなぁいつまでも

「若大将シリーズ」が始まった。

とにかく昭和は映画の時代だ。怪獣モノも好きだったけど、なんてったって、「みんなで歌える」挿入歌がある「若大将」は小学生にも人気だった。

「みんなで歌える」については以前書いた。
昭和の子どもにとって、流行歌はともだちと歌う喜びが1番だった。誰かが口ずさむと、それに合わせて次々に歌声が重なっていく。
歌い終える

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