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人種はみんな「老人」に向かう

「この番号のカラー、久しぶりに使ったんですよ」

カラーリングをお願いしたとき、よく通う美容師さんから言われ、

意外なような、やはりのような気の抜けた感じで

「へぇ やっぱり違うんですね」

そんな会話をしてた。

私の髪は暗い色をしている。


私の小さい時の周りの環境はこうだ

「日本語のしゃべれる外国人一家が越してきはった(どないしよー)」

ちなみに全員日本国籍です。

昭和のころ、京都の片隅はまだまだ外国人がめずらしかった。

まっかに日焼けし立体的な顔、優雅にカールした髪、とび色の目。

絵本で見た赤鬼の様な父が、流ちょうな関西弁で話す姿に、ご年配方はギョッとして会話はしどろもどろになっていた。


日本人成分があまり出なかった父のおかげで、私も、私の子どもまで蒙古斑がなかった。

それで、時々「どこの国が混じっているの?」と聞かれる。

面白いことに、「ぜったい純日本人じゃない(DNA的に)」という人と

「え?そうかな」と二種類の人が現れる。

それで私は、若い頃から

『どの部分を見て人は外国人なのかを判断しているんだろう・・・。』

と観察するようになった。


子どものころは、明らかに肌の色が違い、髪の色素も薄かったので100%判断されていたものが

思春期になり肌の色も変わってきた。

髪の色も暗くなってきて、この辺りから声をかけられる回数が減ってきた。

多くの人は髪の色や、肌の色で判断しているらしい。

でも色で判断する人だけではないのが面白いところ。

いい大人になってきても時々「ひょっとして・・・」と声をかけられる。

骨格が違うそうだ。

更に興味深いのが、韓国人の知り合いには見抜かれたのに、英国人の彼女の夫は「え?ほんとう?」と意見が分かれたところ。

アジア人同士だと微々たる違いがみえるのでしょうか。

冒頭の美容師は、ルーツを伝えると「やっぱり!」と自分の感覚が合っていたのが嬉しかったみたいで、

「髪質も髪色も(微妙に)違うんですよね」と話してくれた。


では、私たちはこの個性を持ったままお互い交わることはないのか

というと、そうでもなさそうだと私は考えている。


ある時TVで外国の老人が映っていた。

間違いなく年齢をかなり重ねられた風貌。

そこで私の『人の違いセンサー』が働く。

髪の色=色素が抜けて白く少なくなる 

肌の色=色素が薄くなり日に焼けたりシミが主張する

骨格=凹凸がゆるやかになり、耳や鼻などの末端が肥大している

あれ?近所でたたずんでいるお爺ちゃんと似ていない?


元の風貌を元に人は『老人』という人種に向かっている。

そこには男女などの性別もない。(性別らしさを出していたホルモンも止まって久しいからだろうか、人種らしさを作ってきた遺伝子が痛んできたんだろうか?)

何が言いたいかというと、私たちは「老人という同じ最終形態」に向かって進化していて、そこには外見による区別のないひとつの大きな世界が待っているのではないかと思うのです。

頂戴したお気持ちは。新しいストーリーを生み出す取材旅行に使わせて頂きます。