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嫌いな自分の中にある好きなところ

 僕は、自分のことがあまり好きではありません。

のろまなところ、人付き合いが苦手なところ、承認欲求が強いところ、容姿やその他もろもろ。

あんまり書くと気が滅入ってくるのでこの辺にしておきますけれど、もはや嫌いと言っても過言ではないくらいです。

以前はことあるごとにそんな自分の嫌なところを思い知らされて、その度にひどく落ち込んでいたのですが、最近ではそれが少しましになってきました。

深く落ち込めなくなったといいますか、気に病むのが長続きしなくなったような、そんな雰囲気です。

自分に優しく他者にも寛容でいたいな、といつからか思うようになったことをきっかけに、もう自分を責めなくてもいいのかもしれないと気づけたことも大きいように感じます。

今まで幾度となく自分を責めてきましたが事態が好転したことはまずありませんでしたし、むしろ余計につらくなってしまうだけでした。

かと言って自分ではない他者を否定したところで、やはりいいことは無いばかりか、そんな自分が嫌になってしまうという悪循環で。

だから今は、自分や他者を責めることはなるべくしないように気をつけています。

しかしながら、自分の嫌いなところは改善されることもなく依然としてそのままでして、そのせいで気分が沈むこともしばしば。

ありのままの自分が好き、などとはとてもではないですが言えません。

けれどそんな自分のことでも、1から100まで全ての要素が嫌いというわけでもなくて。

例えば、
白いごはんがおいしいと思えるところ
ほぼ毎日自炊しているところ
寝坊せずに起きられるところ
毎月貯金しているところ
小説が読めるところ
鉄道が好きなところ
カメラが好きなところ
電車の運転ができるところ
コメダ珈琲店によく行くところ
丁寧にものを扱おうとしているところ。

これ以外にもまだまだたくさん。

少なくとも、自分のそんな一面に関してだけは好ましいと思っています。

ただ何度も繰り返しますが、自分のことは嫌いです。
でも、これらの好ましい一面を持つ自分のことなら認められる気がするのです。

少し分かりにくいですか。

要するに、「白いごはんをおいしく食べるための特殊な訓練を受けた僕自身のことは、好きと言うにやぶさかではない」ということです。

なんのはなしですか。

冗談ですよ。お米が好きなだけです。

「○○ができている自分」や「□□に喜びを見出せる自分」のことは好きかも、と間接的にではありますが最近やっと自分を肯定できるようになりました。

そうしたら嫌いなところも、「まあ仕方ないか、これが僕だもの」とやや諦め気味に受け入れられるようにもなったのです。
気に病むだけ無駄、と開き直るときも。

直せるところはこれからがんばっていけばいいし、直しようがないところは目を瞑ることにします。

だってそれが僕の全てではないですし、いつまでも否定し続けていたら疲れてしまいますから。

いま振り返ると、自分を嫌っていたとしてもそれは純度100%の「嫌い」ではなく、単純に自分の好きと思えるところに意識が向いていなかったか、あえて向けまいとしていたのかなと。

だったら視点を変えて自分の好きなところに意識を向けてさえいれば、僕もそこまで悲観するほど悪いわけではなさそうだ、とそのうちに思えてきそうな気がします。

自分のことを必ずしも好きでいる必要はないのかもしれませんけど、嫌いでいるよりかはずっと生きやすそうなので。

今すぐは無理でもいつか、ゆっくり時間をかけてでも、ありのままの自分のことが「嫌い」から「どちらかといえば好き」くらいになれればいいな、と思います。




この記事の見出し写真は、一目惚れして購入した益子焼のマグカップです。

焼き物に興味があるところ、気に入ったものを自分の為に買ってあげられるところ。

そんな自分の一面もまた好ましく思うのでした。




ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。嬉しいです。🍀

みなさまの日常が「好き」で溢れますように。

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