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第3回THE NEW COOL NOTER賞エッセイ部門~8/30講評

第3回THE NEW COOL NOTER賞エッセイ部門へご参加いただいている皆様。

8月エッセイ部門の授賞発表もいよいよ明日となりました。
授賞者には、7月部門と同様、みこちゃんお手製の素敵なトロフィーが贈られます!

本日は、5つ講評を掲載させていただきます。
どうぞ、楽しんでいってください。

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<講評(ヒロさん)>

伝えたいことを 直接的な言葉で安易切り取ることなく 、描写を重ねて重ねて 重ねられた 染み入るように伝わる そんなnoteだと思いました。

うるうる くる方も多くいらっしゃるでしょう。

導入3行目に しっかりと書かれている。
彼は発言を恐れないのだ。
積極的に手を挙げるのが いつもの光景なのである。
ここが 読後と同時によみがえってきます。


主役はスピーチをする彼であり 彼ではなく 、級友たちでもあり 、自慢の子を持つ その親御さんたちでもあるよう伝わりました。
なにしろ彼がスピーチで そのように歌っているのだから そうなのである。
「自慢のクラス」 、担任さんは そのように胸を張るだろう。

"誰も通訳はしない。"
"助けない。"

"ただ待っている。"

クラス全員が美しい そう思いました。
幾度かの掛け合いを経て辿りついたのだろうか 、そんな風にも思いました。

少し音読に時間をかけようが 人生は長いから大丈夫 、そんなことを幼少で肌で知る子供たちが頼もしく伝わります。


いつものように彼の手が挙がる、ひとつふたつ間を置いて いつものようにゆっくり話し始める。
ネクタイ姿も作業着も どちらも似合いそうである。

"ボクの特技は 会話のテンポが柔らかな空間を作ること 、そういう仲間に囲まれていること" 、と嫌味のない照れ笑いで 、十数年前のクラスの ひとコマを重ねて語る姿が目に浮かびます。

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<講評(一奥)>

熏習、という言葉があります。
まるで香りが染み付くように、その人の体に習慣として染み付いた、文化的な遺伝子のようなもの。

自分自身が意識しなくても、それはあるいは家風という言葉にあらわれるように、または気質とも言われるように、身についているものがあります。
たとえそれが反面教師であったとしても――石から生まれた孫悟空ではない我々は、必ずどこかで、今の自分になるまでに接してきた人々の影響を、受けている。

「家族」とはその際たるもののひとつなのかもしれない、と気づきます。
直接会ったことが無いのに、しかし、自分を見ている誰かが時折、自分にとっては習慣となった当たり前の仕草の中に、別の誰かを見ている。

それは、自分を否定すること――とはまたちょっと違う、くすぐったいような、気恥ずかしいような、しかし不思議な感覚です。

あるいは遠い土地へ、習慣も生活も大きく、あるいは小さく微妙に異なる土地へ行った時に、それは産土(うぶすな)や異土と呼ばれるものを感じる源泉となるのでしょう。

身近だからこそ様々な愛憎が入り交じる家族に対して、無理に好きになれとも嫌いになれというものでもない。
しかし、その中で、そうした好悪を越えてつながっている部分がある。

そんな不思議さを、改めて思います。
遠き故郷、異土にありし我が身を、一奥もまた思いました。

常世田さん。
先月に引き続き、ご参加いただき、まことにありがとうございました。

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<講評(一奥)>

文鳥のアンとコロの可愛さが、文章からほのかににじみでてくるように感じました。
決してかわいさそれ自体を力説しているわけではないのに、たとえば、彼らに混じって自身をリーダーにたとえたりする中に、hummingbirdさんの優しさが溢れんばかりを感じます。

文鳥に心癒され、しかし彼らの社会に人間社会のそれとパラレルなる部分を見出して、癒やされる中に、まるで水鏡を覗き込むように自分自身の日々を振り返る。

あるいは、こうした動物と、ペットと触れ合うということはそういうことなのかもしれません。
様々なことが困難でありつつある昨今、直接、日々の様々なるを見つめ返すことはあるいは精神的に非常に負担になるかもしれない。

しかし、愛らしい動物に心をいやされながら、それを通して振り返ると、不思議と客観的かつおだやかに自分を見返すことができるのかもしれない。
そんなことに、気付かされました。

hummingbirdさん。
エッセイ部門へご参加いただき、まことにありがとうございました。

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<講評(一奥)>

まるで、それまでの人生でのあらゆる経験――ネガティブなものもポジティブなものも――が「そのこと」のためだけにあった、と思えるほどの邂逅があると感じます。
その時のために、私達は学び、あるいは鍛え、あるいは失敗をして己を振り返ってきた、と言っても過言ではないのかもしれません。

学ぶために、生まれる。
出会うために、生まれる。
そして、別れるために生まれてくる。

その中で、精一杯、声のあらん限りにできることをする。
時に灰色に見える景色もまた、その中に光の濃淡を知って、そして見えなかった七色の鮮やかさを見出すのもまた、私達の心のありようであると知る。

風乃さんの、そんなあらん限りの清涼なる叫び声が聞こえてくるようなエッセイです。
産んだからこそ、生まれたことを知る。
そしてさらに生まれくることを知る。

歩いてきたからこそ、歩いていく道先を思い、またついてくる者の道行きを見守ることができる。
そうして連綿と、私達は数百万年もの歴史を紡いできた。
その意味では誰もが先端であり、積み重なったものの上に立っている。

そんな当たり前の、しかし大切なことを、生まれ直して学び直す。
それが生きることだと気付かされます。

風乃音羽さん、このたびはエッセイ部門にご参加いただき、まことにありがとうございました。

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<講評(ゼロの紙さん)>

タイトルはずばり、誰もが思うこと。
ほんとうにエッセイってなんなんで
しょうと、コールandレスポンスしたく
なるような始まりです。

kesun4さんの世界観っていつも読ませて
いただく度に不思議な気持ちに陥るのです。

詩を書く時とショートショートやエッセイを
書かれる時。
どれもkesun4さんのお名前を隠していたと
したらどれもご本人だと思えないぐらい、
文体のキャラが違っていてその違いは何かと
いうと、読者への細やかな心配りではないかと
といつも感じるんです。

濃密な時間を描写しながら読み終わった後の
余韻が果てしなく流れるkesun4さんの詩。

そしてエッセイは、また違う表情を私たちに
みせてくれるのです。必ず笑いのツボが刺激
されるボケ&ツッコミが満載で。

マガジンで紹介されている「嫁様の話」は、
個人的にもかなり好きなエッセイばかり
です。

奥様との会話の中に見受けられるある種の自
虐的なエピソードを読者の方に披露している
ように見えて。これはまぎれもなく嫁様への
愛の賛歌、ラブレターのようです。

kesun4さんのnoteはいつも芸が細かい。

ご自分が書きたいことを絶対書くというスタ
イルも持ちながら、かならず読者の方にどう
届くんだろうということに目配りされている
その眼差しが好きです。

始めも終わりもエッセイって何ですか?って
綴りながらもkesun4さんにとってのエッセ
イ論になっているところも、なかなか読者サー
ビスに満ちていて。

読んでいる方々もわたしの書いているものっ
てエッセイだろうか?って自問したくなりま
す。

徒然なるままに、徒然と。
『徒然草』を引用しながら、これからも肩肘張
らずにエッセイを書いていこうという、kesun4
さんの意志は、読者にとってもエッセイを書いて
みたいなと思わせる誘い水になっているんだなっ
てそんなことを感じていました。

kesun4さん、エッセイとはという誰もが知りた
いエッセイ論を楽しく綴っていただきありがとう
ございました。

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*講評は分担制としているため、必ずしも応募順に講評結果が発表されるわけではございません。よろしくお願いいたします。

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応募作品はこちらのマガジンに収録されます。
 他の参加者様の作品もお読みいただき、ぜひ、当コンテストを通して新しく知り合い、また仲良くなった、との声をお聞かせください! 皆様の縁がつながるコンテストでありたく思います。

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