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ピアノを弾く手 (チャプター1)

  (・・・この手に今も残る柔らかな感触)

 男女を問わず、ピアノを弾く手を見ているのは気持ちのいいものだ。
少女であれば尚更のこと。
いま目の前で、その白くて柔らかな指が踊っている。

 厳密に言えば、向かいの席に座っている少女の指、電車の中。
松戸から一緒に乗り込んだその子は、腰掛けるとすぐに手提げカバンからバイエルを取り出し、その上で運指練習を始めた。
電車に乗り込む際、混んでもいないのに私の左腰に吸い付くような、その小さな体を感じていた。
どうも女の子に好かれるらしい。
そしてジョークだけれど、女性にはもて遊ばれる。
 昨日は飲み過ぎた。
 「風邪気味で熱っぽいので、様子を見てから出社する」
と、朝一に電話してあった。どうせ見た目は変らない。
もうそろそろお昼頃だろう。
時計は持たない主義だし、電車も来たものに乗る。
勿論携帯は持ってはいるが、いつも留守電状態だ。
どうせ掛かってくるのは、緊急を要しない話ばかり。
 「今度いつ来るの?」といった類い。
以前、勘違いして通った池袋の女、同じセリフを同時に二人の男に囁くことが出来る異能の持ち主。
これ以上通ってやる義理も無いのだが、心の無い恋愛(これは恋愛とは言えないな)も、それはそれで機能することを知った。

 その少女は、私が手を差し伸べれば自然と手をつなぎそうな雰囲気で、私と一緒に電車に乗ったのだった。
きっと、よそから見たら親子に見えたことだろう、そんな感じで。
 ん?と感じる間もなく、向かいの席にちょこんと座り本を広げたのだった。
こちらの意識は問題外のようだ。
いいだろう、レイディ。

 江戸川の流れがキラキラと涼しげだ。
外は春の日差しで、頬と両手に残る外気の冷たい感覚とのミスマッチ。
意識と感覚との相克、それはひとつの身体にある。
ぼんやりと向かい側の車窓越しに外を見ていると、その流れる川面を映し出す窓の下で、少女がこちらを見ているのに気がついた。
 「ニッっ」と笑って、何か言った。
もう一度、
 「○※♪▲☆!」大げさな口振りだなと思ったけれど、聞こえない。
こちらから、口だけで
 「なんだい?」
 「?」
 「な〜にー?」
彼女から、また大げさな口ぶりで
 「○※♪▲☆!」
やっぱり聞こえない。
しょうがないなと思って立ち上がろうとしたところ、少女は、隔てていた空間をスルリと通り抜けて、私の隣に飛び込んできた。
音もなく。
半身で私を見上げている。
ちょっと垂れた目は、チベット高原に隠された処女湖のようにキラキラと輝き澄んで、警戒心などどこにも無い。
その大きな瞳に映る私の姿が見えるくらいの距離で、何か言おうとしている。
前歯には矯正ブリッジがアクセント。
電車の揺れで私の懐に顔をくっつけそうになっているが、抱きつくのはまだ遠慮している。
さすがに少しばかり戸惑ったが、驚きを顔に出さないくらいの試練は積んできた。
(とても高い代償は払ったけれど)
その人懐っこくて可愛い顔と仕草に、
 「どうしたんだい?」
と、言いかけて気がついた・・・。
少女は声を持たないのだった。
意識と器官との相克、それはひとつの身体にあり。

先程来、何度も口を動かしているじゃないか。
それも大きな口の動きで理解してもらおうと一生懸命だった。
今度ばかりは、私の試練も役を為さなかったらしい。
曇った眉間に気がついたのか、彼女は何事か訴えかけながら、手提げからバインディングノートとペンを取り出した。
可愛らしい丸っこい字で、
 「オジサン、おどろかせてゴメンね、オジサンいいひとでしょ」とサッと書いた。
この40年間、様々に辛く悲しい出来事に遭遇してきたが、いつも何処かに神を信じて生きてきた。
それは宗教や思想にとらわれない、いわば私自身の生きる証だといっていい。
自分自身に自己の存在意義を証明し、そのことを納得する為に乗り越えてきたといっていいのだ。
この世界を影の側から構成している強大な力や、慈悲のない暴力などには非情に対処できるが、こんな小さな子供じゃないか。
忘れようとしていた、再び顔を持ち上げはじめた暗く邪悪な面の自分を押し殺して、そのペンを取った。
 「オジサン」の所を、わざと大げさに二重線で消し、
 「オニイサン」と書き込んだ。
少女はキャッキャと笑った。
いやそういう風に破顔した。
続けて、
 「もちろんオニイサンはいいひとだけど、ゴメンね、きがつかなくって」
 「で、どうしたんだい?」と書いた。
答えて彼女は、自分の名前をひらがなで
「としまユキ」と書いた。
手提げカバンには大きく『豊島ユキ』と名札が付いている。
もちろん見逃してはいない。


 (つづく)



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