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19歳の決断

私は哲学科卒である。ただし卒業までの道のりは決して平坦ではなかった。そもそも私は、入学前からややこしい事情に巻き込まれていた。今回はその話をしようと思う。

学歴主義の親の元に育った私は、小学生のころから大学進学だけはするように母から言われていた。となると当然、高校2年生辺りから進路の話が出てくる。以前にも書いたが、私は『ソフィーの世界』に感銘を受けて、大学で哲学を学びたいと思っていた。母はそんな私を許さなかった。彼女曰く、「あなたには英語の勉強をしてほしいの」。私はその当時ですでに、文学部でも海外文学系の学科と自分との相性がよくないであろうことを悟っていた。通っていた高校は普通科の中に様々なコースがあり、そのうちのひとつに国際コースがあった。当時の私は、国際コースの女子たちの陽キャぶりについて行けないと思っていたのだ。それで私は、やむなく哲学科も選べる私立の文学部をまとめて受けることにした。

18歳の春に桜は散った。受験は全落ちではなかったが、滑り止めの大学ふたつにようやく引っ掛かった程度だったのである。私は両親に浪人したいと申し出たが、かろうじて受かった某大学のドイツ文学部に行くよう、母は強く勧めた。嫌で仕方なかったが、彼女のあまりにも強硬な態度に私は折れざるを得なかった。

ドイツ文学部での生活は楽しくなかった。やっぱり周囲は陽キャだらけで、内向的な私はひとり浮いていた。ストレスのあまり、夏休みには水疱瘡にかかってしまったほどだ。

私は母を説き伏せてみることにした。すると彼女は、大学を退学しないならという条件付きで、再受験をあっさりと許した。そこから先は忙しかった。休学の手続きをし、予備校を探して入学手続きをして学費を振り込むという怒涛の事務作業が待っていた。1年間予備校に通った結果、現役のときよりも偏差値の高い大学の文学部に入学が決まった。しかも入学後に哲学コースが選べる大学である。私は電話で合格を知ったときに、思わずやったーと叫んでガッツボーズをしていた。

哲学科での日々は楽しかった。苦痛のあまり以前の大学にはまともに通っていなかった私は、要領が悪くて単位をいくつも落とした。それでも1年留年しながらも、無事に卒業することができた。留年した際、母に仕送りを半分に減らされてしまったが、それでも私はアルバイトをして家賃を自分で払っていた。

ふたつも大学に入ったことは贅沢だと思われるかもしれないが、それでも私は自分で進路を決めて実行に移せたことに、今でも誇りを持っている。ただし、世間の人は大学名にしか関心がないとアルバイト先で知って、かなりがっかりしているのも事実だ。

#自分で選んでよかったこと

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