「グリーン・インフェルノ」に見るアイデンティティ

グリーン・インフェルノを観た。
映画の内容はこんな感じである。アメリカの大学生人権サークルが南米で森林伐採に対する抗議活動をした帰り、学生たちを乗せた飛行機がアマゾンのお口で墜落してしまう。そして、その地に住む食人族(ヤハ族)に囚われ、彼らの村で一人また一人、捕えられた

我々の感覚からすると人間が同じ人間食べるのはグロテスクな行為に思える。だが、それは我々が人間であるというアイデンティティをもっているからなのかもしれない。我々が人間全体を自分の種とみなしているため、同じ種を食べるという行為に強烈な拒否反応を覚える。では、アイデンティティの範囲が極端に狭かったらどうか。

ヤハ族は文明社会との関わりを一切持たない非常に閉鎖的な民族だ。おそらく彼らのアイデンティティはあくまで所属する民族グループであって外界の人間に対して同族意識を持たない。

つまり、現代社会では、「自分」が「家族」や「日本人」といった共同体に含まれ、それを包括する「人間」という共同体に所属している。

一方、ヤハ族では、「自分」が「ヤハ族」にしか属していない。

すると、彼らの目線では山を駆ける獣も、川を泳ぐ魚も、森で捕まえたヒトも全部同じ「食べ物」に見えていると考えても合点がいく。

食べられる側の視点ではどう観ても食人ホラーだが、食べる側にとってはただの食事であり、ただの日常である。我々が寿司を食べるように、ヤハ族も人の刺身を食べているだけなのかもしれない。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?