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『いだてん』第34回 「226」

ラスト近くで息子小3が「なんか、最終回みたいだな」と言った。うんうん。そうなのだよ…なぜそうなのかというと…。あー。大人だから歴史を知ってるけど、大人だからネタバレを慎む。でも、ここは大人の場所だし、『いだてん』見てない人がほとんどだから(笑)、ちょっと書いてもいいよね?

昭和20年までの歴史は「いかに戦争を止められなかったか」の記録である。
昭和の戦争は長い。いきなり空襲が始まったのではない。まさかまさかと思ううちに破局まで行きつく経緯が『いだてん』からも見えてくる。ま、ほとんどの人が見てないわけだが(笑)。

アムステルダム五輪、ロサンゼルス五輪、そしてアジア初となる1940東京五輪の招致合戦。人々がオリンピックを楽しむ裏で時代の不穏さは増し、後世の目で見ると、ちゃくちゃくと戦争への布石が打たれている。

先週の第34話では、二・二六事件が描かれた。『いだてん』は “オリムピック噺” なので、その詳細な事情をやるわけじゃない。しかし時代の暗さ、そのとめどなさはよくわかる。

田畑のまーちゃん(私の阿部サダヲ)が勤める新聞社に決起軍が乱入する場面の怖さ、すばらしかった。

時代の不穏はある日突然、形となってあらわれ、それらは容易に私たちに刃を向ける。朝から晩まで毎日ガヤガヤと、笑いながら怒りながら真剣に働いている職場。その日常に我が国の軍隊が入ってきて、銃剣という武力を背景に、書類や資料や机いす、思い出の写真もすべて薙ぎ払っていく。

ドラマの作り手になにげに感心したのは、当時の決起軍が叫んでいた
「昭和維新」
という言葉をそのまま使ったところ。

本当に、言葉っておそろしいものです。決起に加わった若い兵隊たちはそれが「維新」だと本当に信じていたのです。
輝かしく威勢のいい言葉が人を高揚させ、走らせるのです。

私は、平成のいつからか「維新」という言葉が政治の舞台に再登場し、勇ましく清新なニュアンスで使われ始めたとき、何やらうすら寒い気がしてました。
今、大半の人は歴史の文脈を知らずに使って(聞いて)いるのでしょうが、言い始めた人間もまた歴史に無知なまま使っているのか、それとも知っていてわざと?

ほんとにね、参院選で立憲民主党が掲げたのが「令和デモクラシー」でまだよかったよw まあ、大正デモクラシーの挫折が昭和維新につながったとも言えることを思うと微妙だけど…。

閑話休題、
しかし
「昭和維新」と「1940東京オリンピック」とに、ある意味では、さほどの違いがあるだろうか?
と、先週の『いだてん』には考えさせられたのである。

そして、視聴者としては、1940東京オリンピックが 2020東京オリンピックに重なって感じられる。
(落語「目黒のさんま」との絡ませ方とかすごすぎて、ほんとクドカンの頭ってどーなってんだか!)

二・二六という、東京を戒厳令下に陥らせ、「言論の自由」を本格的に奪い去った事件を経てもなお、東京招致はすすめられた。
「やると決めたからには、ネガティブなことはもう一切言わない」とあらためて決意する田畑たち。

何かひとつを信じ、脇目もふらず、ぶれず、時に手段を選ばず突き進む。
それがすばらしいことなのかおそろしいことなのか、私たちは常に考えなければならない。

次回のサブタイトルは「民族の祭典」。
大人なのでそれだけでガクブルもんなんだけど、息子小3は『いだてん』にどこまでついてくるだろうか。

(すごく真面目に書いてみたけど実際は相変わらず爆笑しながら見てます。阿部サダヲ・・・ほんと最高!)


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