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『日本断層論 社会の矛盾を生きるために』 森崎和江、中島岳史

福岡に長くお住まいで(※)、昨年95歳で亡くなった森崎和江さんへのインタビュー本。福岡の諸先輩方はご存じの方も多いと思うが、私は「からゆきさん」や「まっくら」の著者……ぐらいのイメージしかなかったので、驚きの連続だった。

インターセクショナリティやジェンダー平等のような概念が横文字で輸入されるよりずっと前から、それらを自身の骨盤のようにして推進していた人がいたのだなと。

森崎さんは1927年生まれ。教員だった父の赴任先、植民地下の大邱(テグ)で生まれ、以降17歳まで朝鮮で育った。

戦時中に単身渡った日本には馴染めないが、敗戦後は当然朝鮮にも戻れない。日本に来て初めて見た遊郭や人身売買の様子にも衝撃を受ける。
父母は早く病死し、戦後8年も経たず、23歳の若さで自死した弟は、「僕にはふるさとがない。女は産むことができていいね。男は汚れているよ」と語った。

娘時代から、新しい命は両性の自由と平等なしに生まれないという確信があった。
学問の結果というより「両親の生き方を見ていたらそうとしか考えられなかった」。
「二人で産みたい」と伝えると、夫はそれを叶えてくれる助産師を探し出し、夫婦でひとつの布団の上、手を握り合って出産した。

自分の輪郭は朝鮮の大地と人々に育まれたものだが、朝鮮の人々にとって日本人である自分は侵略者・支配者だ。
性を搾取・売買され、みずからのもつセクシャリティを語る言葉をもてない女という性をもち、一方で、この時代に高等女学校を出たインテリジェンスでもある。

本格的に文筆活動を始める頃には、森崎さんは既にこのようにインターセクショナリティ(交差性)やジェンダー平等の概念を自らのアイデンティティとしてもっていたのだと思う。

彼女が関心をもちルポタージュしたのは、筑豊の炭鉱、暗い坑内で働く人々。博多の遊郭の女娼。「テキヤ」と呼ばれる露天商。
そして、長崎や熊本からアジアの各地に売られていった「からゆきさん」など、肉体を使って働き、方言を話して生きる人々だった。

メインストリームから遠く離れた周縁を生きる人々、その仕事や生活のリアリティを肌身で感じることで、祖国でありながら遠かった「日本」に自分を近づけていった。

「書いたものは脱ぎ捨てた自分の皮膚みたいで、人に読まれることはあまり意識していなかった」と語るが、近年、「まっくら」など過去の著作がまた話題になっている。

搾取される女性や炭鉱の労働者を、彼女は単なる被害者、ただ弱いだけの者としては書かなかった。
たとえばからゆきさんは性的な被害者だが、現地の人から見ると日帝(大日本帝国)の一員でもある。女娼の内部にも差別はあり、たくましく財をなす人もいた。
「弱者」というのも、マジョリティ側が貼った単純なレッテルなのだ。

彼女が出した雑誌の名前は「無名通信」。
創刊号には「無名にかえりたいのです」と書いた。

本書のインタビュアー中島岳志は、末端労働者や消費され踏みにじられる女性の性、複雑な差別や無縁など現代の問題を挙げ、森崎さんの仕事がこれらを考える手がかりになるという。

インタビューの時代背景である、昭和の民衆の歴史や社会運動についても随所に解説がある。
それらを読んでいると、つい昨年まで存命だった人の一生の間に起きた出来事が、どれほどのスピードで社会から忘れ去られていくかを痛感する。

植民地時代の朝鮮、学徒動員での工場労働、'60年代の安保闘争、石炭産業が斜陽になる中での炭坑労働者たちの労働争議、沖縄の本土復帰までの経緯、'80年代のウーマンリブ、成田空港建設反対の三里塚運動‥‥

40代の私ですら詳しく知らないことが山ほどある。
忘却への抵抗、つまり歴史を知るとは、現代を生きる人間が武器をもつことなのだとあらためて思う。

(※)
他にも驚きはいろいろ。
1930年代の大邱での思い出が書かれていたこと。大邱といえば、BTSファンにとっては、メンバーのシュガことミン・ユンギ氏が高校までを過ごした街、つまり聖地のひとつなのだ(笑)。

戦中戦後の福岡の様子も。福岡女子専門学校(今の福岡女子大)は当時、天神にあり、森崎さんは、田島の寮から通っていたという。田島寮って、私の大学時代、伝統ある九大の男子寮(だった)よ? もとは女子大の寮だったってことかな。

森崎さんが学徒動員で勤めていた工場では「震電」という戦闘機を作っていて、製図室に配属。そこでは九大の学生もたくさん働いていたが、彼らはみんな肺結核で出征できない男性たちであり、「非国民」と言われていた。
(森崎さん自身、そこで結核をもらい、戦後3年間佐賀の中原の療養所で暮らすことに)

空襲がないときにも、福岡の町の上を戦闘機が飛び回り、森崎さんも警固町で機銃掃射に遭ったそうだ。
「見上げたら、パイロットは一人で20代の男性。ダダダダダ―ってやりながらにっこり笑っているのよ。彼らにとってこれは遊びなのねと思った」

そして、めちゃくちゃ驚いたのが、1950年代、所帯をもった森崎さんが、一時期、高宮に住んでいたこと! 娘さんは、高宮カトリック幼稚園に通っていた、と書いてある。うちのかなり近所だよー。
大邱生まれ、高宮に在住だった森崎さん‥‥ユンギと私をつなぐラインがここに‥‥(違)

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