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インタビュー: ずっと踊っていたい~ 齋藤莉子さん(前)

バレエダンサー、齋藤莉子さん。
イギリス「ランベール・スクール」への留学を経て、現在はアメリカ、バージニア州にあるバレエ団に所属しています。
子どもの頃からさぞ将来を嘱望されてきたのだろうと思いきや、ご本人は「ずば抜けた才能はありません。昔から『ウサギとカメ』のカメみたいになりたいと思っていました」とのことで、びっくり。
ずっと踊っていたい、その一心でバレエダンサーへの道を歩んできた莉子さんのお話です。

聞き手: イノウエ エミ 
(2024年8月取材)


◆「バレエをやりたい」と一年間言い続けて

地元のバレエスタジオの発表会で。
「1人で舞台に走り出すドキドキとワクワクを今でも覚えています」

――バレエを始めたきっかけは何ですか?

きっかけは覚えていないんですが、4歳のとき自分から「やりたい」と言いだしました。実際にレッスンを始めたのは5歳です。

――ということは、始めるまでに約1年‥‥。

好奇心旺盛でいろいろやりたがる子だったので、最初は両親が本気にせずスルーしていたらしいんです。それでも私が1年間しつこく言い続けていたので、やっと体験レッスンに連れて行く気になったそうで(笑)

――では、親御さんはバレエの経験者や関係者ではない?

はい、まったく。周囲にもバレエのことを知っている人がまったくいなかったから、なおさら躊躇したのだろうと思います。
レッスンを始めてからも、すぐやめるのではないかと想像していたそうです。
可愛い衣裳や華やかなステージにあこがれてバレエをやりたがったのだとしたら、地味で地道な普段のレッスンに幻滅するだろう、と。

――ところが、ご両親の予想は当たらなかったんですね。

幼稚園の卒園式で、証書をもらったあと自分の夢を発表する流れになっていて、そこで恥ずかしげもなく「バレリーナになりたいです」と言ったのを覚えています。

――その夢を叶えたのですね! 今日はぜひその道のりをお聞かせくださいね。 
13歳のときには、既にNBAバレエ団付属のバレエ学校でエトワール選抜クラスに在籍されていたそうですが。

最初は地元の教室に通っていて、小学4年生頃からそちらの本部にも通うようになりました。電車とバスを乗り継いで通い、夜遅いときは父に迎えに来てもらって、帰りの車の中でごはんを食べるような生活でしたね。

NBAの選抜クラスに入ったのは、日曜日にレッスンを受けるためです。
もともと通っていた教室は日曜日がお休みだったので。

――え、それでは週7日、つまり毎日レッスンを受けていたんですか?
莉子さんをそんなにもバレエに惹きつけたものは何だったんでしょうか?

ただただ踊るのが好きだったんだと思います。
小さい頃は「お姉さんたちのようにトウシューズを履いて上手に踊りたい」と思い、10歳くらいになってトウシューズを履けるようになると「もっと履きこなしたい」、「もっと練習して良い役をもらいたい」という感じ。
でも、今思えば「将来バレエダンサーになりたい」という思いは、漠然とながらずっと昔からもっていたと思います。


◆ ダンス部で仲間たちと奮闘

ダンス部、新人戦大会でのラストポーズ。右が莉子さん

――バレエの道をまっすぐに歩んでいた莉子さんですが、なぜか高校で一転、ダンス部に‥‥?

踊りの幅を広げたいという思いがあって、すてきなダンス部がある高校を受験、入学しました。

―― 一見、遠回りのような道を選んだんですね。若い頃の2,3年はとても長いものだから、すごい勇気だと思います。
しかも、その高校のダンス部は、毎年地区予選を勝ち進むような強豪校だったとか。

そうなんです。部の中では、最初は落ちこぼれだったと思います。バレエのクセがどうしても出てしまって。

――というと、たとえば?

バレエは基本的に姿勢をまっすぐ保つけれど、ダンスでは「アップ・ダウン」のようなリズムの取り方があったり。
膝も、バレエでは伸ばしているか曲げているかはっきりしていますが、ダンスでは微妙なニュアンスがあったりして、私がやると、なんだかすごく運動神経が悪そうに見えていたというか‥‥(笑)

――ぎこちなく見えるんですね。踊りのジャンルが全然違いますものね。

なので、朝練や自主練に積極的に出て練習を重ねました。
周囲の支えもあってなんとかついていけるようになり、チームは練習の成果が出て、新人戦では東日本大会のトップ8、夏の選手権では地区予選を勝ち抜いて全国大会に出場することができました。

――すばらしい成績です!

一緒に長い時間を過ごす中でたくさんのことを学びました。私にとっては初めての団体競技。仲間と支え合い、一緒に喜び合った大切な経験です。


◆ バレエへの情熱はつづく

有明ニューシティバレエスクールのヴァリエーション発表会、本番前に。
ヴァリエーションとはソロの踊りで、
「みんなそれぞれ自分が踊るヴァリエーションの衣装を着ています」

――部活でダンスに打ち込んでいる間、バレエはお休みしていたのですか?

いえ、完全にゼロにはせず、続けていました。
夏休みや大会前などダンスの練習が増える時期は、スーツケースを引いて練習に行って、そのままバレエのレッスンに向かうこともありましたね。

――練習のハシゴ! なんてハードなんでしょう!

若かったからできたのだと思います(笑)
当時、両親は、このままバレエはフェイドアウトしていくんじゃないかとも思っていたようです。それまでバレエだけに向いていた情熱が、ダンスなど他のことにも向くようになっていたので‥‥。

――ところが、実際はフェイドアウトどころか。

3年生の夏、ダンスの大きな大会が終わったあと、またバレエに戻りました(笑)

――ですよね(笑)

とにかくたくさん練習したくて、夏休みは一人でいろいろな体験レッスンに行って、良いスクールを探しましたね。

有明ニューシティバレエスクールのプロコースに決めたのは、一番レッスン量が多く、自分が成長できると思ったからです。

――やはり、そんなにもレッスン量が必要なのですね。「プロコース」ということは、高校卒業後はプロの道に進むつもりで?

いえ、海外でも踊りたいと漠然と思ってはいましたが、当時はとりあえず附属の大学に進学するつもりでした。

――小さい頃から、親御さんには勉強もおろそかにしないよう言われていたそうですね。

はい。バレエはどこまで続けられるかわからないものなので、「しっかり勉強したうえでバレエをする」と約束していました。
自分は続けたいと思っても、たとえば怪我で断念しなければならないようなこともありますから。

――なるほど、それで勉強も続け、大学に進学してレッスンに励んでいたのですね。


◆ コンテンポラリーダンスとの出会い

有明ニューシティバレエスクールでは、曜日ごとに違う先生のクラスを受けて、多角的なアドバイスをもらうことができました。
普段のレッスンの他にも、コンテンポラリーやキャラクター、パドドゥやヴァリエーションなど多彩なレッスンがあり、さらにオープンクラスやジュニアのクラス、日曜特別クラスなど、たくさん練習ができるのがありがたかったです。

――望んだとおり、毎日たくさんのレッスンを受けられたんですね。特に印象的だったものはありますか?

コンテンポラリーダンスです。
有名なローザンヌ国際バレエコンクールでもクラシックバレエと並んで必須になっていますが、私はそれまで習う機会がなく、有明で初めて出会ってその楽しさに魅了されました。

――どんなところが魅力的なのでしょう。

振付や表現方法が自由で、踊っていてとても楽しいんです。ダンス部でやっていたような動きやリズムの取り方を活かせるのもうれしくて。
コンテンポラリーの中にもいろいろなジャンルがあり、先生からは、スローな踊りや反対に速い踊り、ダンス寄りのもの、バレエ寄りなど、幅広く教えてもらいました。お手本の踊りもすごく上手で、あんなふうになりたいとあこがれていました。

――先生も魅力的な方だったんですね。

のちに私がイギリスのランベールスクールに留学したのも、この鈴木竜先生との出会いが大きかったと思います。先生はランベールスクールの卒業生なので。


◆ 「好きで努力し続けられるのも才能だと思う」

――有明ニューシティバレエスクールはすばらしいレッスンが受けられる環境ですから、優秀な生徒さんが集まっていたでしょうね。

著名なコンクールで上位に入賞したり、スカラシップ(※)をもらって海外に行ったりする人たちもいましたね。
まわりがどんどんチャンスをつかんでいく中で、自信を失って、自分が踊るバレエが嫌になってしまった時期もありました。

(※スカラシップ‥‥海外のバレエ学校に入学できる権利。奨学金等が出る場合もある)

――つらいですね。どのように気持ちをもちなおしたんでしょうか。

あるコンクールが終わったあと、1,2日練習を休んでみたことがあります。
そのときは、自分が踊るバレエが嫌になったのか、それともバレエそのものが嫌いになってしまったのかすらわからなくなっていて‥‥。
でも休んでみると、バレエが踊りたくてたまらなくなったんです。

――たった1,2日で!

はい(笑)。やっぱり踊っていないとダメなんだ、と気づきました。踊らないほうがストレスがたまる。私はずっと踊っていたいんだ、と。

――自分で自分の本心にたどりついたんですね。ご両親は心配しながら見守られていたことでしょうね。

母には「厳しい世界だから、相当な才能をもった人でなければこの先は難しいんじゃない?」というようなことを言われたことがあります。

そのとき、「私には踊りの才能はそれほどないし、骨格や体型に恵まれているわけでもない。でも、バレエが好きで、努力し続けられるのも才能だと思う」と返したらしいんです。自分では覚えていないんですが‥‥(笑)
それで、母は返す言葉がなかったそうです。

――心配しながらも、莉子さんの強い意思に打たれたのではないでしょうか。下世話な話かもしれませんが、バレエのレッスンは時間も費用もかかるもの。ご家族の理解やサポートが欠かせませんよね。

ほんとにそうです! 両親や祖父母など周囲の応援で支えてもらってきました。すごくお金がかかる娘だったと思います。「バレエをやっていなければ、うちはすごいお金持ちだっただろうね」と話しているくらい‥‥(笑)
家族には本当に感謝しています。


◆ 海外へのきっぷは突然に

――ご両親以外にも相談相手はいましたか?

はい。スクールの校長、池端幹雄先生です。
踊りに関する相談はもちろん、進路のことや、自信をなくして気持ちが迷子になったときにもアドバイスをもらってきました。

――校長先生もかつてバレエダンサーとして海外各国で活躍された方なんですね。

はい。先生のお話を聞きながら、それまで漠然としていた「海外で踊りたい」という夢が具体的になっていきました。
卒業後も時々連絡をとり、的確なアドバイスで進むべき道へと導いてもらっています。頼れるバレエ界の大先輩ですね。

――その後は大学を休学して、ロンドンのバレエ学校、ランベールスクールへ留学されます。こちらはどのような経緯で?

直接のきっかけは、東京で開催されたランベールスクールのワークショップ兼オーディションです。ランベールの先生が3人ほど来てくださって。
私は外部のワークショップに参加したことがほとんどなく、有明の幹雄先生に「良い機会だから気張らずに楽しんできなよ」と背中を押され、両親にも「楽しんでおいで」という感じで送り出されて参加しました。
過度な緊張感はなく、比較的明るい雰囲気でしたね。

――そこで入学許可をいただいたんですね。

はい。急に決まったので、大学を休学し、あわただしく準備をしてロンドンに向かいました。

(後編につづく)

後編では、海外で踊り始めた莉子さんの軌跡をたどります。
留学先のイギリス、キャリアを模索したドイツ、そして現在のカンパニーがあるアメリカへと、舞台を変えながら続く夢のお話。どうぞごらんください。


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