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インタビュー: 生まれ故郷より長く福岡に暮らして ~ 王貞月さん

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市内いくつもの大学で中国語の講師をつとめながら、女性学の研究をしている王さん。いつもパワフルで明るい先生です。
けれど、言葉もわからないまま始まった日本での生活では、大変なこともたくさんあったのではないでしょうか? 
1990年に来日してもうすぐ30年。王さんのライフヒストリーをうかがいます。
聞き手: イノウエ エミ
撮影 : 橘 ちひろ
(2019年10月中旬取材)

◆ ちょっと落ち込んでいます

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今、落ち込んでる時期なんですよ。

―――ええ? どうして~?

日本に来て、来年で30年です。なのに私の日本語はまだまだ…。赤ちゃんだって、30年経ったら完璧な日本語を話しますよね。

―――それは母語だからでしょ。私なんて日本語以外なんにもしゃべれないですよ~。

時期によるんですよね。だいぶ上達したかなぁと自信をもつ時期と、やっぱりまだまだだなぁと気づく時期。

―――日本語は母語話者が圧倒的に多いですものね。私たちネイティブスピーカーが必要以上に高いハードルを作ってしまっていると思います。

そうですね、たとえば海外なら、いろんな国の人が英語で話します。ちょっと文法が間違っていてもコミュニケーションがとれればOKです。心のこもった言葉は人の心に響きますから。

―――私には王さんの言葉がいつも心に響いてますよ。

◆ 台湾での少女時代。先生に筆箱を…

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―――王さんのルーツを少し教えてもらえますか?

曾祖父の代に中国の福建から台湾の台南に移り住んできました。日本が台湾を植民地にしたのが1895年ですから、それより前のことです。

私は6人姉妹の2番目。当時の台南はすごく保守的で、男の子を生まなきゃいけないというプレッシャーがあったんですよ。結局、6人全員女の子でしたが。

―――子ども時代、長い反抗期を過ごしてらしたとか。

小学4年生のとき、すでに先生に反抗していました(笑)。台湾は当時、ものすごい成績至上主義。席順も成績で決められるんです。一番の人から前列に座る。成績の悪い子は後ろのほう。おかしいでしょ?

―――後ろのほうに座らされる子は傷つきますよね。

期末テスト6科目で600点満点をとったのが6人。その中に私も入っていたけれど、「一番前に座りなさい」と言われて筆箱を投げました。

―――す、すごい。そのころから正義感が強かったんですね。

中学校は成績でクラスが分けられるし、高校なんて、先生は成績が悪い子の答案をビリビリに破ってごみ箱に捨てちゃう。みんな、ゴミ箱から拾って貼り合わせて勉強していたんですよ。

―――ひどい! でも王さんは、ずっと良い成績を取っていたんでしょう?

ええ、だけどそういうやり方はすごくおかしいと思っていました。今では台湾もずいぶん変わりましたよ。

◆ 言葉の壁は高かった!

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王さんは日本でいう高専のような学校へ進学。薬学を専攻し、薬剤師の資格も取得します。その後さらに大学に編入、卒業後は台湾中央研究院へ。ショウジョウバエの遺伝子組み換えの研究をしていたそうです。当時の最先端ですね…!

台湾中央研究院での研究は、留学の準備という意味合いが強いんです。そこで実績を積んで、推薦状をもらって留学するんですね。

―――王さんも留学で日本へ?

いえ、私にとって、日本に来たのは人生の想定外(笑)。結婚がきっかけです。

私の母は、女の子も自分で生計を立てることが大事だと言って勉強を応援してくれました。でも本心では結婚もしてほしい。女の子は、学歴が高くなると結婚から遠ざかる傾向にあります。そのうえ留学すると年齢も上がって、ますます結婚が難しくなる…。

だから、研究と並行して毎月お見合いをしてました。ある意味、親孝行ですね(笑)。

―――では、そうやって夫さんと出会って…。

それが違うんです(笑)。夫は後輩のお兄さん。彼は日本に留学しようと、ずっと日本語を勉強していました。私はアメリカに行くつもりだったんですけど、結局、一言もしゃべれないまま日本に来ちゃった(笑)。

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「研究の文献はすべて英語だし、論文も英語で書くから何とかなるかな。日本語も、漢字を見たらわかるでしょ」なんて思ってたけど、考えが甘かったですね。
言葉が通じないって本当に不自由なんです。歩けるけれど道がわからない。わからないけど聞けない。うまく表現できない。

娘が病気になって病院に行っても、受付さえできないんです。じっと待って誰かを捕まえて、「王貞月ってカタカナで書いてもらえますか?」と頼んでいました。

―――日本でご出産されたんですね。

はい。前置胎盤で、とても危ないと言われました。でも若いから全然知識がないし、日本語もわからない。胎盤が「台湾」に聞こえてたぐらい(笑)。
夫が病院で先生から聞いた話を一生懸命ノートに書いて、家に帰ってから調べて…。

結局、長期入院になりました。最初の一か月はずっと泣いていましたね。
でも、転んでもただでは起きない(笑)。入院中にほかの入院患者さんたちに日本語を教えてもらって、だいぶ話せるようになりました。


◆ 研究に打ち込む日々の果てに

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―――妊娠出産の間、研究はお休みしていたんですか?

いえ、日本に来たとき、すでに妊娠がわかっていたので、研究室をたずねても「産んでから来なさい」と言われました。だから、九大の大学院に入ったのは出産後です。

娘を保育園に預けて研究していましたが、修士論文の大詰めのころ、ほとんど死ぬ寸前に…。

―――ええっ?

生きたシビレエイから電気器官のシナプスを取り出して、細胞を取って実験していたんです。4度以下のクーラー室に入って、朝6時から夜12時まで。

―――自分が凍っちゃいそう!

本当に寒くてたまらない。だからガマンできないときは外に出て、たくさんジャンプしてから、また入るんです(笑)。
そんなことを続けていると、体を壊しますよね。高熱が続く中、薬に頼りながら論文を書いていましたが、論文の提出前…お正月に倒れてしまって救急車で運ばれました。
まわりの人が「死んじゃダメよ!」と叫ぶ中、2歳の娘は呆然としていたそうです。

結局、私は修士号をとったものの研究を離れ、彼だけが博士課程に進みました。

―――体が回復したあと、戻ろうとは‥?

研究室の先生が東大出身で、東京に戻ってしまって。ほかの人は先生について東京に行きましたが、私には夫も子どももいるし、行けないでしょう? それに、私の研究は計画的に実験を続けなければならなくて、一度離れると戻りにくいんです。3年後、夫が博士号をとったら台湾に帰ろうと思っていましたしね。

夫が博士課程に進んでからの3年間は、私は日本語の勉強に励みました。日本語ができれば、何か仕事に生かせるかもしれないと思って…。
留学生でお金がないから、無料で教えてもらえるところを探してがんばってましたね(笑)。

あのまま研究を続けていれば、と思うこともあります。でも、どんなに自分の仕事が好きでも、母親としての役割を考えてしまうんですよね。


◆ 「ママは勉強してないのに、どうして?」と言われて

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―――その後、息子さんのご出産も経て、文学部に入られたんですよね。

本当は、娘が小学校に入る前に台湾に帰るつもりでした。
家では中国語で会話するのでしゃべるのは問題ないけれど、読み書きのためには台湾の学校で勉強しなきゃと。
でも当時、夫の専門分野はなかなか学位が出ないシステムで…。海外では学位がなければ就職できないんです。学位がじゃまして就職できない日本とは反対ですね(笑)。

決断を迫られましたが、彼の仕事がこちらで見つかったので、こうしてずっと日本にいます。

私がまた大学院に入ったのは、小学一年生だった娘に言われたから。
「どうしてママは私に勉強させるの? 自分は勉強しないのに」って。真実ですよね(笑)。

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―――再び大学院に入られて、今度は何を?

シャーマニズムです。シャーマン(祈祷師)と民俗医療の研究をしていました。

―――それはまた、まったく違った研究ですね~!

きっかけは、当時のオウム真理教の事件です。
人は心の穴を埋めるために信仰を求めるのだと思います。
私も、言葉の不自由や文化の違いなどでつらい思い・虚しい思いをしてきたので、その心境は想像できます。

でも、あの教団にいたのはものすごく賢い人たちですよね。薬学の知識があるのでわかるんですが、サリンを作るって本当にすごい技術なんですよ。
それほど賢い人たちが抜け出せなかったのはなぜ? 途中でおかしいと気づいただろうに…。そんな疑問から、信仰にかかわる研究を始めました。

シャーマンについて調べると、そのクライアントは多くが女性なんです。どうしたら夫婦関係が良くなるか、どうしたら男の子を産めるか、子どもの問題…。そういう悩みは女性の問題と大きな関係があります。日本のスピリチュアルカウンセラーもそういう相談を受ける存在ですね。

王さんはシャーマニズムの研究で博士号をとられています。著書はこちらです! 
https://www.amazon.co.jp/台湾シャーマニズムの民俗医療メカニズム-王貞月/dp/4903316238


◆ 誰も犠牲にしない社会を

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―――今は、市内の大学で中国語を教えるだけでなく、女性学・女性の政治参画について研究や発信をされていますね。

シャーマニズムの研究で女性の問題について考えるようになりました。私自身もそういった問題を経験してきて、これを解決するにはやっぱり制度からだと思ったんです。選挙を始め、制度を変えていかなければ。

台湾では、「ろうそくの両端に火がついている」という表現があります。仕事も家庭も忙しすぎる女性を表しています。日本もそうですよね。活躍しすぎて過労死しちゃう。

―――ジェンダーギャップ指数(男女の格差)では、台湾はアジアでもっとも高い順位(=男女の格差が少ない)ですよね。日本はかなり遅れてしまってる。どうしてこんなに差がついてしまったんでしょう。

台湾人には危機感があるんですよ。私たちが若いころはずっと戒厳令の時代で、自由というものがなかった。だから自由の大切さが身にしみています。今の若者には戒厳令の経験はありませんが、自分たちがちゃんと守らなければ失うかもしれないと常に思っていますね。

日本は、自由を失う寸前にならないと、なかなか変われないのかもしれない。

―――日本は戦後、ずっと平和を享受してきましたものね。

これまでの日本社会は、誰かを犠牲にして成功してきたと思うんです。専業主婦が家を守り、男性は戦士のように働いて…。

―――企業戦士ですね。

国のため、会社のため、一部の犠牲は仕方がないという考えだった。また、途上国の犠牲の上に先進国の安定が成り立っていました。
でも、どちらもおかしいでしょ? 誰も犠牲にしない世界にしなければ、今後は立ち行かないですよね。価値観を変えないとね。

―――どこから取り組めばいいでしょう。

難しい(笑)。でも、コツコツがんばらないといけないでしょうね。

親子で話すことも大事だと思いますよ。うちの娘は3歳のとき、「私は台湾人だけじゃない。地球人だから」と言ったんです。私、頭をがつんと殴られた気がしました(笑)。


◆ 夫婦で共有し、まわりに支えられて

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―――長いこと日本に暮らしていて帰化もされていますが、今もマイノリティだなと思うことはありますか?

ありますよー! 私、どこに行ってもパスポートを要求される(笑)。
ここで生まれ育って日本語の上手な息子も、名乗っただけで「うちのマンションは外国人には貸せません」と断られたり。名字だけで判断されるんですよね。

―――あきらめたり、相手を許してあげなければならないことが、私たちよりたくさんあるのでしょうね…。

もちろんそうです。日本で生活するうちに、相手の背景を考える習慣が身につきましたね。どんな反応をされても「どうしてこういうことを言うのかな?」と考える。

黙って泣き寝入りはしないですよ(笑)。責めるのではなく「こういう価値観もあるんですよ」というふうに話しますが。

―――大変な経験もいろいろあったと思いますが、王さんはいつお会いしても本当に元気ですよね。

たくさん泣いてきましたよ。悔しいときは思いきり泣きます。とことんまで(笑)。

でも幸いなことに、私たちは夫婦で悩みを共有できたんです。言葉の不自由にしても、文化や価値観の違いにしても、同じ問題に直面してきた。二人とも研究者で、大学に勤めているしね。
だから、お互いに慰め合ったり、カバーできる部分があったんじゃないかな。

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そして、まわりのみなさんのあたたかさのおかげだと思います。気がつけば、生まれ故郷よりずっと長く福岡に住んでいます。まわりの人に恵まれなければ、こんなに長くはいられなかったと思うんです。

だから、恩返しというと大げさだけど、私もみなさんにお返ししていきたい。せめてこの福岡の人たちに。今の研究は、その気持ちとも結びついているんですよ。女性がもっと幸せになれば、みんなが幸せになれると思いますから。

(おわり)

編集後記

王さんはいつも明るい。そしてとても優しい。その理由がわかった気がします。いろいろな経験を乗り越えてきたことが王さんの強さと優しさの源になっているのですね。勉強量もすごい! 勉強は大事ですね。
天神中央公園の貴賓館で撮った写真。年月が人を美しくするのだとしみじみ感じます。もちろん、王さんらしいおちゃめな笑顔の写真もすてきです。
(イノウエ エミ)

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