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短編小説『二つの黒子』


 目が覚めるのとほとんど同時に、僕は彼女の右足のことを考えていた。記憶が確かであれば、彼女の右足の太腿には2つ並んだ黒子(ほくろ)がついている。2つの黒子はちょうど真ん中で皮膚を折り返したらぴったりと重なるであろう、均一な形と大きさをしていた。

 急に彼女のことを思い出すなんて、夢でも見ていたのだろうか。眠っている間に自分が見ていたはずの何事かを思い出そうとしたが、当然に徒労のうちに終わる。
 もやもやとした中で寝返りを打った。カーテンのない窓の外を眺めると、もう夏がやってきている。まるで眠っていた僕を監視していたみたいに、電線で羽を休める鳩が2羽こちらを見ていた。しかし僕が彼女たちの方を見るとすぐに目を逸らされてしまう。時計を確認すると2本の針が午前4時を示していた。アナログ時計が指し示す午前4時の形を見て、なんとか彼女の黒子も午前4時を告げるようにはならないかと考える。だがすぐに、それができたとして果たしてどんな意味が生まれるのだろうと考えてやめた。

 少し前までは同じ朝の4時に起きても太陽の気配を感じることさえできなかった。だが今ではもう、外が薄青い光に包まれていることが確認できる。
 朝の光と空気の匂いは、僕にいつも故郷のことを思い出させた。故郷の街は東北にあり、四方を山に囲まれていたせいかいつでも木の匂いがした。それは酷く非現実的で頼りないが、そのかわり特別に美しい匂いだった。
 故郷では朝日が必ず山の裾から顔を出し、夕日は必ず山の影に沈んでいく。そんな田舎で彼女と出会ってしまったからこそ、僕は世界がまだ生活の気配に満たされる前の朝に必ず、理想を実現している女性としての彼女を思い出すのかもしれない。

 彼女と同じクラスになったのは、つまり僕が彼女のことを初めて目撃したのは、高校2年の春のことだった。
 彼女はクラス中の男子の、いや、恐らくほとんど誇張などなく、学校中の男子の視線を一身に集めていたと言って過言ではないだろう。例えば体育祭で彼女がリレーの選手として、野生の鹿のようにその長い足を目一杯使って軽やかに駆けたとき。或いは文化祭で彼女が西洋のスターの如く、友人たちを従えて煌びやかにバンド演奏を(彼女は勿論ボーカルを務めていた)したとき。
 あらゆるタイミングで学校中の男子の目は、彼女の透き通る白い肌にのみ注がれていたはずだ。

 彼女が好きだと話した漫画、音楽、映画の全てを当時同じクラスだった男子に限らず、学校中の男子が皆んな観たし、彼女のあの笑顔を見れば誰もが彼女のあらゆる失敗や暴力を許した。

 ーーそう、暴力。

 彼女は非常に暴力的な女の子だった。それは何も、身体的なものに限らない。彼女は自らの美しさに非常に敏感だった。だからこそ、自分が何をしても、何を言ってもきっと許されるであろうことを理解していた。
 ひょっとすると、彼女と同学年の男子で彼女に苦い思いをさせられなかった男子生徒など、ただの1人としていないのかもしれない。

 もし仮に、そんな彼女の好きなところを1つだけ語ることを許されたとしたら、僕はやっぱり彼女の右足に並んだ2つの黒子について語るだろう。彼女は無論、その顔立ちからして美しかったが、顔の美しさは所詮見せかけに過ぎない。だが彼女の右足の美しさはある種小説的な美しさを孕んでいたのだ。
 彼女は右足の黒子でもって常に、世界が2人の人物のインタラクティブな関係によってのみ理解し得ることを、蠱惑的に語りかけてきていた。



 枕元のスマートフォンを手にする。スマートフォンは何の目印もない真っ黒のケースに収められていた。裏返してロックを解除すると音もなく色とりどりのアプリたちが映し出される。
 その中から僕は迷うことなく1つのアプリを起動した。水色のアイコンをしているアプリには、僕が勝手に鳩だろうと思っている鳥が描かれている。アプリを起動すると水色の画面を背景にその鳥が映し出され、すぐに拡大されると次の瞬間にはタイムラインが姿を現す。

 僕は1人の女性と連絡を取り合うためだけに、このアプリを使っていた。

「おはよう、昨日もたくさん楽しんだみたいだね」

 タイムラインにはただ彼女の呟きがいくつも映し出されている。そこにすぐさま僕の(彼女しかフォローしておらず、誰からもフォローされていない)アカウントの「おはよう」という呟きが反映される。
 この時間帯にSNSを開くと、決まって彼女は前の日にあった素敵な出来事たちを写真と共に呟いていた。それは例えば数人の友人と華やかなバルで女子会をしていることだったり、盛りを過ぎた歳上の男性に連れられて訪れた割烹での小綺麗な料理だったり、或いは恋人でもない男と訪れた夜景の綺麗なbarの様子だったり……。
 彼女の毎日を一瞬とて逃すことのないよう、僕は毎日投稿を見ていた。だがこのアプリはお互いに返信を強要するものではないから、僕がもし昼間に呟いたとしても彼女は大勢の友達の呟きの中から僕のことを見つけられないかもしれない。そして見つけられなかったからと連絡を面倒くさがってしまうかもしれない。だからこそ僕は、彼女が眠りにつく直前の、彼女の目に僕の姿が最も入りやすいであろうこのタイミングで、毎日呟くようにしているのだ。

 お互いの生活を覗き見し、また2人が恋仲にあることを公にできるというメリットがある反面、そういった点がこのアプリの面倒くさいところだった。

 今朝の彼女はホテルのbarに行った写真を公開していた。
 以前とは別の男といるようだ。彼女は美しい。美しいから彼女の周囲には羽虫の如き男たちがいつでも飛び回っている。お世辞にもカッコいいとは言えない僕の容姿が気に入らない彼女は、いつでも自分に相応しい見た目の男をアクセサリーとしてSNS投稿に利用しているようだった。

 だが、その生活もあと数年で終わることだろう。
 彼女には美しさ以外に取り柄がない。そして美しさとは、日々すり減っていく資産だ。貯めておくことはできない。それが分かっているからこそ彼女も、美しさが手元にあるうちにああやって利用しているのだろう。
 そういう計算高さは嫌いではないから、僕は彼女のそういった男遊びに何も言わないことを決めていた。何より、そういう性格の悪さは小説家として大成することが決まっている僕の伴侶として、相応しいものであるようにも感じている。

 過去、日本で女性は夫の後ろを付き従うある種の黒子(くろこ)のような存在として重宝されていたようだが、小説家という偉大な職業に就く僕の伴侶がそのように影の薄い他人任せな存在では困る。
 彼女には小説に匹敵する美しさまでは求めずとも、小説家の妻らしい性格の悪さくらいは持っていて欲しかったのだ。

 一通り彼女の投稿に「いいね」をつけると、僕はゆっくりと立ち上がって窓を開けた。風は強くなかったが、やはりまだ人の気配のしない街は故郷にも似た匂いがする。深く深呼吸をして、故郷と故郷にいた美しい黒子を持つ彼女に思いを馳せてから僕は、会社に行くまでに約2時間の執筆をすることに決めた。応募済みの新人賞を受賞後、すぐに次作を公開できるように準備をしなくてはならない。小説家は金にならない職業だから、戦略的にお金を稼ぐ方法を準備する必要があるのだ。そうして金と名声があれば、彼女も観念して僕のもとに戻ってくるはずだ。
 キーボードに両手を添えると、記憶の中の彼女の右太腿に並んだ2つの黒子が、今までにない良作を書かせてくれるだろうという確信を僕に与えた。






 彼女の黒子が懐かしくて、僕は仕事帰りに百円ショップでシンプルな白いサイコロを購入した。サイコロはいい。「1」の目以外のすべてが、まるで平等だと言わんばかりの様子で黒い点を称えている。
 購入してすぐに袋から取り出した少し大きめのサイコロ。手のひらにちょうど収まるほどのそれをスーツの右ポケットに入れた僕は、久しぶりに興奮を覚えているように思った。

 彼女の黒子を象徴するものをこの手に持ち、そしてまた画面越しにしか話したことのない彼女もいるはずのこの街にいる。これ程幸福なことが他にあるだろうか。
 想像するだけでも僕は身体が熱くなるのを感じている。

「なにしてんの?」

 驚いて振り返った。僕に声をかけたのは、いつぶりに会うのかも分からない高校の同級生だった。

 高校の同級生?
 はて、彼女以外に僕は誰と同じクラスだったのか。

 思い返せば高校生の時分、僕は彼女の2つの黒子を観察することで忙しく、他の何事にも関心を払っていなかったように記憶している。僕は彼女の黒子を観察するためだけに、当時の僕のそれよりも偏差値が10も高い、彼女の志望校に進学した。それだけの情熱を注ぐ価値が、彼女のあの黒子たちにはあったのだ。
 そんな黒子狂いの僕が受かったにもかかわらず、頭の良かった彼女が志望校はおろか、都内のどの平均的な大学にも受からなかったことは少々計算外だったが。僕は今朝ほとんど10年ぶりに彼女の黒子を思い出したことになるわけだが、あの時の情熱を10年も忘れてしまっていたということは、驚くべきことかもしれない。

「俺だよ、俺。覚えてない?  高校2年生の時に同じクラスだった……それで、ほら、Fラン私立しか受けてなかったのにどこの大学にも受からなくって、卒業式に大泣きしてた……」

 そこまで言って、彼は僕の全身をジッと舐めるように見た。爪先から頭の天辺まで、これほどじっくりと眺められたのは人生で初めてかもしれない。いや、彼女だけはSNSを通じて僕のことを毎日毎日、スマートフォンの画面に穴が開いてしまう勢いで見ているはずだが。何にしても、直接このように見られるのは初めての経験だった。

「お前、どこ勤めてんの?  就活失敗でもしたのか?」

 彼の口元には明らかに侮蔑の色が滲んでいた。わざとらしく自身の左手首を僕の視界に入るよう掲げる。時計を見ているようだが、こちらからは刺々しい光が反射していてよく見えていない。

「時計と同じでよ、歯車ってのは表からは見えないもんだ。俺みたいに大っきな賞をとったデザイナーなんかは、別だけどな」

 はじめ、僕は彼が何を示したいのかを理解できなかった。だが「でざいなー」という言葉が「デザイナー」という像を結んだ途端に、それが彼なりの示威行為であると認めた。確かに今の僕は何者でもない社会の小さな歯車だ。だが、デザイナーで賞をとったから何だというのだ。僕ももうすぐに応募している新人賞の結果が出る。そうすれば僕は彼と同じ土俵に立ち、やがては彼には手の届かないところへと達するだろう。
 だが、それを彼に教えてやるのは無情に思えた。勉強で勝てなかった僕に対して彼は今(それが真実でないにしても)、勝利を収めた優越感に浸っている。どうせすぐに知ることにはなるのだろうが、せめてそれまでの間は、その優越感に浸らせてやろう。
 しかし、腕時計の自慢に対してくらいは何か答えてやっても構わないだろう。そう考えた僕は右手をポケットから抜き出して、その手に握っていたサイコロを彼と同じように、彼の目線の高さまで掲げてやった。突然のことで少々手汗がサイコロを濡らしていたが、それも彼女のあの体育祭の時の足のようで美しいだろうと思う。

 そしてそのことは、やはり僕の単なる妄想ではなかった。彼女の2つの黒子によく似たサイコロに、彼女から与えられた苦痛を思い出したのだろう。彼はそれからすぐに、逃げるようにして僕の前から去っていった。

 ホームに残された僕は、直後にやってきた彼が乗ったであろう電車をその場で見送る。過ぎていく電車の中にふと、先ほどの彼が気の強そうな綺麗な女性と一緒にいるのが見えた。そこにいる彼の顔には最後に僕が目撃した怯えるような表情はなく、ただただ女性との会話を楽しんでいるようだった。
 僕はそれが僕の彼女ではないことに息を吐いて、またポケットに右手を突っ込んだ。そうして5分後にまたすぐやってきた電車に乗って家路を急いだ。

 車窓の外を流れる景色に視線を向けながら、いつか、こうやって電車に乗って学校に行くことに憧れていたことを思い出した。多分あれは、高校生の頃に考えていたことだ。黒子のために都内の大学を目指したことで、電車通学ということが現実味を帯び始めていたのだ。
 彼女の目指していたーー即ち僕の母校は、日本でも屈指の偏差値を誇る大学だ。その大学に進学することが決まれば、僕の将来はほとんど約束され、また間違いなく電車通学をすることにもなり、そして学校へ行けば彼女と彼女の黒子が僕を待っている。

 あの時、イメージの中で車窓を眺めていた僕は、今の僕を想像できていただろうか。






 購入した日から毎日毎日手のひらで転がし続けていたサイコロは、いつの間にか手垢で汚れてきていた。僕の手はこんなにも汚いのかと驚きを隠せない。サイコロは角のとれた立方体で、真っ白だったはずだが今はもう薄く黄色味がかっている。
 こうしてずっとサイコロを転がしていて、僕は1つのことに気がついた。それは、僕の住むこのアパート全体がサイコロの集合体で形成されているということだった。フロア毎に6つの部屋が並び、1階から6階まであるこのアパート(マンションと呼ぶ方が適切なのだろうか)は、6という数字に支配されているところもサイコロと酷似していた。

 だがだとしたら、僕の住むこの部屋は1から6のうちどの目を表しているのだろうか。サイコロは、天井を向いている目を見てどの目が出たかを判断する。これを部屋に例えるとしたら、太陽の方角が天井を向いている面に等しいのではないかと思う。何故ならば天井とは太陽のある方を指し示しているからだ。
 僕の部屋は玄関からベランダの窓まで、扉さえ開いていれば一直線に通じている。だから地面の方を暗示するのが玄関で、太陽のある方を暗示するのがベランダの窓になるはずだった。

 ベランダの窓は2枚しかないから、この部屋は彼女の右足に並んだ黒子と同じ「2」の目を表していると言えるだろうか。もし彼女の黒子と同じだったら、それは僕にとってこれ以上ない幸福だ。
 だけどこういう時、本当はこの部屋の目がどの目を示しているのかということには神経質すぎるほどに注意しなければならない。もし本当は僕の部屋というサイコロが「6」の目を示しているにもかかわらず、それでも彼女の黒子と同じだなんて言ってしまったら、彼女の右足に更にもう4つの黒子が増えてしまいかねない。

 そんなことは許されなかった。彼女の並んだ黒子は、2つの黒子だからこそ美しいのだから。
 仮に彼女の黒子が6つに増えたりでもしたら、彼女の右足はその小説的な美しさを永久に失ってしまうことだろう(それはそれで、端的な美しさを保ちはするのだろうけれど)。
 とにかく彼女の右足が美しいのは、あの太腿にそっと添えられた黒子が1つでも3つでも4つでも5つでも、ましてや6つでもなく、ただ2つだけが並んでいるからなのだ。そんな彼女の右足の美しさを保つためにも、僕は僕の部屋が果たして1から6のどの目を示しているのか、間違うわけにはいかない。

 だから僕は、思い切ってベランダの窓を調べてみることにした。
 立ち上がると久々に飲んでいたアルコールが思いの外回っていたのか、緩慢に踏鞴を踏んでしまう。僕はアルコールへの耐性が極端に低かった。特段アルコールが好きというわけではないから、正直酒に弱くても支障はない。だけど、こうしてたまに思い立ってお酒を飲んだりすると、途端に僕は正常に生きることを放棄させられてしまう。アルコールが好きになれない所以だった。この液体は、僕にとって唯一許されたと言ってもいい思考の自由を根こそぎ奪おうとしてくる。
 人はあるものが失くなってしまうことにはいずれ慣れるものだが、奪われるという行為そのものに慣れることはない。

 ふらつく2本の足をなんとか従わせて、僕は洗濯物を干す時にしか使ったことのないサンダルを履いた。外側から2枚の窓を観察する。サイコロの目を判じるのであれば、それは外からなされるべき行為のはずだ。
 右側の窓の右上の隅から始めて、段々と左へ、下へと移動していく。右側の窓には何かサイコロの目を示すようなものは存在していなかった。左側の窓に目を向ける。同じようにして右上から観察を始めると、やはりこちらにも何もなかった。

 ーーやはり、この部屋は「2」を示している!!

 喜びに震えながら、そしてまたアルコールに侵されてふらつきながらベランダの柵にもたれると、月光を反射した窓が怪しく光った。まるで僕に何かを語りかけているかのようだった。僕は始め、彼が彼女の黒子と同じであることに喜び、そしてまた僕を祝福している声だと思った。だがすぐにそれが大きな勘違いであることが判明した。

 窓には僕の背の方向にある、真向かいのマンションの新築らしい、まだ生活感に欠けたベランダがたくさん写されていた。向かいのマンションは横に5つ、縦には12も部屋を積んでいる。新築だから清潔感もあって、半世紀もここに鎮座する僕のアパートとは大違いだった。
 そして重要なことに、僕の部屋の真向かいの部屋。そこのベランダにはプランターがいくつも並べられていた。正確には6つ。6つのプランターが本来あるべき植物を失い、恐らく残骸である土だけを抱えたまま、無造作に3つずつ2列で積まれていた。それはサイコロの「6」の形に酷く似ていた。いや、サイコロそのものだった。そしてもちろん、そのサイコロが僕の部屋の窓に映し出されていた。これ以上なく美しく。古びたアパートのくせに僕の部屋の窓は確かにそのサイコロをくっきりと、しかし朧げに写し出していたのだ。

 僕は覚えず窓に写し出されたそのプランターたちの、「6」の目を示すサイコロに目を奪われていた。そこには確かに小説的な美しさが、認め難くも確かに存在していた。窓など割ってしまえばいい。プランターなど、適当に難癖をつけてあのベランダから退けることは可能だ。だが、僕は恐らくそれらのことを実行できはしないだろう。何故ならこのプランターたちとそれが写った窓を、僕は美しいと感じてしまったのだから。
 過去、僕が彼女の黒子に惚れ込んでその暴力を許したように、また学校中の男子が彼女の美しさに酔ってその不当な行為のすべてを許してしまったように、僕にはもう、この部屋が「6」の目を示したサイコロであることを認める他に道はなかった。

  






 目が覚めても相変わらずこの部屋は「6」を示したままだった。
 「1」とそれ以外の目では色が違うことを考えると、まだよかったのかもしれない。6分の1の確率で彼女と同じにも、また完全に違うようにもなり得たのだから、彼女と異なる物に包まれる恐怖を考えたら及第点といえよう。
 それにまだ、彼女にはこの話をしていない。もしかしたら彼女が僕とは別の判断をすることもあり得るのではないか。もしかしたら話を聞いた彼女が嫉妬に心を燃やすことだってあるかもしれない。そう思ったらなんとしてでも彼女が眠る前にこの話をしなくては。焦りが俄かに僕を支配する。

 枕元のスマートフォンを急いで手に取りアプリを起動すると、アプリはまるで昨夜の僕自身のように緩慢な動きで立ち上がった。
 タイムラインにはもちろん彼女の姿だけが映し出されている。彼女は最近特に男遊びが酷いようで、毎日別の男とどこかしらのbarや居酒屋などに出かけていた。「彼はこれをくれた」と呟けば、翌日に会う男は前日に会っていた男よりもいい物をプレゼントしようとまた別の物を持ってくる。そして彼女がまたSNSで「彼はこれをくれた」と呟くことで半永久的にプレゼントを貰い続ける。
 この永久機関は、彼女のように端的な美しさを持っている女性のみが可能とする技だった。重要なのは、彼女の美しさがただ美しいということにあり、またその美しさが今を絶頂としていることも1つの条件となり得るかもしれない。

 珍しく、彼女は日付が変わる頃の呟き以降更新していないようだった。慎重過ぎるほどに慎重で、なかなか男に身体を許さない彼女にしては珍しい。
 彼女が誰か別の男に身体を許しているであろうことを、そしてそれがもしかすると今も正に行われている最中で、彼女が僕の存在などすべて忘れて男の腹の上で腰を振っているのかもしれないと考えると、吐いてしまいそうだった。というか、実際に吐いた。

 トイレから出てきて口を濯ぐ。歯磨きをしてコップ1杯の水道水を飲むと、嘔吐して焼けつくようだった喉の痛みが少しだけ和らいだ。
 彼女も遂に、僕から離れてしまうのだろうか。美しいだけの存在を救おうと毎日必死になっていた僕を忘れて。彼女はその美しさが保たれている今この瞬間に、幸せを掴もうとしているのだろうか。あんなにも愛し合っていたというにもかかわらず、彼女は僕をただの保険として考えていたということなのか……。

 景気付けにもう一度吐いた。
 もうほとんど胃液しか出てこなくて、それすらもしかすると、昨夜飲んでいたアルコールにすぎないのかもしれないと思った。つまり、僕の中身はもう空っぽだった。

 だが、空っぽになった僕にも未だあるものが1つだけ残されていた。サイコロだ。彼女の黒子だけは、記憶の中の存在に過ぎないながらも僕のことを裏切らないでいてくれる。「2」と「6」の違いこそあれ、それは単に物量にすぎないのだ。根本的な差異ではない。だからこそ、「2」(彼女)と「6」(僕)は分かり合えるはずだ。

 が、そこで僕は気づく。いつも手に握っていたはずのサイコロが見当たらないことに。嘔吐した時に一緒に流してしまったのだろうかとも考えたが、そもそも僕は今朝、起きた時にサイコロを握ってはいなかった。

 ベッドを探す。ーーない。
 テーブルの上を探す。ーー空き缶しかない。
 キッチンを探す。ーー何もない。

 考えれば僕は昨夜ベッドに入った時の記憶がない。アルコールだ。あいつにサイコロまで奪われたのだ。
 気がついてテーブルの上の空き缶をひっくり返してみたがサイコロは入っていなかった。飲み残されたアルコールの滴が、1滴2滴落ちてきただけだ。ない、何もない。ベランダも探してみたが見つからなかった。ただ窓に「6」の目を示すプランターが写っているだけだ。気が狂いそうだった。見れば見るほどに、「6」の目は彼女の右足のような美しさに欠けている。目が多過ぎるが故に欠けてしまっているのだ。これでは本末転倒じゃないか。多くし過ぎて足りなくなるなんてとんだ笑いものだ。滑稽にもほどがある。

 そういえば、昨夜ベランダに出た時にサイコロを持っていなかったか。

 もしあの時に持っていたとすれば、僕は酔ったせいで彼女の大切な黒子をベランダから落としてしまったのかもしれない。パジャマのままで構わなかった。僕は急いで靴をひっかけると、階段を半ば落ちるようにして駆け下りた。外に出る。自身の部屋があるあたりを見上げながら、地面を這うようにしてサイコロを探す。だがやはり、ない。

 可能性を考えた。僕は偉大な小説家だ。もしサイコロがこの場に落ちてきたとして、どうなったらそれが失くなるのか。小説家であるならばシュミレートできるはずだと考えた。

 犬が食べてしまった、酔っ払いが酔狂に蹴飛ばしながら何処かへ運んでしまった、幼い男の子が、あるいは彼女の黒子の美しさを知る何者かがーー。
 すべてが決定打に欠けているように思われた。仕方なく、誰かが蹴飛ばしてしまったことにかけて僕は駅のある方角に歩き出した。

 5分、10分と丹念に地面を探しながら歩くも見つからない。何も見つからない。あるのは石ころとタバコの吸殻くらいのものだ。ゴミしかない。彼女の2つの黒子は美しいから、このゴミだめの中では目立つはずだった。
 だがそうこうしているうちに駅までたどり着いてしまった。サイコロはなかった。ポケットの中でスマートフォンが震えた。取り出して確認する。彼女の呟きがなされた通知だった。黒子をなくしたことがバレてしまったのかと焦った。だけど冷静に考えれば、彼女が彼女の黒子のことを知るはずもなかった。
 男と朝の街を歩いている。ホテルに行っていたのだろう。腕を組んで歩く姿にはこれまでの男との間には見られない親密さが映し出されていた。

 腕を高く掲げて撮影された自撮りでは、短めのワンピースから覗く右足の太腿を確認することはできない。だが、彼女がこの写真の男を選んだとするならば、その右足に僕の求める黒子が並んでいるはずはなかった。彼女は再び失われてしまったのだ。そう、再び。

 あのサイコロも失くなった今、僕はもう彼女の並んだ黒子を永遠に失ってしまったのかもしれなかった。せめてこうなってしまう前に、SNSではなく直に彼女と顔を合わせて、その右足の太腿に、並んだ黒子がありはしないかと尋ねるべきだったと後悔する。だがその後悔が既に意味をなさないことは、火を見るより明らかだった。彼女はあの、暴力的だが小説的な美しさを持つ2つの並んだ黒子を右足に宿した彼女とは別人なのだから。
 所詮「6」の目の部屋に住む僕と「2」の目を示す彼女では、彼女の黒子ならばそうすることができるように、重なり合うことなどあり得なかったのかもしれない。赤い「1」の目がその他の目とは異なるように、「2」の目と「6」の目も同じではあり得なかったのだ。

  そういえば、昨日は応募していた新人賞受賞の発表日だった。スマートフォンには彼女の呟き以外の通知はない。





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