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『言の葉の庭』から見る、子供にとっての社会

私は作品『言の葉の庭』が好きだ。好きだからこそ私の意見をまとめるのに億劫になっている部分があったが、腹をくくって書き始めよう。
※映画と小説についてネタバレを含むので注意していただきたい。(基本は映画中心)


新海誠監督の作品『言の葉の庭』は、2013年に公開された映画である。私は高校に入る前の春休みにレンタルで『言の葉の庭』を観たのだが、これが心の琴線に触れ、その後現在に至るまで何度も見返すことになる。
『言の葉の庭』は間違いなく私の青春である。

キャッチコピー、「"愛"よりも昔、"孤悲(こい)"のものがたり」からもわかるように『言の葉の庭』は恋愛を描いた作品である。しかし、恋愛的な視点のみにおいてこの映画を見るのは少し勿体ないと思ってしまう。

この記事では恋愛については敢えてあまり触れない(というか恋愛についても語りだすときりがない)。主人公である高校生の男子・孝雄が社会についてどう考えているかについて私個人の見解も交えながら深堀りしようと思う。

私はこの春に成人を控えた大学生である。未成年の私が『言の葉の庭』に描かれた子供と大人社会についてどう感じたのか、なんとしても二十歳になるまでにまとめておきたかったのである。


本題。孝雄視点の話

物語は孝雄の語りから始まる。

こういうことを、二ヶ月前高校に入るまで俺は知らなかった。―――

制服を濡らす他人の傘、ナフタリンの匂い、他人の体温、エアコンの不快な風。映画が始まってすぐ私たちは孝雄が社会に対して何か不満を持っている、苛立っていることを知るのである。

遥か届かないあの空の匂いを、雨は連れてきてくれる。 (小説)

孝雄はものへの憧れが強い人間なんだとわかる。

結局、孝雄は地下鉄には乗り換えずに公園の東屋へと向かう。
ここで、美しい新宿御苑の風景や繊細で美しい雨粒と、不格好な孝雄の靴「モカシン」が対比される。この辺りは、自分を未完成な人間と思っていて複雑な世界というものに憧れを抱いているということが表現されているのだろう。

茫漠とした未知の世界全体に対して憧れを抱く人物というのは新海誠作品の中では繰り返し描かれる。『秒速5センチメートル』の貴樹しかり、『雲のむこう、約束の場所』の主人公たちしかり。『君の名は。』の三葉や『天気の子』の帆高もそうか。世界に対する憧れを推進力に進む少年少女の姿は、新海監督の作品に通底するテーマであるように思う。

未完成な人間。つまり大人になれないガキはやく大人になりたい。そういうフレーズが作中で何度も繰り返される。

ちなみに孝雄がなぜ自分のことをガキだと思っているのかについては小説に詳しく書かれているので是非小説を読んでほしい。(この辺りを語りだすとえげつない文字数になるのだ。)

とにかく、孝雄は自身が大人になることに憧れている一方で、大人の社会に対して漠然とした反骨精神を持っている。一見するとアンビバレントであるが、そういうところも含めて"ガキ"なわけだ。


高校生が直に社会人というものと向き合う場はそこまで多くはない。せいぜいバイト先で出会う人か――教師、だろう。

孝雄が教師を社会を映す鏡として捉え、それに反抗心を抱いているという描写は作中でも見ることができる。例えば、雪野が教師であることを知った後屋上でキャッチボールをするシーンでは、「結局学校だって大ごとにしたくないから」という言葉を聞いてボールを投げるのをやめる描写がある。これこそ孝雄の思う社会の嫌いな部分であり、それが社会における学校の立場と重なる。

大人になりたいという焦燥感ゆえに、孝雄にとって学校というものがそもそも無駄な場所だと考えているという説明も省けないだろう。

晴れた朝は、ちゃんと地下鉄に乗り換えてここにくる。でも、こんなことをしている場合じゃないって思う。

そもそも孝雄は靴職人を目指しているので学校の勉強が大人になることへの道であるとは考えていない。靴を作ることだけが孝雄を大人にしてくれるのである。


と、既にいろいろと書いてしまったが、話は孝雄が雪野と最初に遭ったところに戻る。
最初のあたりでは、孝雄は雪野のことを記号的に(嫌いな一面としての)社会の一員であると捉えていた。(独りになるために行っていた東屋に他人がいることに対し苛立っていただけなのかもしれない。)

自分の住む世界とは異なる社会というものを常に意識し続ける孝雄は、会社をサボったという雪野の話を聞き驚く。雪野のそういう人間らしいというか子供らしい部分に感化され徐々に心を開く孝雄は、雪野に自分が靴職人になりたいことを打ち明ける。

あの人にずいぶん不相応な――恥ずかしいことを言ってしまったという後悔と、いやしかしこれが俺の本当の気持ちだったんだ、という誇らしいような感情がごちゃ混ぜになって、今の孝雄の中にはある。(小説)

不相応な、というのはあくまでお互いのことを知らないままの関係であった(それが心地よかった)のに自分の夢を語ってしまったということだろう。

こうして自分の夢を吐露したものの、いまだに孝雄は雪野のことを何も知らない。年齢も職業も名前も。

世界の秘密そのものみたいに、彼女は見える。

この辺りで孝雄は、複雑で未知なる世界への憧れを雪野に投影していたのだと思う。もちろんそれは端的に言えば恋なのだろうが、単に所有欲みたいな感情ではないことは明らかである。


映画ではここから雪野目線の話になるので、光の庭(足を測量するシーン)まで話を飛ばそう。
そこで孝雄は、雪野から「うまく歩けなくなった」ことを聞く。(これはもちろん人生を、という意味である。)孝雄は雪野に靴を作ることを決意する。再び人生に一歩を踏み出せるような靴を。

世界に対する憧れから靴を作っていた孝雄は、(未知世界の投影である)雪野に対する憧れから靴を作るようになったのである。

靴作りと専門学校への資金集めに専念するため夏休みを東屋へ行かずに過ごしていた孝雄は、夏休み明けに退職届を出すために高校へ来た雪野と遭遇する。ここで初めて孝雄は雪野が教師であったことを知る。(私たちも初見では衝撃だったよね。)


小説ではこの部分で、雪野が教師であったのを隠していたことに対し孝雄は怒りを覚えているというようなことが書かれていたが、問題は隠していたことよりも教師だったこと自体のほうにあるのではないだろうか。
自分が未知の存在として強く憧れていた雪野という人物が、社会の嫌いな部分である教師だった。その事実は孝雄にとって裏切りであっただろうし、唯一自分の触れられる社会であった学校のことも雪野のことも結局自分は何も知らなかったという思いは、孝雄に未熟さを痛感させたに違いない。

だから孝雄の告白に対して、雪野が社会人として、教師としての返事をしたことに孝雄は嫌悪感を覚えるのである。


社会とは、リスクを避けて堅実な方を選び、場面に合わせていろんな顔を使い分け、自分には関係ないと責任から逃れ、そのくせ時には胸を締め付けるような美しい一面を見せる。
孝雄はそんな社会を、疎ましく思いながらも憧れ続ける。

だから、孝雄の叫びは雪野への本当の告白であると同時に、世界への叫びでもある

あんたは一生ずっとそうやって、大事なことは絶対に言わないで、自分は関係ないって顔して――ずっとひとりで、生きてくんだ!






おわりに

孝雄の見る社会、という話をしただけで3000字になってしまった。
もともと雪野の見る大人の社会についても対比する形でまとめようと思っていたのだが、それは今度の機会にしよう。というかまだまだ語りたいことが無尽蔵にある。母・怜美や兄・翔太とその彼女のこと、伊藤先生、相澤祥子のこと、それから映像表現…本当に話題が尽きない。

この記事を書くにあたって映画と小説を再びみたのだが、何度見ても新たな気付きがあるし、中学高校大学と私の考え方が変化していることも実感する。

私は年齢が近く性別が同じこともあり孝雄に強く共感できるのだが、それも今後年をとるにつれ変わっていくかもしれない。『言の葉の庭』は間違いなく今後も私の人生を支えていく作品だろう。


※記事中、(小説)と書いた引用文はすべて、角川文庫『小説 言の葉の庭』(2016, 新海誠)より引用。

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