原因と結果

すべてのものには原因がある。果実は木から、種は土から求めなければならない。では、最も小さく、最も取るに足らないものをアッラーにに求め、それをアッラーに懇願するとはどういうことだろうか。

私たちは宇宙における原因と結果のように見えるものを見て最も高尚な原因は最も平凡な結果に対して力不足であることを知る。つまり、原因はベールに包まれたものであり、何か別の者が結果を生み出しているのである。
無数の生き物の中からほんの一例を挙げるなら、人間の頭の中にある、からし種ほどの小さな空間である記憶という能力である。その中には、その人の人生の全ストーリーが混乱することなく書かれている。
この奇跡のような力はどのような原因によってもたらされるのだろうか。
脳の灰白質?
細胞の単純な無意識の粒子?
偶然の風?

しかし、この芸術の奇跡は賢者である創造主が、人間すべての行いを記した大いなる帳簿から、復活の時に公表される小さな帳簿を書き出し、それを人間に思い出されるためにその手に与えたとしか考えられない。結果、目的、効果に付随する恩恵は、それが原因の覆いを超えて、万能の維持者、全知にして慈悲深い方の御業であることを自明にしている。無意識の原因は、確かに何らかの目的を考え、そのために働くことはできない。それなのに、私たちは、存在するようになったそれぞれの被造物が一つではなく、多くの目的、利益、知恵の実例に従って存在することを見る。


全知全能で寛大な維持者がそれらのものを作り送られる。かれは、それらの恩恵を存在の目的とされる。例えば、雨が降る。雨をもたらす原因が、動物のことを思い、彼らを憐れみ、慈しむことから、いかに遠いものであるかは明らかである。つまり、雨は、動物を創造し、彼らの糧を保証する慈悲深い創造主の知恵によって、彼らの助けとして送られるのである。雨は「慈悲」とさえ呼ばれる。なぜなら、雨は数々の慈悲の業と恩恵から構成されているため、慈悲が雨として具現化し、雫となって降り注ぐかのようだからだ。


要するに、原因は極めてありふれた非力なものであり、それに起因する結果は最も価値ある芸術的なものであるため、これは原因を退けるものである。結果の目的と利益もまた、無知で生気のない原因を放逐し、それらを全知全能の創造主に引き渡すことである。
最も偉大なもののように、最も小さく、最も特殊なものは、全宇宙の創造主の力から直接生まれ、その宝庫から現れる。それ以外の方法では起こりえない。


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