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Big4コンサルティングの歴史 第4話(シカゴ編 1900~1920年代アメリカ)


本編(第4話)のあらすじ

19世紀末から20世紀初めにかけて急速に発展したアメリカの都市の一つにシカゴがありました。産業の発展に合わせるように会計事務所の設立も相次ぎ、プライス・ウォーターハウスはニューヨークに次ぐ2番目の事務所をシカゴに設立しました。また、後に世界最大のコンサルティング・ファームになるアーサー・アンダーセンもシカゴで会計事務所として産声を上げました。他にも、20世紀後半のコンサルティング業界で巨人となるブーズ・アレン・ハミルトン、マッキンゼーといった会社もシカゴで相次ぎ設立されました。

20世紀前半のシカゴ

発展する都市

19世紀末から20世紀初頭、アメリカの大手会計事務所は監査業務に加え、財務調査や、会計業務に関わるコンサルティング業務を始めました。当時のアメリカで、コンサルティングはボストンのMIT技術者から始まり、フィラデルフィアのフレデリック・テイラー等も歴史的に有名な話です。では、会計事務所を中心とした財務調査や会計コンサルティングはどこで行われていたのでしょうか。

アメリカ中西部の大都市シカゴを中心に行われていたという解釈があります。『The World's Newest Profession』(クリストファー・D・マッケナ)には次のようなことが書かれています。

ほとんどの経営エンジニアリング会社は20世紀始めにシカゴで生まれ、後に経営コンサルティング会社となっていく。例えば、会計事務所のアーサー・アンダーセンであり、ブーズ・サーベイ(後のブーズ・アレン・ハミルトン)であり、マッキンゼーである。1920年代から30年代にかけて、彼らはニューヨークやボストンの投資銀行から中西部の企業の経営分析の依頼を受け、大きく成長した。そして、1940年代にはシカゴのコンサルタントがアメリカ国内のライバルを圧倒するようになっていた。

『The World's Newest Profession』(クリストファー・D・マッケナ)

アンダーセンは1913年、ブーズは1914年、マッキンゼーは1926年にそれぞれシカゴで設立されています。20世紀始めの同じ時期に同じ場所で、その後21世紀まで続くコンサルティング会社が複数誕生したことはとても興味深い話です。

シカゴの地理的な情報は下の図が参考になります。

『大学で学ぶアメリカ史』(和田光弘 編著)

上の図から分かる通り、シカゴは緯度的にかなり北の方にあり、日本の札幌や函館に近い位置です。アメリカの中央に位置しているということで、道路、鉄道、水路、(後に空路)の発達とともに主要な輸送ハブとして大いに発展する歴史をたどりました。

鉄道については下の図の通り、シカゴ(赤点)から西に向かって多くの路線が出ていることが分かります。東からの主な路線はシカゴで終わり、西への路線はシカゴから始まっていました。

『アメリカの歴史』(有賀夏紀・油井大三郎 著)

また、水路では、1848年にイリノイ・ミシガン運河が開通し、シカゴが接する五大湖から、シカゴを経由してミシシッピ川とメキシコ湾に至る輸送が可能になりました。このように交通の要所として繁栄してきたシカゴの人口は19世紀後半に急増し、その成長速度から世界史上最も急成長した都市と言われています。

『Encyclopedia of Chicago』(http://www.encyclopedia.chicagohistory.org/pages/198.html)など
1832年のシカゴ(Wikipediaより)


1900年のシカゴ(ディアボン通りとランドルフ通りの様子)(Wikipediaより)

都市の発展とともにシカゴにはたくさんの企業や工場が生まれました。製造業が大きく成長していた時代です。そして、企業では優秀な専門性を持った会計スタッフが求められ、シカゴは会計専門家の中心地となっていきます。会計事務所がそういったサービスを提供するようになり、また大学(シカゴ大学、ノースウェスタン大学等)が会計教育を推進していった歴史がありました。

会計コンサルタント

19世紀後半にアメリカ合衆国の鉄道、道路、水路の中継地として大発展を遂げたシカゴでは、産業の発展とともに会計業務の重要性が認識され始めました。(シカゴの所在地である)イリノイ州では1903年に公認会計士制度が定められ、会計の専門家による産業振興のバックアップが進められました。

シカゴでは20世紀前半の1910年代、20年代に会計事務所や会計をルーツとするコンサルティングが大きく発展した歴史があります。例えば、アーサー・アンダーセン会計事務所(後のアクセンチュア)であり、マッキンゼー・アンド・カンパニーです。シカゴの人口が全米第2位になっていた1890年から1910年頃までの世紀をまたぐ20年で、コンサルティング発展の布石がどのように打たれていたのでしょうか。

シカゴで会計の専門家が必要とされ始めたこの時代、後にBig4(Deloitte・PWC・KPMG・EY)となる会計事務所がシカゴに進出してきました。プライス・ウォーターハウス(後のPWC)はニューヨークに次ぎ2番目のオフィスとして、1892年にシカゴのジャクソン・ストリートにシカゴ事務所を構えました。また、1890年にスコットランドからアメリカに渡ったアーサー・ヤングは、1906年にアーサー・ヤング・アンド・カンパニー会計事務所(後のEY)を設立しています。

(参考)1892年シカゴのモナドノックビル(Monadnock Building)にプライス・ウォーターハウスはオフィスを構えた

(上)1890年代の事務所設立時のビル
2005年の同ビル Wikipediaより

シカゴに事務所を開設した会計事務所の仕事には、本業の監査業務とともに、後の経営コンサルティング業務に繋がっていく「財務調査」もありました。

例えばプライス・ウォーターハウス(後のPWC)の場合、1899年に合併に関する仕事として、シカゴの6社の牛乳会社、19社の鉄道供給会社、産業機械/農業機械のメーカー6社の財務調査を引き受けています。他にも、当時シカゴの主要産業の一つであった食肉加工業者に関する合併業務を1902年に開始しました。また農機具メーカー5社の会計調査についてJ.P. モルガンから依頼を受けていて、これなどはニューヨークやボストンの投資銀行がシカゴの会計事務所を雇い財務調査を行っていた典型として注目したい案件です。

アーサー・アンダーセン会計事務所も財務やビジネスの調査をするための独自の技術を開発し、銀行から投資候補企業の財務調査の仕事を引き受けて大きな仕事としていきました。少し専門的な内容も含まれていますがその仕事内容をご紹介します。以下はアーサー・アンダーセン会計事務所の事例です。

財務・経営調査報告書は、最初のセクションで調査結果の要約と提言を行い、かなり詳細な内容だった。報告書は通常、数年分の財務諸表が含まれており、事業開始からの売上、利益、配当、剰余金の増減などの概要が記載されていることが多かった。これらの調査をもとに、会計や業務の改善に向けた提言を行い、黒字経営の見通しについてコメントした。

財務・会計以外にも、労使関係、原材料の入手状況、工場、製品、市場など、ビジネスのさまざまな局面に踏み込んだ財務調査報告書を作成した。

これらの報告書を作成するにあたり、会社の方針とその有効性、およびそれを実行するための経営陣のパフォーマンスを調査する方法をとった。

『THE FIRST SIXTY YEARS』

この財務調査の内容は会計事務所の本来の業務とされる会計監査の領域を大きく飛び出していることが分かりますが、設立間もないこの若い事務所は果敢に挑戦していきました。

会計事務所のコンサルティング・サービスがシカゴ企業の発展を背景に動き出したことに加え、19世紀末から20世紀への転換期に起こった革新主義と総称される改革ももう一つの背景として考えることができます。革新主義についての歴史的解釈は各種書籍によると大体次のようなことが書かれています。

 19世紀後半の急激な社会経済的変化から起こった諸問題を解決するために、地方政治を皮切りに、各地で「革新主義」と呼ばれる改革が推進された。革新主義はきわめて多様な側面を持っていたが、既存の腐敗や非能率を改革し、効率性・能率性を重視した。その結果、専門家による科学的・合理的な方法が採用されることになった。

 それは、公衆衛生や高等教育の充実に繋がり、さらには女性運動、禁酒運動などの社会の改革に向けた地域レベルでの様々な改革が展開された。

 コンサルティングに関していえば革新主義時代の都市改善団体とともに、市の会計と簿記の方法とシステムの見直しに繋がっていく。この革新主義の改善活動に合わせ会計事務所も自治体会計へのコンサルティングに参入していった。市、州、連邦政府それぞれのレベルが会計事務所に助言を求めた。

『大学で学ぶアメリカ史』(和田光弘 編著)
『アメリカの歴史』(有賀夏紀・油井大三郎 編)
『ACCOUNTING FOR SUCCESS』(DAVID GRAYSON ALLEN / KATHLEEN MCDERMOT)
など

革新主義による改善が進む中でもシカゴ市は早期に会計改革に取り組んだ自治体でした。1898年から1899年にかけて会計事務所のHaskins & Sells(ハスキンズ・アンド・セルズ、後のDeloitte)に会計調査を依頼し、1902年に新しい会計システムを採用しています。

会計事務所は革新主義の改善をシカゴ以外にも行っており、1903年にはプライス・ウォーターハウス(後のPWC)がミネアポリス市の会計システ厶見直しを、1907年にはデロイト(後のDeloitte)とプライス・ウォーターハウスが共同で連邦レベルでの郵便局再編のための会計調査、会計システムの見直しなどを提言しています。

このように世紀末を挟みアメリカ社会で進められた革新主義が、会計事務所によるシステム改善への助言というコンサルティング・サービスを推進する背景にあったことが分かります。特にシカゴではプライス・ウォーターハウスやハスキンズ・アンド・セルズ(後のDeloitte)といった会計事務所によって実践されていたことがわかりましたが、コンサルティングを歴史的に大発展させた当事者はまだ登場していません。

アーサー・アンダーセン会計事務所

事務所誕生

1913年12月1日、アーサー・アンダーセンは、自身の名を冠し、60年後の今日、世界中にその名を知られることになる会社を設立した。この会社の成功は、創業者のビジョン、勇気、誠実さ、リーダーシップ、そして創業当初から会社の方針を決定するために設定した高い基準によるところが大きい。

『THE FIRST SIXTY YEARS 1913-1973』(ARTHUR ANDERSEN & CO.)

これは1973年に発行されたアーサー・アンダーセン会計事務所の社史の冒頭部分です。
60年後の今日、つまり1970年代前半には世界中で事業を行い、コンサルティング分野では世界最大の会社に成長する会計事務所がシカゴに誕生した瞬間です。
2002年に会社は消滅したもののコンサルティングの歴史を語る上で欠くことのできない、アーサー・アンダーセン会計事務所誕生の歴史に迫ってみたいと思います。

事務所設立の前月、1913年11月、アンダーセン氏はノースウェスタン大学の会計学部で学部長兼助教授の地位にありました。(シカゴのある)イリノイ州で会計事務所を経営していた知人が亡くなり、その事務所を買い取る形で大学の職にあるまま会計事務所を経営することを決めました。

1913年11月、イリノイ会計事務所に空きが出ると、アンダーセン氏はこれこそ求めていたチャンスだと思い、12月1日、ディレイニー氏とともに会計事務所を買収し新たにシカゴに自身の事務所を開設した。

『THE FIRST SIXTY YEARS 1913-1973』(ARTHUR ANDERSEN & Co.)

翌月、アンダーセン氏は友人のディレイニー氏とともに知人の会計事務所の営業権とスタッフ8名をわずか4000ドルで買い取り、アンダーセン・ディレイニー・カンパニーを開設しました。アンダーセン氏とディレイニー氏をパートナーとして総勢10名での船出でした。
アンダーセン氏とディレイニー氏は1913年12月1日付で以下のアナウンスメントを行っています。

アンダーセン・ディレイニー・カンパニー
公認会計士
イリノイ州監査会社
公会計士

A・E・アンダーセン CPA 電話局 5935 111
C・M・ディレイニー CPA シカゴ ウェスト・モンロー・ストリート111
(ハリス・トラスト・ビル)

アーサー・E・アンダーセン ノースウェスタン大学商学部教授
クラレンス・M・ディレイニー

二人は以前プライス・ウォーターハウスに所属していましたが、独立し公認会計士として活動することを発表致します。

・貸借対照表と損益計算書の作成とその分析・解釈を含む定期的な監査
・公告用または銀行への融資申請のための財務諸表の証明
・新規事業への投資または既存事業の拡張の可否を判断するための特別な目的のための調査
・財務、原価計算および組織の新システムの設計・構築、または既存システムの刷新
・連邦所得税法に基づく報告書の作成

イリノイ会計事務所から継続した事業をアンダーセン・ディレイニー・カンパニー公認会計士として行います
シカゴのハリス・トラスト・ビルに事務所開設
1913年12月1日

(参考)アナウンスメントの原本

(参考)1911年の設立時のハリス・トラスト・ビル(Wikipediaより) アンダーセン・ディレイニー・カンパニーは最上階の2室を事務所として借りた

アナウンスメントには注目すべき興味深い点がニつあります。
一つは自分達が何者なのかを紹介する部分です。アンダーセン氏はノースウェスタン大学商学部の教授ではあるものの、実業の世界では無名の会計士に過ぎません。仕事を得るために元プライス・ウォーターハウスの会計士であるということで信頼を得ようとしていることがわかります。

プライス・ウォーターハウス(後のPWC)は1890年、ニューヨークに事務所を開設しました。アメリカ進出後も順調に事業を拡大し、20世紀に入ると大手会計事務所としてアメリカを代表するいくつもの企業を顧客に持つようになっていました。
1910年代にはプライス・ウォーターハウスの社員は150名を超え、アメリカ国内のオフィスは11ヶ所を数えました。名実ともにアメリカ会計士業界をリードする会社になっていましたので大手会計事務所のブランドを利用した宣伝でした。

アナウンスメントで注目すべきもう一つの内容は、事業内容として「財務、原価計算および組織の新システムの設計・構築、または既存システムの刷新」を明確にし、コンサルティング注力の姿勢をはっきりと打ち出していることです。
アーサー・アンダーセン会計事務所が設立時からコンサルティングに力を入れていたことは、多分に設立者のアンダーセン氏の考えによるところが大きく、彼が考える会計士の姿は次のようなものでした。

会計とは数字の背後にある事実をつかみ分析し解釈することだ。正しい会計では何が行われたかを知るだけでは十分ではなく、何が行われるべきかまで知るべきなのだ。

従って会計を職業とする会計士に求められるのは、技術的なサービスで財務諸表を監査することだけではなく、最も重要なことは数字の背後にある営業の実態に目を向け経営者に役立つ建設的な報告をすることである。会計士の仕事は監査で終わるのではなく、むしろそこから始まる。そのために会計士は経済の原理、財務や経営組織の原理について理解を持たなければならない。

『闘う公認会計士』(千代田邦夫)
『アーサー・アンダーセン消滅の軌跡』(S・E・スクワイヤー/C・J・スミス/L・マクドゥーガル/W・R・イーク 平野皓正 訳)

コンサルティングも含めた新しい会計士像で事務所経営のビジョンを打ち出したアンダーセン氏に対して、伝統的な大手会計事務所はアンダーセン氏の果敢な行動に対して懐疑的な反応を示しました。

例えば、業界リーダーのプライス・ウォーターハウスからは、会計士は監査のみをやるべきで他に手を出すべきではない、と忠告を受けていました。特に過度なコンサルティング参入は会計監査との利益相反から、大手会計事務所は慎重な態度を取っていました。
当時の2社を比較すると、社員数ではアンダーセン10名に対してプライス・ウォーターハウスは150名、売上・利益規模ではアンダーセン約45,000ドルに対してプライス・ウォーターハウスは約240,000ドル(この数字が売上か利益かは不明)であり圧倒的に規模の差がありました。

それにもかかわらず、この忠告をアンダーセン氏は聞き入れることはありませんでした。むしろ十分に訓練された彼の事務所の会計士であれば問題を起こさない、と自信を持って進めたのです。
そのためアンダーセン氏は非常に強い意志と高い質を事務所メンバー全員に要求しました。そして彼が求めるレベルに到達しないものは容赦なく脱落させていきました。

事務所設立時にイリノイ会計事務所から引き継いだスタッフ8名のうち2名はすぐに入れ替えを行いました。また、一緒に事務所を設立したディレイニー氏に対してさえも、彼が帳簿係の域を超えないという理由から、排除、退職させるということをしました。
アンダーセン氏が設立した会計事務所は、彼の強権の下、強く厳しい意志で統率されたメンバーを従え動き出し、その後大躍進をしていきます。

アーサー・エドワード・アンダーセンとは

アーサー・エドワード・アンダーセン(Arthur Edward Andersen)は20世紀前半にシカゴを中心に活躍した会計士で、かつて存在したアーサー・アンダーセン会計事務所の設立者です。後に世界最大のコンサルティング会社となるアーサー・アンダーセン・アンド・カンパニーを設立した人物でもあります。

1885年に(シカゴのある)イリノイ州で生まれたアーサーですが、20世紀初期の同時代にシカゴで活躍したエドウィン・ブーズ(コンサルティング・ファームのブーズ・アレン・ハミルトン設立者)は1887年生まれ、ジェームズ・マッキンゼー(マッキンゼー・アンド・カンパニーの設立者)は1889年生まれの同世代です。

アーサー・アンダーセン氏は1885年にシカゴの西約90kmにある町プラノ(Plano)で8人兄弟の4番目として生まれました。プラノという町は当時人口2000人に満たない小さな町でした(2020年の人口は約1万人)。彼の両親はアーサーが生まれる3年前にノルウェーからアメリカに移住してきたばかりでした。夢を持ってアメリカに来た両親でしたが、アーサーが16歳の時に共に亡くなり彼は孤児になってしまいました。8人の子供達はばらばらになり、アーサーは父親が働いていたフレーザー・アンド・チャルマー社の鋳物工場でメールボーイとして働き生計を立てるようになります。昼間は働き、夜に夜間学校に通い勉強するという少年時代を過ごしたアーサー氏は、まじめに働くことの哲学を持っていたのかもしれません。

チャルマー社では残業を苦とせず長時間働き仕事に全てを注いでいました。他人とはあまり付き合わない性格でしたが、これは彼が事務所を設立した後でも変わらなかったようです。チャルマー社では経理部長まで出世し、この頃から会計士の勉強を始めていました。そして22歳になった1907年にチャルマー社をやめて、当時アメリカでは最大手のプライス・ウォーターハウス会計事務所(後のPWC)のシカゴオフィスに転職しました。

アンダーセン氏は1908年(23歳)に公認会計士となり、1913年(28歳)にシカゴにアーサー・アンダーセン会計事務所を設立しました。

設立直後の1910年代にアメリカの連邦レベルで税法が大きく変わる中、税務サービスを強みとしたアンダーセン会計事務所は多くの顧客を獲得することができました。彼らは税務サービスで獲得した顧客に対して、会計監査やコンサルティング分野のサービスを売り込み、契約を拡大していきました。

1920年代はアンダーセン会計事務所に取って最初の成長期でした。ニューヨークやシカゴの投資銀行から財務調査の依頼を頻繁に受け、その仕事は投資銀行から高い評価を得ました。

1920年代の成長がそのまま続けばコンサルティングの歴史は違っていたかもしれませんが、1930年代に成立した法律(SOX法)により会計事務所は会計監査を続けるかコンサルティングを続けるかの二者択一を迫られました。アンダーセンは当時の売上の大部分を占めていた会計監査を選択し、一時的にコンサルティングからの撤退を決めました。

アンダーセン会計事務所が再びコンサルティングに進出するのは、第二次世界大戦後のコンピュータ時代の幕開けを待つ必要がありました。

1946年、創業者アーサー・アンダーセンが死去します(満61歳)。この年、氏の意志を継いだアンダーセン会計事務所のパートナーは再びコンサルティングサービスを大きく動かし始めました。

アンダーセンとプライス・ウォーターハウス

アンダーセン氏がシカゴのウェスト・モンロー・ストリートに会計事務所を開設したおよそ半年後、1914年7月、第一次世界大戦が始まりました。

この戦争は皮肉にもアメリカ社会でプライス・ウォーターハウスやアーサー・アンダーセンといった会計事務所の地位を向上させ、1920年代の発展へと繋がる足掛かりとなりました。今回はその歴史に迫りたいと思います。

アメリカが第一次世界大戦に関わっていく歴史はおよそ次のようなものです。

1914年7月に始まった戦争に対してアメリカは最初中立を保っていた。当時のアメリカには、イギリス系、ドイツ系、フランス系等の移民がいたため、ドイツ・オーストリアとイギリス・フランス・ロシアなどが敵対して戦うこの戦争に加わるのは得策ではなかった。

しかし現実にはアメリカはイギリスと親密な関係にあり、戦争により物資が乏しいイギリスやフランスに対して積極的な輸出や資金を貸して支援していた。

一方戦況が苦しくなった敵国ドイツの潜水艦による無差別攻撃で、民間の客船ルシタニア号が撃沈されアメリカ人多数を含む1200人の死者が出た。こういったことも契機となり1917年4月、アメリカはドイツに宣戦布告した。

アメリカがヨーロッパに送り込んだ200万もの兵によりイギリス、フランス、ロシアの連合軍は勢い付き勝利へと繋がった。

『一冊でわかるアメリカ史』(関眞興)など

このようにアメリカが戦争に直接兵を送るのはかなり後になってからではありましたが、戦争の初期段階から支援という形で戦争に関わっていたわけです。そのため国内では様々な政策が取られましたが、特に注目したいのは当時の連邦税の政策についてです。

当時のアメリカの連邦税については『闘う公認会計士』に詳しく書かれています。

1913年、 アメリカ合衆国において初めて所得税法が成立し、会社の利益と個人の所得に税(基本税率1%)を課した。

第一次世界大戦による歳入不足を埋め合わせるために、1916年9月、歳入法を全面的に改訂し基本税率を個人、会社とも2%に上げた。また所得税以外にも新たな税を設定し、例えば弾薬製造業者に対する特別税(純利益の12.5%)等があった。

1917年3月、大戦への参加が切迫してきたので、陸軍及び海軍を増強する目的で緊急歳入法が成立し超過利得税(投下資本の8%を超える利益について8%の税)を課した。同年4月6日、 アメリカはドイツに対し宣戦布告、戦費調達のため、 10月3日に新たな歳入法を成立させ所得税の基本税率をさらに引き上げた(会社は基本税率6%、個人は4%)

さらに、1919年2月、また新たな歳入法を制定し、所得税の基本税率を更に引き上げた(会社は基本税率12%、個人は6%)。超過利得税も当然引き上げられ、他にも高率の戦時利得税を課した。

会社は、法人税、株式資本金税、不動産税、超過利得税、戦時利得税に加えて特別税、さらに州税や地方税を負担しなければならなかった。

『闘う公認会計士』(千代田邦夫)

高率の税負担に加え、法律は複雑であり管轄する財務省の規則の難解さ等が手伝って、専門家としての会計事務所への需要は著しく増加しました。

アーサー・アンダーセン会計事務所は新しい連邦税が会計事務所の業務に大きな影響を与えることに早くから気づいていました。事務所設立時のアナウンスメントに「連邦所得税法に基づく報告書の作成」を掲げ、最初から税務サービスをメニューとしています。ちょうど1913年3月1日に最初の連邦所得税が発行されその年の12月に事務所を設立した、そんなタイミングでした。

歴史を振り返ると、アーサー・アンダーセンは第一次世界大戦のこの時期に税務サービスを中心に事業を進めていたことが分かります。

二度にわたる歳入法の改正が行われた1917年から18年にかけて、ノースウェスタン大学商学部は連邦税に関する6つの特別講座を開講し、アンダーセン氏は教授としてこの講座を企画・担当しました。この講座には、著名な裁判官、銀行家、会計士、弁護士、企業経営者などが大勢参加したと言われています。アンダーセン氏は連邦税が与える影響の大きさを予見してこのコースを発表していました。

アンダーセン氏の活躍により、アーサー・アンダーセン会計事務所は税務分野における評価をあげました。クライアントへの高品質な税務サービスの提供は、コンサルティングや会計監査といったアーサー・アンダーセンの他の業務での仕事に繋がり、シカゴでの事務所の存在感を一気に高める結果になったのです。

この時期税務サービスを拡大していたのはアーサー・アンダーセンだけではありませんでした。他の大手会計事務所も機会を捉えていましたが、その中でも当時業界リーダーにあったプライス・ウォーターハウス(後のPWC)の場合は、その地位であったこそできる仕事をしました。

第一次世界大戦が始まるとプライス・ウォーターハウスのトップであるジョージ・O・メイと社内の複数人の会計士はワシントンで政府の役職に就いていました。特に1917年の超過利潤税に関しては税務顧問として法律の策定にも関わり、更にはジョージ・O・メイは財務省のコンサルティング業務にも従事するようになっていました。

プライス・ウォーターハウスの場合は業界トップの地位というメリットから、連邦政府での税法の作成に関わりながら、一方では税を負担する側の会社と個人への税務サービスの提供という両面で事業を展開し、アーサー・アンダーセンには決して真似のできない仕事をしていました。

プライス・ウォーターハウスの社史にも戦争中の税務サービスの拡大が記載されています。

超過利潤税の結果、当事務所は税務の仕事をより多く引き受けることになった。所得税等の税率が上がり、税法が改正されるたびに、会計士はビジネス界にとって重要な存在となり、会計士は着実に成長していった。

戦時中、プライス・ウォーターハウスの税務業務は急速に拡大した。戦争産業や税金の問題で、会計士が無限に必要とされるようになったからだ。

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

第一次世界大戦により会計事務所はビジネス界における存在感を増しました。特にシカゴではアーサー・アンダーセン会計事務所が設立後数年で急成長し、この後1920年代にシカゴに見られるコンサルティング発展の土台を作っていました。

(参考資料)
『THE FIRST SIXTY YEARS』(ARTHUR ANDERSEN & CO.)

(第3話)

(第5話)



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