見出し画像

【コンサル物語】行く末は世界最大のコンサルティング会社〜アーサー・アンダーセン会計事務所誕生〜

1913年12月1日、アーサー・アンダーセンは、自身の名を冠し、60年後の今日、世界中にその名を知られることになる会社を設立した。この会社の成功は、創業者のビジョン、勇気、誠実さ、リーダーシップ、そして創業当初から会社の方針を決定するために設定した高い基準によるところが大きい。

『THE FIRST SIXTY YEARS 1913-1973』(ARTHUR ANDERSEN & CO.)

これは1973年に発行されたアーサー・アンダーセン会計事務所の社史の冒頭部分です。

60年後の今日、つまり1970年代前半には世界中で事業を行い、コンサルティング分野では世界最大の会社に成長した会計事務所が誕生した瞬間です。

今回は、2002年に会社は消滅したもののコンサルティングの歴史を語る上で欠くことのできない、アーサー・アンダーセン会計事務所誕生の歴史に迫ってみたいと思います。

事務所設立の前月、1913年11月、アンダーセン氏はノースウェスタン大学の会計学部で学部長兼助教授の地位にありました。(シカゴのある)イリノイ州で会計事務所を経営していた知人が亡くなり、その事務所を買い取る形で大学の職にあるまま会計事務所を経営することを決めました。

1913年11月、イリノイ会計事務所に空きが出ると、アンダーセン氏はこれこそ求めていたチャンスだと思い、12月1日、ディレイニー氏とともに会計事務所を買収し新たにシカゴに自身の事務所を開設した。

『THE FIRST SIXTY YEARS 1913-1973』(ARTHUR ANDERSEN & Co.)

翌月、アンダーセン氏は友人のディレイニー氏とともに知人の会計事務所の営業権とスタッフ8名をわずか4000ドルで買い取り、アンダーセン・ディレイニー・カンパニーを開設しました。アンダーセン氏とディレイニー氏をパートナーとして総勢10名での船出でした。

アンダーセン氏とディレイニー氏は1913年12月1日付で以下のアナウンスメントを行っています。

アンダーセン・ディレイニー・カンパニー 
公認会計士
イリノイ州監査会社
公会計士 

A・E・アンダーセン CPA        電話局 5935 111
C・M・ディレイニー CPA       シカゴ ウェスト・モンロー・ストリート111
                                                  (ハリス・トラスト・ビル)

アーサー・E・アンダーセン ノースウェスタン大学商学部教授
クラレンス・M・ディレイニー

二人は以前プライス・ウォーターハウスに所属していましたが、独立し公認会計士として活動することを発表致します。

・貸借対照表と損益計算書の作成とその分析・解釈を含む定期的な監査
・公告用または銀行への融資申請のための財務諸表の証明
・新規事業への投資または既存事業の拡張の可否を判断するための特別な目的のための調査 
・財務、原価計算および組織の新システムの設計・構築、または既存システムの刷新 
・連邦所得税法に基づく報告書の作成 

イリノイ会計事務所から継続した事業をアンダーセン・ディレイニー・カンパニー公認会計士として行います
シカゴのハリス・トラスト・ビルに事務所開設
1913年12月1日

(参考)アナウンスメントの原本

(参考)1911年の設立時のハリス・トラスト・ビル(Wikipediaより)
アンダーセン・ディレイニー・カンパニーは最上階の2室を事務所として借りた

アナウンスメントには注目すべき興味深い点がいくつかあります。

一つは最初に書かれている自分達が何者なのかを紹介する部分です。アンダーセン氏はノースウェスタン大学商学部(後のケロッグ経営大学院)の教授という触れ込みはあるものの、実業の世界では二人は無名の会計士に過ぎません。仕事を得るために元プライス・ウォーターハウスの会計士であるということで信頼を得ようとしていることがわかります。

プライス・ウォーターハウス(後のPWC)は19世紀後半にロンドンで会計事務所として成功し、当時堅調なアメリカ経済に多額の投資を行っていたイギリスの資本家達の要求もあり、1890年、ニューヨークに事務所を開設しました。アメリカ進出後も順調に事業を拡大し、20世紀に入ると大手会計事務所としてアメリカを代表するいくつもの企業を顧客に持つようになっていました。

1910年代にはプライス・ウォーターハウスの社員は150名を超え、アメリカ国内のオフィスは11ヶ所を数えました。名実ともにアメリカ会計士業界をリードする会社でした。大手会計事務所のブランドを利用した宣伝でした。

アナウンスメントで注目すべきもう一つの内容は、事業内容として「財務、原価計算および組織の新システムの設計・構築、または既存システムの刷新」を明確にし、コンサルティング注力の姿勢をはっきりと打ち出していることです。

アーサー・アンダーセン会計事務所が設立時からコンサルティングに力を入れていたことは、多分に設立者のアンダーセン氏の考えによるところが大きく、彼が考える会計士の姿はおよそ次のようなものでした。

会計とは数字の背後にある事実をつかみ分析し解釈することだ。正しい会計では何が行われたかを知るだけでは十分ではなく、何が行われるべきかまで知るべきなのだ。

従って会計を職業とする会計士に求められるのは、技術的なサービスで財務諸表を監査することだけではなく、最も重要なことは数字の背後にある営業の実態に目を向け経営者に役立つ建設的な報告をすることである。会計士の仕事は監査で終わるのではなく、むしろそこから始まる。そのために会計士は経済の原理、財務や経営組織の原理について理解を持たなければならない。

『闘う公認会計士』(千代田邦夫)
『アーサー・アンダーセン消滅の軌跡』(S・E・スクワイヤー/C・J・スミス/L・マクドゥーガル/W・R・イーク 平野皓正 訳)

コンサルティングも含めた新しい会計士像で事務所経営のビジョンを打ち出したアンダーセン氏に対して、伝統的な大手会計事務所はアンダーセン氏の果敢な行動に対して懐疑的な反応を示しました。

例えば、業界リーダーのプライス・ウォーターハウスからは、会計士は監査のみをやるべきで他に手を出すべきではない、と忠告を受けていました。会計監査とコンサルティングという対立する利害関係から、大手会計事務所は慎重な態度を取っていたのです。

当時の2社を比較すると、社員数ではアンダーセン10名に対してプライス・ウォーターハウスは150名、売上・利益規模ではアンダーセン約45,000ドルに対してプライス・ウォーターハウスは約240,000ドル(この数字が売上か利益かは不明)であり圧倒的に規模の差がありました。

それにもかかわらず、この忠告に関していえばアンダーセン氏は聞き入れることはありませんでした。そして十分に訓練された彼の事務所の会計士であれば問題を起こさない、と自信を持って進めたのです。

そのためアンダーセン氏は非常に強い意志と高い質を事務所メンバー全員に要求しました。そして彼が求めるレベルに到達しないものは容赦なく脱落させていきました。事務所設立時にイリノイ会計事務所から引き継いだスタッフ8名のうち2名はすぐに入れ替えを行いました。また、一緒に事務所を設立したディレイニー氏に対してさえも、彼が帳簿係の域を超えないという理由から、排除、退職させるということをしました。

アンダーセン氏が設立した会計事務所は、彼の強権の下、強く厳しい意志で統率されたメンバーを従え動き出し、その後大躍進をしていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?