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Big4コンサルティングの歴史 第9話(コンサルティング拡大編 1960年代アメリカ)


本編(第9話)のあらすじ

1960年代には大手会計事務所のコンサルティング部門はますます拡大しました。ブーズ・アレン・ハミルトンやマッキンゼーといったコンサルティング専門会社も会計事務所の存在を無視できなくなります。外から見える会計事務所は順調に成長しているように見えましたが、その内部では大きな変化が起こり始めていました。

コンサルティング業界の概観

1960年代、大手会計事務所のコンサルティング部門は、1950年代から続くシステムコンサルティングをますます拡大していきました。それは当時のアメリカ経済の好調さに支えられていたようですが、会計事務所やコンサルティング会社から見た1960年代のアメリカ経済はどの様なものだったのでしょう。

1960年代は豊かな時代だった。この時期、アメリカ経済は好調で、国内での事業拡大が進み、海外ではワールドワイドなアカウントサービスが盛んになった。また、会計士が提供できるサービスの幅を広げるために、電子機器の普及が始まり、税制の改正が相次ぎ、税理士業務の拡大が促された。この10年間は、アメリカ的な生活の優位性を証明するような、大きな期待を抱かせる10年であった。

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

1960年代の目まぐるしい変化を支え、加速する原動力にもなった一つが、ビジネス界に広く導入されたコンピューターでした。1960年半ばまでには、アメリカの大企業上位500社の半分以上が大規模なコンピューターシステムを導入していたと言われています。コンピューターが会計システムに与える影響が大きくなり、その結果、会計事務所が提供するコンピューターの専門知識を伴う経営アドバイス、システムコンサルティングの案件が急増しました。この頃には、全てのBig8会計事務所にMAS部門(マネジメント・アドバイザリー・サービス部門=コンサルティング部門)が設置され、そのほとんどが200人以上のコンサルタントを抱えるようになったと言われています。

ただし、コンピューターを使ったコンサルティングで地位を維持することは会計事務所にとっては易しいことではなかったようです。

会計士がその役割を維持するためには、コンピューターソフトウェアが提供する統計処理について一般的に理解し、少なくともコンピューターの動作について一般的な知識を身につける必要があった。コンピューターの技術革新の速さ、人材確保の難しさから、この分野で成功しようという強い意志を持った会計事務所だけが、実際に成功することになった。

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

この分野で成功しようという強い意志を持った会計事務所、その一つは紛れもなくアーサー・アンダーセン会計事務所(後のアクセンチュア)でした。

Big8会計事務所がコンサルティング部門を拡大していたこの時代、後に戦略コンサルティングファームと呼ばれるようになる経営コンサルティングを専門にする会社にとっても、会計事務所の影響がありました。経営コンサルティング会社に与えた脅威について見ていきたいと思います。

1960年頃のアメリカの代表的な経営コンサルティング会社として、シカゴに本拠をおくブーズ・アレン・ハミルトン社、ニューヨークを地盤とするマッキンゼー・アンド・カンパニー社、ニューヨークに本部をおくクレサップ・マコーミック・アンド・ペイジットの3社が挙げられます。3社は絶頂期を迎えており、自らを経営コンサルティング会社のBig3(ビッグスリー)と呼んでいました。経営コンサルティング会社の地位も、大手会計事務所や法律事務所等と同様に、アメリカ経済を支えるインフラとしてアメリカ国内で重要な地位を占めるようになっていました。

ブーズ・アレン・ハミルトン社は、シカゴのノースウェスタン大学で心理学を修めたエドウィン・ブーズ(当時27歳)によって、1914年シカゴで設立された財務調査会社から発展したコンサルティング会社です。アーサー・アンダーセン社(1913年設立)、マッキンゼー社(1926年設立)とともに1910年代~1920年代のシカゴにルーツを持つ経営コンサルティング会社の一つです。『The World’s Newest Profession』によると、1960年までに42人のパートナー、300人のコンサルタントを抱え年間1200万ドルの売上を上げていました。

マッキンゼー社はシカゴ大学で会計学を教えていたジェームス・オスカー・マッキンゼー(当時37歳)により1926年にシカゴで設立されました。マッキンゼー社は、設立当初こそ財務調査をベースに会計コンサルティングや経営エンジニアリングを主力サービスにしていましたが、1930年代に中興の祖マービン・バウアー氏の方針により、会計離れを進めていきました。『The World’s Newest Profession』によると、1960年までに32人のパートナー、165人のコンサルタントでブーズ社の半分の675万ドルの売上を上げていました。

そしてクレサップ・マコーミック・アンド・ペイジット社は、ブーズ・アレン・ハミルトン社の初期メンバーであったリチャード・ペイジット氏、マーク・クレサップ氏、マコーミック氏の3人がブーズ社を抜け、1946年にニューヨークに設立した会社です。『The World’s Newest Profession』によると、クレサップ・マコーミック・アンド・ペイジット社はマッキンゼーのさらに半分の規模、75人のコンサルタントとおよそ210万ドルの売上でした。

1960年代、3社に代表されるような経営コンサルティング会社も大きく発展をしていました。しかし、それと同じぐらい会計事務所のコンサルティング部門も成長していたため、経営コンサルティング会社にとっての脅威になっていました。

公認会計会社の脅威はますます大きくなっている。マネジメント・サービス(コンサルティング)による収入の面では、その首位を占める4つの会社のうち2つがBig8会計事務所であり、さらに上位9社のうち3社が、そして上位29社のうち8社が、それぞれBig8会計事務所である。そのうえ、Big8会計事務所のマネジメント・サービス(コンサルティング)部門はきわめて急速に拡大しつつあるので、それが阻止されなければ、いずれ名門コンサルティング会社が圧倒される恐れさえある。「わが社のマネジメント・サービス部門にはざっと700人の人間がいる」と、Big8会計事務所のある会社の共同経営者が教えてくれた。

『ビジネスの魔術師たち』

経営コンサルティング会社がBig8会計事務所の存在に脅威を感じていた理由は他にもあったようです。会計事務所には経営コンサルティング会社にはない強みがあったからです。

一つはBig8が会計事務所であるということです。Big8のコンサルティング部門が顧客からコンサルティングの依頼を受けた時、すでに会計監査を行っている顧客であれば顧客のことを熟知しているわけです。これはコンサルティングサービスを提供するうえで有利に働いたことでしょう。また、顧客側もコンサルティング会社のことを既に知っていることで、不安を除くことができるわけです。知らない人が社内に入り込んで来るより、顔見知りの人が来る方が安心するものですから。

また、会計事務所の方が経営コンサルティング会社に比べて、圧倒的に規模が大きかったということも強みだったでしょう。当時、プライス・ウォーターハウス社(後のPWC)はアメリカ国内に40か所近い事務所をもち、中南米、ヨーロッパ、アジア等にも100か所以上の事務所を構えていました。アーサー・アンダーセン社はアメリカ国内で34か所、アメリカ以外で26か所の事務所を構えていました。

一方経営コンサルティング会社は、例えばマッキンゼー社は1950年代から海外展開を急速に進めましたが、イギリス、フランス、スイス、オランダ、ドイツ等の主要都市に留まっていました。ファームにおいて司令塔となるパートナーの数を比べても、当時のプライス・ウォーターハウスには既に100人以上(コンサルティング部門以外も含む)のパートナーがいましたが、マッキンゼー社は32人でした。

安定した顧客基盤を持っているかどうかも重要でした。顧客のプロファイリングを見ると、安定した顧客が会社のビジネスの大部分を占める会計事務所とは対照的に、ブーズ・アレン・ハミルトン社の顧客の75%はリピーターではありませんでした。そして、顧客の業界もかなり偏っており、ブーズ・アレン・ハミルトン社では政府機関や非営利団体の仕事がそれぞれ全体の3割を占めていたようです。経営コンサルティング会社はかなり偏った顧客プロファイリングだったことが分かります。

このように、1960年代に業界で15%という驚く程の成長をしたと言われる経営コンサルティング業界ですが、会計事務所のコンサルティング部門には、彼らを脅かす脅威が多少なりともあったことが分かります。その脅威は1970年代以降更に大きくなり、会計事務所のコンサルティングは上げ潮の勢いで発展していくことになります。

(参考資料)
『ACCOUNTING FOR SUCCESS』(DAVID GRAYSON ALLEN / KATHLEEN MCDERMOTT)
『The World’s Newest Profession』(Christopher・Mckenna)
『ビジネスの魔術師たち』(ハル・ヒグドン 著 鈴木主税 訳)

会計事務所のコンサルティング拡大

プライス・ウォーターハウス(後のPWC)

1960年代、Big8(ビッグエイト)会計事務所※のコンサルティング部門の中には、大手経営コンサルティング会社(ブーズ・アレン・ハミルトン、マッキンゼー、クレサップ・マコーミック・ペイジット等)を脅かす会社もありました。

※1960年代当時、アメリカに存在した8つの大手会計事務所のことで、ピート・マーウィック・ミッチェル、アーサー・アンダーセン、アーンスト・アンド・アーンスト、プライス・ウォーターハウス、ハスキンズ・アンド・セルズ、ライブランド・ロス・モンゴメリー、アーサー・ヤング、トーシュ・ロスの各社。後にDeloitte、PWC、EY、KPMGへと統合される

システムコンサルティングを売りに成長著しかった会計事務所の中から、プライス・ウォーターハウス(後のPWC)のコンサルティング部門の1960年代の歴史にスポットを当てたいと思います。そこには、事務所の売上拡大につながっている一方で、会計事務所がコンサルティングを推進する難しさも垣間見ることができます。

1960年代にはアメリカの大企業上位500社の半分以上が大規模なコンピューターシステムを導入し、システムコンサルティングの専門家は、いわば大企業が生存するために必要不可欠なものになっていたと言われています。

そのため、コンピューターが企業の会計業務に与える影響が大きくなり、Big8を始めとする会計事務所にとって、コンピューターを利用したコンサルティング案件の数も急増していました。1960年代初頭には、すべての主要な会計事務所にMAS(マネジメント・アドバイザリー・サービス=コンサルティング)部門ができ、そのほとんどが200人以上のコンサルタントを抱えるようになっていたと言われています。

プライス・ウォーターハウスも1946年にジョセフ・ぺレジ(joseph pelej)氏がコンサルティング専門組織としてシステム部(8年後にMAS部に改称)を立ち上げていました。20年後の1966年にはスタッフ数は250人に達し、課金時間※も12倍に増えていました。プライス・ウォーターハウスのコンサルティング部門はその年の6月、ボストンに集まり20周年を祝ったそうです。

※コンサルティング会社は一般的に顧客へのサービス提供時間(ここでいう課金時間)に時間単価を掛けた金額を請求額とするため、課金時間の増加率は売上の増加率をある程度反映する指標と見込めます。

当時のプライス・ウォーターハウスが行っていたコンサルティング案件にはどのようなものがあったのでしょうか。同社の社史『ACCOUNTING FOR SUCCESS』にいくつか書かれていますのでご紹介したいと思います。

1960年代には、大規模で珍しい、興味深いコンサルティングの仕事が急増した。例えば、アメリカン・ミューチュアル・ライアビリティ・インシュアランス(保険会社)では10年にも渡るシステム開発のレビュー、インターナショナル・ニッケル(非鉄金属メーカー)でのグローバルシステムの研究などである。また、コンソリデーテッド・エジソン社(電力会社)では顧客システム(クレーム、与信、回収等)のプロジェクト、ミネラ・フリスコ社(鉱山会社)では鉱山操業計画のための数理モデル開発などを行った。

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

プライス・ウォーターハウスの初期のコンピュータの仕事は、コンピュータを導入すべきかどうか、導入するとしたらどのような種類のコンピュータを導入するのかという顧客の基本的な疑問に答えることが中心だったようです。競合他社であるアーサー・アンダーセン(後のアクセンチュア)が行っていたような、コンピューターの導入支援自体をコンサルティングをすることは殆どありませんでした。

このようにコンサルティング案件を拡大していく中で、会計事務所がコンサルティング案件を実践する難しさというものが出てきました。

一つは、システムコンサルティングの仕事が増える一方で、事務所の会計士の中にはそれを面白く思わない人もいたことです。この事は、コンサルティング部門を抱える会計事務所内で会計士とコンサルタントの間に徐々に緊張感を生み出していった一因になりました。

コンピューターは会計士にジレンマをもたらし、脅威と機会の両方をもたらした。コンピューターのスピードと正確性は明らかだった。手作業で3,125時間、つまり約78週間かかっていた集計・検証作業が、コンピューターを使えば2時間強で完了する。コンピューターを使うことで自由度を高めた会計士は、企業の経営者に定量的なアドバイスを提供することができた。

しかし、一部の会計士は脅威としか考えていなかった。コンピューターは自分たちの伝統的な機能をなくし役割を降格させるかもしれない、会計士が統計学者や技術者などの専門家にその座を譲ることになるかもしれないと。会計士はその役割を維持するために、コンピューターが提供する処理について理解し、コンピュータの動作について知識を身につける必要があった。

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

会計事務所がコンサルティング案件を実践する難しさは人材にもありました。コンピューター技術の急速な発展に精通した技術者、コンサルタントを確保することは非常に難しいものだったからです。

プライス・ウォーターハウスでも事務所を構成するメンバーは会計士が中心です。ところがコンピューターの技術革新は激しく、コンサル案件を実践するには多くの専門技術者が必要でした。

1950年代には、パンチカードのスペシャリストを数人雇っていたが、1960年代のコンサルティング部門は、非公認会計士が約3分の2を占める部門となった(250人のコンサルティング部門スタッフのうち160人以上がもはや会計士ではなかった)

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

プライス・ウォーターハウスでは、コンピューターに精通した人材を確保するために、社内の人材を教育する方法とコンピューター会社で働く人材を採用する方法を取っていました。実際のところ、社内人材を教育するには時間がかかるため、外部から即戦力の専門家を採用する方法が良いのですが、ここでも会計事務所ならではの難しさがありました。

それはコンピューターの専門家であっても公認会計士の資格がなければプライス・ウォーターハウスではパートナー(社内での最高職位)に昇格できなかったということです。そのため、コンピューターの専門家を集めるのは難しく、特に定着させるのは困難でした。

当時のプライス・ウォーターハウスは伝統を重視する集団でしたので、会計事務所の主役はあくまで公認会計士であるという考えを変えることはありませんでした。1960年代まで、公認会計士の資格を持たないコンサルタントにはパートナーへの昇格は認められませんでした。

その代わりに、MASプリンシパルという新しいカテゴリーを設け、公認会計士の資格を持たないがパートナー相当として認められる者をここに昇進させました。MASプリンシパルは、ほとんどの点でパートナーと同様に扱われましたが、パートナーシップに関する議決権は与えられていなかったため、実質的には経営に参加することは認められていませんでした。

1960年代において、会計事務所を支配するのは公認会計士だという考えは、何もプライス・ウォーターハウス固有のものではありませんでした。その考えの下では、新興のコンサルタントは自由を制限され、いわば肩身の狭い思いをしていました。これは会計事務所がコンサルティングを発展させていく様々な場面で出てくる難しさでした。

この考えを改め、コンサルタントを自由にするとコンサルティング展開の進展も早かったのでしょうが、会計事務所としての統制は取れなくなる危険がありました。プライス・ウォーターハウスはしばらくの間、公認会計士がコンサルタントの手綱をしっかり握り、コンサルタントを支配することを選択し、会社を完全に統制していました。

一方でライバル会社のアーサー・アンダーセンはこの手綱を早々に緩め、コンサルタントを自由に振る舞わせることで、コンサルティング事業を一気に拡大していった歴史があります。

プライス・ウォーターハウスの保守的な動きに比べ、超攻撃的な展開を進めていったアーサー・アンダーセンの1960年代の動きについて、続けたいと思います。

(参考資料)
『ACCOUNTING FOR SUCCE』(DAVID GRAYSON ALLEN、KATHLEEN MCDERMOTT)

アーサー・アンダーセン(後のアクセンチュア)

1960年にはBig8(ビッグエイト)のなかで売上2位にまで大躍進したアーサー・アンダーセンですが、その勢いは1960年代も止まることはなかったようです。

Big8ランキング(1960年)
※会計事務所(監査+税務+コンサル)での売上順

参考資料:『闘う公認会計士』

アーサー・アンダーセン会計事務所はエンロン事件を経て2002年に消滅していますので、ご存じない方が多いかもしれませんが、コンサルティング部門は1942年に会計事務所内に設立され、1989年の分社化後アクセンチュアとして存続しています。

数字を見ると1960年代の拡大の凄さが分かります。1960年代のアーサー・アンダーセンの売上、パートナー数、社員数の変化はこのようになります。(パートナーとは、パートナーシップ形態の組織における最上位タイトルであり、経営に参画する人々を指します)

『THE FIRST SIXTY YEARS 1913-1973』『アーサーアンダーセン崩壊の軌跡』から作成

この数字は、会計事務所での監査・税務・コンサルティングの全ての領域を含んだ数字です。ちなみに、1950年代の終わりから1960年代の間、コンサルティング・サービスはアーサー・アンダーセン全体の売上の約20%を占めていました。他のBig8会計事務所のコンサルティングの割合が10%に満たなかったことと比較すると、アンダーセン社がいかに突出していたかが分かります。

アーサー・アンダーセンは1970年代に世界最大のシステムコンサルティング会社になりますが、直前の1960年代にアーサー・アンダーセンがコンサルティング部門強化のために行ったことを二つご紹介したいと思います。

一つは、コンサルティング部門として統一性・一体性を強化しファームにとって非常に重要なレバレッジ(パートナー数とスタッフ数の比率)を向上させたことです。

アンダーセン社は当時既に生産管理・原価計算・オペレーションズ・リサーチ等の八つものコンサルティング分野を社内に持っていました。ただ、各分野のパートナー達は各分野の専門家として独自の流儀を取るためまとまらず統一性が不足していました。5年後、10年後を見据えたコンサルティングとして統一した戦略を立てる必要がありました。

業務に統一性をもたらすため、幹部達は「アーサー・アンダーセン方式」に従ってコンサルティングの各分野を教えるガイドブックを作成した。これにより、アンダーセンは、ある仕事に世界中のどの事務所のコンサルタントを派遣しても、同じやり方で仕事をすることができるようになった。

『ビッグ・シックス』

アーサー・アンダーセンのこのやり方は、時にアーサー・アンドロイドと揶揄されることもあったようですが、アンダーセンがコンサルティング売上を拡大することに貢献したのは間違いないようです。

コンサルティングに戦略的統一性を持たせるために、アンダーセン社は更に手を打ちました。コンサルティング案件をすべてコンピューターを共通とするもので徹底したことです。

1960年代、他の大手会計事務所は当時経営コンサルティングのBig3と呼ばれていたブーズ・アレン・ハミルトン、マッキンゼー、クレサップ・マコーミック・ペイジットの真似をしようとしていましたが、アンダーセン社はシステムコンサルティングに絞ることで、一人のパートナーが大勢のスタッフを管理できる仕組みを強化しレバレッジを高めました。

アンダーセン以外の大手会計事務所のほとんどは、マッキンゼーやブーズ・アレン・ハミルトンがしているような戦略的計画タイプのコンサルティングを真似しようとしていたが、アンダーセンは大規模なコンピューター・システムの仕事に焦点を当てていた。

このことは、ライバル事務所に比べ、アンダーセンのレバレッジを一段と高めることになった。戦略的計画の仕事には、パートナーが相当深く参画することが必要なので、レバレッジが低くなる。しか し、アンダーセンのコンサルティング部門は、その逆であった。そこでは、大勢のスタッフが大部分 の仕事をして、パートナーの参画が少なくてすむので、レバレッジを大幅に高めることができた。

『ビッグ・シックス』

アンダーセン社のコンサルティング戦略は、同社を最強のシステムコンサルティング会社に高めただけではなく、会社の売上にも多大な貢献をし非常に成功しました。

アーサー・アンダーセンは、大勢のコンピューター専門家からなる巨大なSWAT隊としてコンサルティング業務を行っていた最初の事務所であったため、すぐにデータ・プロセシングの「海兵隊」(米国最強の軍隊)の異名を取るようになった。

『ビッグ・シックス』

そんな好調なアーサー・アンダーセンは1960年代初めに、後々の事務所の運命に関わる重要な決定を行っています。これが二点目です。

それまでの社内ルールでは、アンダーセン社でコンサルタントになるためには、入社後最低2年間は監査部門に勤務し会計士としての仕事、しきたり、伝統を身につけることが求められていました。ルールの意図するところは、アンダーセン社のプロフェッショナルの一員として認められるためには、会計士のように考え、行動しなければならない、というところです。それまでは、アーサー・アンダーセンはあくまで会計事務所であるということを強く主張していたのです。

このルールが廃止され、コンサルタントとして入社したものは監査を経験することなく、すぐにコンサルティングの仕事を始めることができるようになり、様々なメリットがあったことは確かなようです。しかし、アーサー・アンダーセンという会計事務所が共通の価値観としていたもの(=会計士のように考え、行動すること)がなくなり、監査部門もコンサルティング部門も互いに我が道を行くという結果につながっていきました。

アンダーセンは、後々の事務所の運命に関わってくるような重要な決定を行った。
(中略)
アンダーセンがルールを変えたのは、コンサル ティング部門に移るのが分かっている新人を監査実務を通して研修することに対し、監査部門の不満が強かったためだという。
(中略)
結果として、アンダーセンは余計なことをしてしまった。時が経つにつれ、一大勢力に成長したアンダーセンのコンサルタントたちは、監査部門の同胞たちと共通なところを何も持たなくなった。
(中略)
互いに自分の分野だけに専念し、他方の側の考え方や生き方を知ろうという意欲はほとんどなかった。かつては互いに仲間意識を持った二種類のプロフェッショナルがいたのに対し、今や互いに我が道を行く二つの党派が存在するのであった。

『ビッグ・シックス』

1960年代の初め、 アーサー・アンダーセン事務所はある重大な意思決定を行った。
(中略)
この意思決定のもつ意味は重要である。 それは、コンサルティングスタッフにとっては、監査実務は 「未知の領域」となってしまったからである。 彼らは同じ事務所の「会計士の友人」を失ってしまったのである。

『闘う公認会計士』

1960年代当時、アーサー・アンダーセンだけではなく、他のBig8会計事務所においても、このコンサルティング部門の扱いに悩んでいたところはあったようです。プライス・ウォーターハウス(後のPWC)は会計士が支配する事務所運営を続けるため、アンダーセン社とは違いコンサルタントをしっかりコントロールしていました。

アーサー・アンダーセンが決定したルール変更の効果は絶大で、後に同社がコンサルティングの覇者となっていくきっかけの一つとも言われています。ただし、このときから社内には監査とコンサルティングという2つの潮流がうまれ、両者の間に亀裂が生じ始めてしまいました。

この亀裂は次第に大きくなり、最終的には四半世紀後にコンサルティング部門が分社化するという結果に繋がっていきました。冒頭にお話しした1989年の分社化によるアンダーセン・コンサルティング社の誕生、2000年のアクセンチュアへの社名変更へと会社は分裂していきました。

(参考資料)
『THE FIRST SIXTY YEARS』(ARTHUR ANDERSEN)
『アーサーアンダーセン消滅の軌跡』(S・E・スクワイヤ/C・J・スミス/L・マクドゥーガル/W・R・イーク 平野皓正 訳)
『ビッグ・シックス』(マーク・スティーブンス著 明日山俊秀・長沢彰彦 訳)

(第8話)

(第10話)



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