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【コンサル物語】アメリカン・コンサルティング①(19世紀末~20世紀初頭)

 19世紀後半にイギリスからアメリカに渡った会計事務所、会計士達は、好調なアメリカ経済に支えられたこともありアメリカで事業を拡大していきました。手にかける仕事の範囲も広げ、会計システム業務などの新しい分野に進出し、革新的な仕事を受けるところも出てきました。そのような仕事のなかには、後の経営コンサルティングにつながるものもありました。

 アメリカのビジネス界で生きていくため、イギリスでの伝統的な会計事務所の流儀をアメリカ流に変えていくことも求められました。ロンドンでは座って待っていても仕事が舞い込んで来ましたが、ニューヨークではそうはいきません。マーケティングやプロモーションを試みて事務所を売り込んでいく必要がありました。ロンドンでは事務所の告知、宣伝は公認会計士協会の原則に反すると受け取られましたが、アメリカの会計事務所は、皆、当然のように行っていました。イギリスとアメリカでは会計ビジネスのやり方も違っており、同じ名前の会計事務所でも、両国では違うものに変える必要がありました。

 アメリカでは積極的に仕事を取りにいくことを求められたことから、イギリスからきた会計事務所は自然と本業の監査以外にも業務を拡大していきました。そういうことも会計事務所がコンサルティング・サービスを始めた理由の一つと考えられるのではないかと思います。当時、会計事務所が始めたコンサルティング・サービスは主に「財務調査」と「会計システムのアドバイザー」でした。

 財務調査サービスは、アメリカで合併事業やベンチャー企業への資金を提供する銀行(J.P.モルガン等)が、投資先を評価するために財務情報の調査を会計士等の専門家に頼るようになったことから始まりました。

 また、会計システムのアドバイザーサービスは、19世紀末に企業のオフィスで急速に進んでいた事務作業の機械化、例えばパンチカードの導入やタビュレーティングマシーンの導入の支援のために帳簿の専門家である会計士を頼ったということでしょう。

 ロンドンからニューヨークに渡ったプライス・ウォーターハウス(後のPWC)会計事務所も20世紀初頭には様々なコンサルティング案件に関わっていました。そこには、合併調査、簿記システム、予算編成、業務改善、原価計算などのコンサルティング、会計システム導入のアドバイス等が含まれていました。そのため、会計士はビジネス・アドバイスのための職業であると社内では言われていたようです。

 記録が残っている中から、プライス・ウォーターハウスが担当した具体的なコンサルティング案件をご紹介します。

・J.P.モルガンからの農機具メーカー5社の会計調査案件(1902年)
・ミネアポリス市の会計・簿記システムのコンサルティング案件(1903年)
・生命保険会社の財務調査、業務改善コンサルティング、会計システムの導入案件(1905年)
・アメリカ郵便局の会計調査と改善コンサルティング、会計システムの導入案件(1907年)
・映画会社の会計調査、会計システム導入案件など

 事業の順調な発展により、アメリカのプライス・ウォーターハウスのオフィスの従業員数は1901年の24人から1903年には73人に増え、10年後の1911年には145人に増えました。オフィスの数も2ヶ所(ニューヨーク/シカゴ)から11ヶ所に増え、その成長ぶりが伺えます。

 ここまで、経営コンサルティングにつながる仕事を20世紀初頭の会計事務所が行っていたことを見ましたが、アメリカのコンサルティング全体の歴史の中で、19世紀末~20世紀初頭はどのような時代でしょう。『The World's Newest Profession -20世紀の経営コンサルティング-』(クリストファー・マッケナ著)では当時のアメリカにおけるコンサルティングの様子を次のように説明しています。

 19世紀末のコンサルティングはどこから始まったのか。それは大手コンサルティング会社の本拠地であるシカゴでもなく、大企業の本社があったニューヨークでもなく、フレデリック・テイラーが初めて科学的管理法を開発したフィラデルフィアでもない。それは、アメリカで第二次産業革命の先陣を切ったマサチューセッツ工科大学(MIT)の技術者たちが、コンサルティング・エンジニアリング会社を設立したボストンで始まった。

 1870年代以降、アメリカで第二次産業革命が起こると、化学、物理の学者や専門家が、新興メーカーでコンサルタントとして仕事をするようになっていた。企業は技術者を短期間のコンサルタントとして、あるいは長期的な研究スタッフとして雇った。デュポンやイーストマン・コダックのような技術的に最も進んだ企業が、19世紀末に主要な工学部、特にMITと密接な関係を築いていった。

 このことは、1880年代にMITの卒業生がボストンで設立した2つのコンサルティング・エンジニアリング会社の急成長からも分かる。化学エンジニアのアーサー・D・リトルが1884年にMITを中退して設立したアーサー・D・リトル社と、電気エンジニアのチャールズ・ストーンとエドウィン・ウェブスターが1888年にMITを卒業して設立したストーン&ウェブスター社である。それぞれ最先端の技術について大企業と協力し、ハイテクへの投資について金融機関に助言を行うようになった。

 ボストンを拠点とするこの2社は、MITやハーバードの教授との強いつながりとボストンの銀行が新興メーカーへの融資で優れていたということもあり、特に成功した。

 ボストン以外にはフレデリック・テイラーがいた。テイラーは、アーサー・リトル、チャールズ・ストーン、エドウィン・ウェブスターが大学を終えるおよそ10年前の1874年にエンジニアとしてのキャリアをスタートさせている。テイラーはフィラデルフィアの機械工として教育を受け、ボストンのコンサルタントとは一線を画すことになる。テイラーはやがて、新興メーカーの研究開発ではなく、鉄鋼などの伝統的な産業における労働生産性のコンサルティングによって、ボストンのライバルたちよりもはるかに有名になった。

『The World's Newest Profession』
(Christopher D. McKenna 著)

 当時のアメリカでは、ボストンのアーサー・D・リトル社とストーン・アンド・ウェブスター社、フィラデルフィアのフレデリック・テイラー等がアメリカで最初のコンサルティングを企業に提供し始めていました。これはコンサルティングの起源を説明するものとしてはあまりに有名な話です。我々日本人も書籍やインターネット上で目にしていることでしょう。著者のマッケナ氏(Dr Christopher McKenna | Faculty of History (ox.ac.uk))の説明で興味深いのは、これらの会社や人物はアメリカで最初のコンサルタントであったとしても、現代のコンサルタントにつながるものではないと言っていることです。

 1944年、フォーチュン誌が、経営コンサルティングの特集を組んだとき、その記事には、この分野の起源に関するありきたりな説明が含まれていた。フォーチュン誌は「米国での経営コンサルティングの発展は、フレデリック・W・テイラー、 ヘンリー・L・ガントなどの科学的管理のパイオニアたちから始まった」と説明した。注意しないといけないことは、1930年代以降急成長するアメリカの主要な経営コンサルティング会社は、テイラー主義の会社から発展したのではなく、科学的管理とはほとんど、あるいはまったく関係がないということだ。

 ボストンのアーサー・D・リトル社やストーン&ウェブスター社を、経営コンサルティングの原型と考えるには無理がある。アーサー・D・リトル社は研究開発との結びつきが強く、コンサルタントは技術者であった。これに対して、ストーン・アンド・ウェブスターは、発電産業という特定産業でしか活動できなかったからだ。テイラーの科学的管理にも、労働者心理、職場と道具のデザイン、賃金システム、原価計算という少なくとも4つの異なる研究分野があるが、おそらくテイラーの中で最も認識されていない要素である原価計算においてこそ、ボストンやフィラデルフィアのエンジニアとその後に続く現代の経営コンサルタントが結びついている。1901年から1915年にかけて、アメリカでは著名な科学的管理の推進者たちが200社近いアメリカの企業に科学的管理を導入したが、その後は徐々に衰退していった。

『The World's Newest Profession』
(Christopher D. McKenna 著)

 19世紀末〜20世紀初頭、ボストンやフィラデルフィアでエンジニアを中心としたコンサルティングが行われ、一方で会計士を中心とした会計アドバイザリー業務も始まっていました。コンサル物語では、それをアメリカのコンサルティングの歴史として進めていきます。

(参考資料)
『ACCOUNTING FOR SUCCESS』(DAVID GRAYSON ALLEN / KATHLEEN MCDERMOTT )


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