見出し画像

【コンサル物語】コンサルティングサービスを禁じられた会計事務所 1930年代アメリカ

世界恐慌をきっかけにアメリカで制定された銀行法(1933年)、連邦証券法(1933年)、証券取引所法(1934年)といった法律は、コンサルティング業界を大きく転換させるきっかけになりました。それまでコンサルティングサービスを提供してきた銀行や会計事務所がコンサルティングサービスの提供を禁止され、代わりにマッキンゼー社を始めとするコンサルティング専門会社が参入し、1930年に100社程度あった経営コンサルティング会社は、1940年には400社にまで増える結果になりました。これが1930年代のアメリカのコンサルティング業界の一面と言うことができます。

歴史的には、後年、会計事務所はコンサルティングに再参入をする訳ですが、それは第二次世界大戦の終結とビジネスコンピューター時代の幕開けを待つ必要がありました。プライス・ウォーターハウス(後のPwC)やアーサー・アンダーセン(後のアクセンチュア)等の会計事務所は、コンサルティングから距離をおきつつも、後の再参入のきっかけになると思えるような出来事もあり、そんな話を見ていきたいと思います。

それぞれの会社の話に入る前に、当時のアメリカの大手会計事務所ランキングをご紹介します。21世紀にはBig4(Deloitte、PWC、KPMG、EY)と呼ばれるプロフェッショナル・ファームも、当時はまだ合併前のいくつかの会計事務所として存在していました。監査クライアント数のランキングは最古参のプライス・ウォーターハウスが断トツ1位でした。

会計事務所ランキング(1932年)
※NY証券取引所の監査クライアント数の順位

※Accentureは1989年にコンサルティング部門から独立した会社。会計事務所自体は2002年に消滅(参考資料)『闘う公認会計士』

当時の会計士業界の巨人であり名実ともに業界リーダーだったプライス・ウォーターハウス(後のPWC)、一方ランキングは最下位の8位だったものの成長著しいアーサー・アンダーセン、両社のコンサルティングに関係する話をご紹介したいと思います。

まずは、プライス・ウォーターハウスについての話になりますが、会社にとってはあまり思い出したくないものでしょう。業界リーダーも見逃した大粉飾事件、マッケソン・ロビンス社の粉飾事件(1838年)です。

マッケソン・ロビンス社は元々1833年にニューヨークで設立された薬と酒の製造をする普通の会社でした。90年間ほど創業一家により経営されていましたが、1920年代半ばに一人の男に100万ドルで会社は売却されました。会社を買ったドナルド・コスターと名乗る人物こそ、悪名高いイタリア人詐欺師のフィリップ・ムジカ(※)だったのです。

※ フィリップ・ムジカは1877年イタリアで生まれ、7歳のときニューヨークに移住、その後リトルイタリーで育つ。1938年のマッケソン・ロビンス事件の首謀者として最も知られており、有罪判決がほぼ確定した時には懲役を逃れるため1938年12月16日にピストル自殺した(Wikipediaより)

ムジカの自殺を報じる1938年12月17日付のニューヨークタイムズ(一番左の人物がムジカ)

粉飾事件の内容を簡単に書きますと、架空の利益計上(売上)と資産の過大表示(棚卸資産)による帳簿不正事件です。1938年に明るみに出るまで長年に渡り粉飾を続け、マッケソン・ロビンス社の会計監査を担当していた当時最大手の会計事務所プライス・ウォーターハウスも見抜けなかった汚点事件です。この事件は会計事務所がパブリックからのコメント・批評・評価を受けた最初の事件でもあり、事件後には会計事務所が行う企業監査の中身が強化された、というのが一般的な事件の評価です。

プライス・ウォーターハウスの話としてこの事件を取り上げるのは、マッケソン・ロビンス事件により会計事務所の仕事の質が変化するきっかけになったという評価もあるからです。それは、粉飾を見抜けなかった当のプライス・ウォーターハウス自身が分析をしています。

マッケソン・ロビンス事件は、実際、監査人の仕事の性質を変えた。マッケソン・ロビンス事件は監査において会計士が確認すべき範囲と内容を拡大し、監査人の内部統制の定義は、監査企業とその事業全体さらには経営方針のチェックまで含むようになった。 会計システムの監査をするということは、監査人は自らをクライアントの事業運営の診断と問題の解決策を提案する立場に置かれていると考えた。監査改革とともに、会計士によって提供される今日の経営コンサルティングサービスの起源もまたマッケソン・ロビンス事件が残したものだった。

『Accounting for Success』

このように、会計士が財務諸表だけではなくその背後にあるビジネス手順までもを監査すべきという変化が起こりました。その結果として、会計事務所はより広範囲で顧客業務の調査を行うようになり、新しいコンサルティングサービスを生み出す機会につながって行ったと考えることもできます。

次に、もう一つの会計事務所アーサー・アンダーセンの話ですが、こちらは1930年代に開催された二つの万博でのシステム関係のプロジェクトについての話です。

一つは1933年から1934年にかけて、シカゴの湖畔で「進歩の世紀」として開催されたシカゴ万博です。アーサー・アンダーセンはこの博覧会の収益、費用、資本支出を管理するためのシステムを導入するためにプロジェクトに参加していました。もう一つは1939年から1940年にかけてニューヨーク市で開催されたニューヨーク万国博覧会です。アーサー・アンダーセンは博覧会側から管理システムの導入を依頼され、シカゴ万博の会計管理システムの開発で得た経験を大いに生かしてプロジェクトを進めました。

現代の我々の感覚ではシステムプロジェクトとコンサルティングは一体感が強く、会計事務所によるコンサルティングが禁止されているなかでも実践できるシステム関係のプロジェクトは、現代のものとは少し異なっていると考えないといけないでしょう。ただ、1930年代前半のシカゴ万博での実績を買われ、1930年代後半のニューヨーク万博も成功させ、アーサー・アンダーセンはシステム関係のプロジェクトで評価を得たことに違いはありません。そしてそれは、後のビジネスコンピューターの時代にアーサー・アンダーセンがシステムコンサルティングのリーダーになっていく一つの理由と考えることができます。

1930年代はマッキンゼーやブーズ・アレン・ハミルトンといったコンサルティング専門会社が大きく成長した時代でしたが、プライス・ウォーターハウスやアーサー・アンダーセンのような会計事務所にも、後のコンサルティング再参入に向けた道筋を見て取ることができるのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?